未唯への手紙
未唯への手紙
家族という信仰
『ふつうの非婚出産』より
将来の不安? そんなものはない
「経済的なこととか、将来のこととか、不安じゃないんですか?」とよく聞かれる。わたしには将来の不安は一つもない。ここが日本だからだ。食料だって、助けを求めればなんとかなる。西成に行けば簡易宿泊所があって、暴力を受ければシェルターがあって、なんとかなってしまう。
先のことに不安になって、空想にふけって、ひたすら悩むことは簡単だ。子どもが不幸になったらどうしよう。わたしが死んだらどうしよう。
今までにいろんな空想や妄想をしてきたが、考えたって仕方ないことばかりだ。意味がない。世間の人は、「よく考えろ!」といつも考えさせようとばかりするけど、理屈でいくら考えても、実際どうなるかわからない。
産まれてきたひかりさんと関わっていると、悩んでいる暇もなくなった。ひかりさんは急に泣き出すし、うんちが出ればオムツを替える。急に熱を出したり、感染症にかかったりもする。これからは離乳食のことも考えないといけないし、次の予防接種のことも調整しなければいけない。
そんなふうに、自分以外の人間の都合に合わせて生きていると、自分個人のことなんてどうでもよくなってくる。「自分を大事に」ということはその時はその時でよかったが、いかに無駄なことだったかとも思い知らされる。
わたしは洗礼を受けてからというもの、「この体は自分のものであって自分のものではない」という感覚を抱いている。ちょっとスピリチュアルな話になってしまうかもしれないけれど、わたしの行動や発言は、わたしのものであって、わたしのものではない。神様がわたしの体を使って、何かをしているのだと感じるようになった。
こんなことがあった。ある日、1歳になる子どもを抱える友達からLINEが入った。
「道端で子どもとすれ違う度に、『自分はもう後戻りできないんだ。絶対に死ぬことは許されないんだ』と不安になる」
と相談された。
わたしも確かにそういう心配をしたことはあった。今後しばらく死ぬことができないのだなと思ったが、出産前にフジノからこう言われた。
「そんな先のことまで考えたって仕方ないでしょ。もし櫨畑さんが死んだら、僕が責任持って育てますよ。ここは日本だし、なんとかなります。だから、安心して産めばいいですよ」
あまりにもあっけらかんと言い放たれたので、拍子抜けしてしまった。そうか、そういうものか。確かに、わたし一人で抱え込むような問題ではないな、と思った。
シングルマザーは可哀想な存在?
子どもを持たない人から、「赤ちゃん泣かないね」と言われることがある。そう、赤ちゃんは一日中泣いているというイメージがあるかもしれないが、そんなに一日中泣いている赤ちゃんにはあまり出会ったことがない。
もちろんわたしは他の乳児さんもたくさん見ている。実習に行った乳児院で、自分の働く保育園で、そして今はひかりさんの通う保育園で。保育園ではひかりさんはよく泣くほうだ。
昔からの友達が出産して、毎月、同じぐらいの月齢の人たちと月齢を祝う会を開いている。それぞれの個性があるけど、通常赤ちゃんはオムツが濡れて気分の悪いときやお腹が減ったときや要望があるときに、泣いたり叫んだりする。だからあらかじめオムツはちょこちょこ見て替えているし、おっぱいもそろそろだなと思ったらあげる。そうすればあんまり泣くことはない。
「夜も眠れないんでしょ? つらいんでしょ? 大変でしょ? 自分は絶対にできないよ」とか心配してくれる人もいるけど、その子の個性もあるし、やってみないとわからない。ただ「赤ちゃんは一日中泣き喚いていて、子育てはしんどいもの」というイメージはあまりにも画一的すぎると思う。
「シングルマザーは可哀想」なんて口にする人がいるけれど、わたしの周りには一人親で育った人や、小さい頃から親元を離れて暮らした人がたくさんいる。大変な苦労をしてきた人が多い。わたしは、そうした人たちから教わることがたくさんあった。いろんな工夫をして、一生懸命生きているからだ。そもそも他人を可哀想だなんて口に出すこと自体に抵抗がある。
家族という信仰
いろんな人と話してみた結果、なんとなくわかったのは、男の人には「自分の子どもでないと育てられない」という人と、「自分の子どもだとかそんなの関係なくかわいがれる」という人と、ふた通りがいるということだ。
「自分の子どもでないと育てられない」と話す人に聞くと、家を継がなければならない、名前を残さなければならない、と親から言われてきた人が多かった。家制度というものが、血縁以外を受け入れづらくしているのではないかと映る。男性として生まれた人には、大きなプレッシャーが与えられていることを感じてもいる。
わたしが思うに、家族というものは、それぞれの信仰ではないかと思う。
多くの人が、「これがあるべき家族のかたち」というものを信じている。お父さんがいて、お母さんがいて、子どもがいる。子どもが産まれたら、舅や姑が手伝って、親戚付き合いを大事にする。誰かが病気になったらつきっきりで看病し、老後は親族で面倒を見る。それが「普通」だ。
こういう家族であらねば、というふうに信じてきたのだから、今さら「そのかたちではなくてもいい」「こういうかたちもあり」というものを目の当たりにすると、びっくりしてしまうと思う。気に障る人だっているだろうし、ネットで家族に関するトピックが荒れやすいのもそのせいだろう。
保育の専門学校に通っていたとき、マサイくんというクラスメイトがいた。
マサイくんはいつも怒っていて、わたしは彼が何にそんなに腹を立てているのか興味があった。当時の自分とよく似ていたからだ。彼は自分の背の低さをコンプレックスにしていたことをわたしに話してくれた。
ある時、専門学校の授業の中で、「牛乳を当たり前のように給食中に出しているけれど、実際にはカルシウムはそんなに入っていなくて、小魚や昆布のほうがずっとカルシウムを摂ることができる」と話をしてくれた先生がいた。
その話を聞いて、マサイくんは怒った様子で、すぐに教室を出て行った。後から聞くと、「俺は身長が高くなるから牛乳を飲めと言われてきたし、それをずっと信用してきた。だからガブガブ牛乳を飲んだし、牛乳を飲むと背が高くなると信じた。18歳までそう思ってきたのに、急に牛乳がダメだと言われたら、どうしていいかわからない」と呟いた。
信じていたものが崩れ落ちる瞬間というのは、何とも耐えがたいものだ。くだらない話かもしれないけれど、食べ物だけじゃなくて他のことだって一緒だ。自分が大切に思っていた信仰を打ち崩されることは、非常に大きなダメージとなる。
でも、価値観の壁は、ゆるい人たちによって崩されていく。
わたしも当たり前だった価値観が崩れるとき、とても戸惑った。
例えば自分の家として使っている所を、身近な人に開いている「2畳大学」の梅山さん。そしてそれを「住み開き」と定義して広めていく、アサダワタルさん。
店をやるなら儲けるのが当たり前、鍵を閉めるのが当たり前と思っていたのに、借りている店舗を開け放しているフジノ。
驚くような現実を突きつけられながらも、付き合い続けてくれているしょうちゃん。そして目の前でニコニコ笑っているひかりさん。
妊娠したい、出産したい、子育てしたい、というわたしに巻き込まれてくれた、多くの人たち。
これまでに関わってくれた人が多すぎて、一人ひとりの名前は書くことができないけれど、いろんな人のおかげで、わたしを長年苦しめてきた「フツーの価値観」は、この10年ぐらいで、ドンガラガッシャンと打ち崩されてしまったのだ。
わたしが働いていた東京の弁当屋の社長がよく話してくれていた言葉で、「人間は、自分の脳で考えるんじやない、他人の脳で考えるんだよ!」というのがある。
自分一人の脳みそで考えられることなんて、たかが知れている。たくさんの人と話して、たくさんの人の頭の中を借りることが自分を豊かにする。そんな気がするのだ。
将来の不安? そんなものはない
「経済的なこととか、将来のこととか、不安じゃないんですか?」とよく聞かれる。わたしには将来の不安は一つもない。ここが日本だからだ。食料だって、助けを求めればなんとかなる。西成に行けば簡易宿泊所があって、暴力を受ければシェルターがあって、なんとかなってしまう。
先のことに不安になって、空想にふけって、ひたすら悩むことは簡単だ。子どもが不幸になったらどうしよう。わたしが死んだらどうしよう。
今までにいろんな空想や妄想をしてきたが、考えたって仕方ないことばかりだ。意味がない。世間の人は、「よく考えろ!」といつも考えさせようとばかりするけど、理屈でいくら考えても、実際どうなるかわからない。
産まれてきたひかりさんと関わっていると、悩んでいる暇もなくなった。ひかりさんは急に泣き出すし、うんちが出ればオムツを替える。急に熱を出したり、感染症にかかったりもする。これからは離乳食のことも考えないといけないし、次の予防接種のことも調整しなければいけない。
そんなふうに、自分以外の人間の都合に合わせて生きていると、自分個人のことなんてどうでもよくなってくる。「自分を大事に」ということはその時はその時でよかったが、いかに無駄なことだったかとも思い知らされる。
わたしは洗礼を受けてからというもの、「この体は自分のものであって自分のものではない」という感覚を抱いている。ちょっとスピリチュアルな話になってしまうかもしれないけれど、わたしの行動や発言は、わたしのものであって、わたしのものではない。神様がわたしの体を使って、何かをしているのだと感じるようになった。
こんなことがあった。ある日、1歳になる子どもを抱える友達からLINEが入った。
「道端で子どもとすれ違う度に、『自分はもう後戻りできないんだ。絶対に死ぬことは許されないんだ』と不安になる」
と相談された。
わたしも確かにそういう心配をしたことはあった。今後しばらく死ぬことができないのだなと思ったが、出産前にフジノからこう言われた。
「そんな先のことまで考えたって仕方ないでしょ。もし櫨畑さんが死んだら、僕が責任持って育てますよ。ここは日本だし、なんとかなります。だから、安心して産めばいいですよ」
あまりにもあっけらかんと言い放たれたので、拍子抜けしてしまった。そうか、そういうものか。確かに、わたし一人で抱え込むような問題ではないな、と思った。
シングルマザーは可哀想な存在?
子どもを持たない人から、「赤ちゃん泣かないね」と言われることがある。そう、赤ちゃんは一日中泣いているというイメージがあるかもしれないが、そんなに一日中泣いている赤ちゃんにはあまり出会ったことがない。
もちろんわたしは他の乳児さんもたくさん見ている。実習に行った乳児院で、自分の働く保育園で、そして今はひかりさんの通う保育園で。保育園ではひかりさんはよく泣くほうだ。
昔からの友達が出産して、毎月、同じぐらいの月齢の人たちと月齢を祝う会を開いている。それぞれの個性があるけど、通常赤ちゃんはオムツが濡れて気分の悪いときやお腹が減ったときや要望があるときに、泣いたり叫んだりする。だからあらかじめオムツはちょこちょこ見て替えているし、おっぱいもそろそろだなと思ったらあげる。そうすればあんまり泣くことはない。
「夜も眠れないんでしょ? つらいんでしょ? 大変でしょ? 自分は絶対にできないよ」とか心配してくれる人もいるけど、その子の個性もあるし、やってみないとわからない。ただ「赤ちゃんは一日中泣き喚いていて、子育てはしんどいもの」というイメージはあまりにも画一的すぎると思う。
「シングルマザーは可哀想」なんて口にする人がいるけれど、わたしの周りには一人親で育った人や、小さい頃から親元を離れて暮らした人がたくさんいる。大変な苦労をしてきた人が多い。わたしは、そうした人たちから教わることがたくさんあった。いろんな工夫をして、一生懸命生きているからだ。そもそも他人を可哀想だなんて口に出すこと自体に抵抗がある。
家族という信仰
いろんな人と話してみた結果、なんとなくわかったのは、男の人には「自分の子どもでないと育てられない」という人と、「自分の子どもだとかそんなの関係なくかわいがれる」という人と、ふた通りがいるということだ。
「自分の子どもでないと育てられない」と話す人に聞くと、家を継がなければならない、名前を残さなければならない、と親から言われてきた人が多かった。家制度というものが、血縁以外を受け入れづらくしているのではないかと映る。男性として生まれた人には、大きなプレッシャーが与えられていることを感じてもいる。
わたしが思うに、家族というものは、それぞれの信仰ではないかと思う。
多くの人が、「これがあるべき家族のかたち」というものを信じている。お父さんがいて、お母さんがいて、子どもがいる。子どもが産まれたら、舅や姑が手伝って、親戚付き合いを大事にする。誰かが病気になったらつきっきりで看病し、老後は親族で面倒を見る。それが「普通」だ。
こういう家族であらねば、というふうに信じてきたのだから、今さら「そのかたちではなくてもいい」「こういうかたちもあり」というものを目の当たりにすると、びっくりしてしまうと思う。気に障る人だっているだろうし、ネットで家族に関するトピックが荒れやすいのもそのせいだろう。
保育の専門学校に通っていたとき、マサイくんというクラスメイトがいた。
マサイくんはいつも怒っていて、わたしは彼が何にそんなに腹を立てているのか興味があった。当時の自分とよく似ていたからだ。彼は自分の背の低さをコンプレックスにしていたことをわたしに話してくれた。
ある時、専門学校の授業の中で、「牛乳を当たり前のように給食中に出しているけれど、実際にはカルシウムはそんなに入っていなくて、小魚や昆布のほうがずっとカルシウムを摂ることができる」と話をしてくれた先生がいた。
その話を聞いて、マサイくんは怒った様子で、すぐに教室を出て行った。後から聞くと、「俺は身長が高くなるから牛乳を飲めと言われてきたし、それをずっと信用してきた。だからガブガブ牛乳を飲んだし、牛乳を飲むと背が高くなると信じた。18歳までそう思ってきたのに、急に牛乳がダメだと言われたら、どうしていいかわからない」と呟いた。
信じていたものが崩れ落ちる瞬間というのは、何とも耐えがたいものだ。くだらない話かもしれないけれど、食べ物だけじゃなくて他のことだって一緒だ。自分が大切に思っていた信仰を打ち崩されることは、非常に大きなダメージとなる。
でも、価値観の壁は、ゆるい人たちによって崩されていく。
わたしも当たり前だった価値観が崩れるとき、とても戸惑った。
例えば自分の家として使っている所を、身近な人に開いている「2畳大学」の梅山さん。そしてそれを「住み開き」と定義して広めていく、アサダワタルさん。
店をやるなら儲けるのが当たり前、鍵を閉めるのが当たり前と思っていたのに、借りている店舗を開け放しているフジノ。
驚くような現実を突きつけられながらも、付き合い続けてくれているしょうちゃん。そして目の前でニコニコ笑っているひかりさん。
妊娠したい、出産したい、子育てしたい、というわたしに巻き込まれてくれた、多くの人たち。
これまでに関わってくれた人が多すぎて、一人ひとりの名前は書くことができないけれど、いろんな人のおかげで、わたしを長年苦しめてきた「フツーの価値観」は、この10年ぐらいで、ドンガラガッシャンと打ち崩されてしまったのだ。
わたしが働いていた東京の弁当屋の社長がよく話してくれていた言葉で、「人間は、自分の脳で考えるんじやない、他人の脳で考えるんだよ!」というのがある。
自分一人の脳みそで考えられることなんて、たかが知れている。たくさんの人と話して、たくさんの人の頭の中を借りることが自分を豊かにする。そんな気がするのだ。
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