未唯への手紙
未唯への手紙
ベルリン封鎖 スターリンの戦術
『「戦勝国」アメリカの敗北』より
四月に始まったベルリンヘのアクセス制限は、西側の反応をテストするスターリンの戦術だった。アメリカが西ベルリン防衛にどれほどの本気度を見せるかのリトマス試験紙だった。米英は四月、封鎖が始まると、ダグラスC47及び同型のダグラスダコタ輸送機(英空軍)を使ってベルリン空輸を開始した。日に八〇トンのミルク、野菜、卵などの生鮮食料品を運んだ。この時期の輸送作戦は「リトルリフト」と呼ばれる小規模なものであった。この作戦を日本の都市を空から焼き尽くしたカーチス・ルメイ将軍が指揮した。
スターリンは四月のアクセス制限で、二つのことを確認した。西側連合国はソビエトとの本格的軍事衝突は望んでいないこと、ベルリンを封鎖した場合、空輸による対応をとることであった。空輸は確かにその効果を発揮したが、全面的にベルリンを封鎖した場合、二〇〇万市民のための生活物資を満たすためには日々四〇〇〇トン以上の物資を運び入れなくてはならない。それを実現するには、日々一五〇〇回のフライトが必要であった。
そんなことが出来るはずもなかった。ペルリンを封鎖すれば、米国も英国もいずれ音を上げ、西ベルリン市民はソビエトに頼らざるを得ない。そうなれば、いかに彼らがソビエト支配を嫌おうが膝を屈する。東欧諸国の反ソビエト勢力にも心理的な圧力をかけられる。どれほどソビエトに抵抗しようが、西側諸国は彼らを助けにはこない。そのように思わせ、抵抗の精神を奪うのである。それがスターリンの狙いだった。四月一七日、スターリンには次のような報告が寄せられた。
「クレイ将軍の、ベルリンと西側占領地域を結ぶ空輸作戦は、失敗であることが確認された。アメリカ軍は空輸はあまりにコストがかかると結論付けた」
スターリンがヨーロッパ各地に忍ばせたスパイ網からもこれを裏付ける報告が上がっていた。しかし米英軍は、本格的な封鎖を覚悟した対策を練っていた。まずベルリンにおける石炭の備蓄を増やした。鉄道で運ばれる石炭は三月には一四五一トンだったが、四月一万六二トン、五月一万四四三トン、六月半ばの封鎖までには四七四九トンを運んだ。軍需品も四月五九二九トン、五月六〇二〇トン、六月(前半)三一五一トンと増量した。また空輸の帰りの便を使い、余剰と思われる人員をベルリンから運び出して「口減らし」した。
米英両国は西側占領地域においては新通貨を流通させることも決めた。通貨改革については四カ国外相会議で協議されたが、ソビエト側は通貨発行権をソビエト側も持つことを主張して譲らなかった。四月の嫌がらせも西側が提案した通貨改革が引き金であった。
六月一八日、西側連合国は、「西ベルリンを除いた」西側占領地域では同月二〇日を以て新紙幣に切りかえると通知した。もちろんこの時点で、西ベルリンには新紙幣は密かに搬入済であったが、ソビエトの対ベルリン強硬策を警戒して西ベルリンでの貨幣政策には触れていない。それでもソビエトは憤った。ホワイトの画策で紙幣の印刷原版も手に入れた。貨幣発行権を握ることで、ドイツの富を収奪する仕組みが出来ていた。その仕組みを崩されることを嫌った。
ソビエトが本格的にベルリン封鎖を開始したのは翌一九日のことであった。この日、客車や乗用車による人の移動に規制をかけた。二一日には西側占領地域からベルリンに向かう軍用列車を止めた。二二日には、ソビエト占領地域に残された列車にソビエト製機関車を連結し、無理やり西側に戻した。この日、四カ国は新通貨政策について最後の協議を実施した。ソビエトは、自ら準備した新通貨をベルリン全市に適用すると主張したが、西側は西ベルリンでは西側新紙幣を使用すると譲らず、協議は不調に終わった。六月二四日、ソコロフスキー元帥はベルリンヘの陸路、水路によるアクセスを完全に遮断すると警告し、翌日には食料品の西ベルリン供給を止めた。
「この時のソビエトは、西ベルリンをソビエトに明け渡す以外に西側諸国が取る道はないと確信していた。食糧と燃料を遮断すれば、西側連合国軍は西ベルリンから退去せざるを得ない。ベルリンヘの空輸作戦など成功するはずはないと考えていた」
しかしトルーマンは覚悟を決めていた。空輸作戦を何としてでも成功させる、そうしなければ、民主主義を守ると始めたあの戦争の大義が完全に嘘だったことがばれてしまうのである。
既に東欧諸国でのソビエトの振る舞いからそのことはうすうす気づかれてはいたが、ここで西ベルリンを救わなければ、もはや世界への、そしてアメリカ国民へのいかなる「言い訳」もできない。ナチスドイツもソビエトも苛烈な全体主義国家であった。米英両国はそれにもかかわらずヒトラー憎しの感情だけが先に立ち、何の議論もなくソビエトを連合国の一員に加えた。西ベルリンだけは救うことで、あの戦争は民主主義を救うための戦いであったという建前をかろうじて言い張ることができる。ソビエトの横暴は、彼らが戦後心変わりしたとでもいえばなんとか取り繕うことができる。
この頃、ソビエトはメディアを動員して、何もできないアメリカを嘲り、ソビエト体制の優位性を訴えるプロパガンダを加速させていた。共産主義思想の拡散はどうしても止めておかねばならなかった。もし何の抵抗もできない輸送機をソビエトが攻撃することがあれば、第三次世界大戦の始まりを意味した。トルーマンはそれを覚悟した。ただそうなった場合、戦争を始めたのはソビエトなのである。アメリカには責任はない。
先に書いたように、西ベルリンヘの空路だけは、ソビエトとの合意文書が残っており有効だった。西ベルリン市民を支えるための空輸量の計算を担当したのは英国であった。英国はドイツとの長い戦いの経験があり、配給制度のプロがいた。一人が一日当たり一七〇〇キロカロリーを費消する想定で導き出された数字は、日々一五〇〇トンの食糧と二五〇〇トンの燃料が必要になるというものであった。つまり四〇〇〇トンの物資を毎日西ベルリンに運ばなくてはならないことがわかったのである。
ベルリンヘの本格的空輸作戦は六月二六日から始まった。しかし空輸できる量は日に一〇〇〇トンが限界だった。米国は各地から輸送機をかき集め、本国に帰国していたパイロットを再び招集した。
四月に始まったベルリンヘのアクセス制限は、西側の反応をテストするスターリンの戦術だった。アメリカが西ベルリン防衛にどれほどの本気度を見せるかのリトマス試験紙だった。米英は四月、封鎖が始まると、ダグラスC47及び同型のダグラスダコタ輸送機(英空軍)を使ってベルリン空輸を開始した。日に八〇トンのミルク、野菜、卵などの生鮮食料品を運んだ。この時期の輸送作戦は「リトルリフト」と呼ばれる小規模なものであった。この作戦を日本の都市を空から焼き尽くしたカーチス・ルメイ将軍が指揮した。
スターリンは四月のアクセス制限で、二つのことを確認した。西側連合国はソビエトとの本格的軍事衝突は望んでいないこと、ベルリンを封鎖した場合、空輸による対応をとることであった。空輸は確かにその効果を発揮したが、全面的にベルリンを封鎖した場合、二〇〇万市民のための生活物資を満たすためには日々四〇〇〇トン以上の物資を運び入れなくてはならない。それを実現するには、日々一五〇〇回のフライトが必要であった。
そんなことが出来るはずもなかった。ペルリンを封鎖すれば、米国も英国もいずれ音を上げ、西ベルリン市民はソビエトに頼らざるを得ない。そうなれば、いかに彼らがソビエト支配を嫌おうが膝を屈する。東欧諸国の反ソビエト勢力にも心理的な圧力をかけられる。どれほどソビエトに抵抗しようが、西側諸国は彼らを助けにはこない。そのように思わせ、抵抗の精神を奪うのである。それがスターリンの狙いだった。四月一七日、スターリンには次のような報告が寄せられた。
「クレイ将軍の、ベルリンと西側占領地域を結ぶ空輸作戦は、失敗であることが確認された。アメリカ軍は空輸はあまりにコストがかかると結論付けた」
スターリンがヨーロッパ各地に忍ばせたスパイ網からもこれを裏付ける報告が上がっていた。しかし米英軍は、本格的な封鎖を覚悟した対策を練っていた。まずベルリンにおける石炭の備蓄を増やした。鉄道で運ばれる石炭は三月には一四五一トンだったが、四月一万六二トン、五月一万四四三トン、六月半ばの封鎖までには四七四九トンを運んだ。軍需品も四月五九二九トン、五月六〇二〇トン、六月(前半)三一五一トンと増量した。また空輸の帰りの便を使い、余剰と思われる人員をベルリンから運び出して「口減らし」した。
米英両国は西側占領地域においては新通貨を流通させることも決めた。通貨改革については四カ国外相会議で協議されたが、ソビエト側は通貨発行権をソビエト側も持つことを主張して譲らなかった。四月の嫌がらせも西側が提案した通貨改革が引き金であった。
六月一八日、西側連合国は、「西ベルリンを除いた」西側占領地域では同月二〇日を以て新紙幣に切りかえると通知した。もちろんこの時点で、西ベルリンには新紙幣は密かに搬入済であったが、ソビエトの対ベルリン強硬策を警戒して西ベルリンでの貨幣政策には触れていない。それでもソビエトは憤った。ホワイトの画策で紙幣の印刷原版も手に入れた。貨幣発行権を握ることで、ドイツの富を収奪する仕組みが出来ていた。その仕組みを崩されることを嫌った。
ソビエトが本格的にベルリン封鎖を開始したのは翌一九日のことであった。この日、客車や乗用車による人の移動に規制をかけた。二一日には西側占領地域からベルリンに向かう軍用列車を止めた。二二日には、ソビエト占領地域に残された列車にソビエト製機関車を連結し、無理やり西側に戻した。この日、四カ国は新通貨政策について最後の協議を実施した。ソビエトは、自ら準備した新通貨をベルリン全市に適用すると主張したが、西側は西ベルリンでは西側新紙幣を使用すると譲らず、協議は不調に終わった。六月二四日、ソコロフスキー元帥はベルリンヘの陸路、水路によるアクセスを完全に遮断すると警告し、翌日には食料品の西ベルリン供給を止めた。
「この時のソビエトは、西ベルリンをソビエトに明け渡す以外に西側諸国が取る道はないと確信していた。食糧と燃料を遮断すれば、西側連合国軍は西ベルリンから退去せざるを得ない。ベルリンヘの空輸作戦など成功するはずはないと考えていた」
しかしトルーマンは覚悟を決めていた。空輸作戦を何としてでも成功させる、そうしなければ、民主主義を守ると始めたあの戦争の大義が完全に嘘だったことがばれてしまうのである。
既に東欧諸国でのソビエトの振る舞いからそのことはうすうす気づかれてはいたが、ここで西ベルリンを救わなければ、もはや世界への、そしてアメリカ国民へのいかなる「言い訳」もできない。ナチスドイツもソビエトも苛烈な全体主義国家であった。米英両国はそれにもかかわらずヒトラー憎しの感情だけが先に立ち、何の議論もなくソビエトを連合国の一員に加えた。西ベルリンだけは救うことで、あの戦争は民主主義を救うための戦いであったという建前をかろうじて言い張ることができる。ソビエトの横暴は、彼らが戦後心変わりしたとでもいえばなんとか取り繕うことができる。
この頃、ソビエトはメディアを動員して、何もできないアメリカを嘲り、ソビエト体制の優位性を訴えるプロパガンダを加速させていた。共産主義思想の拡散はどうしても止めておかねばならなかった。もし何の抵抗もできない輸送機をソビエトが攻撃することがあれば、第三次世界大戦の始まりを意味した。トルーマンはそれを覚悟した。ただそうなった場合、戦争を始めたのはソビエトなのである。アメリカには責任はない。
先に書いたように、西ベルリンヘの空路だけは、ソビエトとの合意文書が残っており有効だった。西ベルリン市民を支えるための空輸量の計算を担当したのは英国であった。英国はドイツとの長い戦いの経験があり、配給制度のプロがいた。一人が一日当たり一七〇〇キロカロリーを費消する想定で導き出された数字は、日々一五〇〇トンの食糧と二五〇〇トンの燃料が必要になるというものであった。つまり四〇〇〇トンの物資を毎日西ベルリンに運ばなくてはならないことがわかったのである。
ベルリンヘの本格的空輸作戦は六月二六日から始まった。しかし空輸できる量は日に一〇〇〇トンが限界だった。米国は各地から輸送機をかき集め、本国に帰国していたパイロットを再び招集した。
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