未唯への手紙
未唯への手紙
『歴史哲学講義』の「イスラム教」記述
『歴史哲学講義』より キリスト教とゲルマン世界の諸要素 2012年6月16日に収録 ⇒ ヘーゲルは「フランス革命」までだった。イスラムについての記述の前半は的を得ているが、十字軍前に留まっている。
こちら側ヨーロッパでは、新しい世界の形成がはじまり、さまざまな民族が定住の地を得て、全面的な文明開化にむけて自由な現実をつくりはじめ、手はじめに、すべての社会関係をばらばらにし、本来は一般的な規則や単純な原理原則としてまとめられるべきものを、不明瞭な、視野の狭い感覚でもって、あれこれの場当り的なとりきめや複雑怪奇な関係のほうにもっていこうとしているとき、要するに、西洋が偶然と紛糾と分散へとむかいはじめたとき、それとは正反対の方向をなす、全体の統合をめざす動きが東洋の革命として登場してきます。それは、すべての分散や従属をたたきこわし、気分を完全に明晰純粋なものにし、抽象的な一なる神を絶対の対象とするとともに、この一なる神だけを純粋に意識し知るをもって、現実の唯一の目的とするものです。社会関係をもたないことが真に現実を生きるゆえんだというのです。
東洋の原理の性質については、以前にすでに論じたところで、そこでは、最高の原理がもっぱら現実否定の形をとるばかりで、あえて肯定面をとりだせば、自然への沈潜と、この世での精神の隷属とが、現実肯定といえる側面をもつにすぎなかった。ただ、ユダヤ人だけは単純な一の原理を思想にまで高めているので、かれらだけは、思考のとらえる一なる神を尊敬していたのでした。イスラム教の一は抽象的な精神へと純化されていく途上にあるものといえますが、エホバ崇拝につきまとう民族的特殊性はぬけだしています。エホバはュダヤ民族だけの神であり、アブラハムとイサクとヤコブの神であって、この神はユダヤ人とだけ契約をむすび、この民族にだけすがたをあらわすのですから。こうした民族的特殊性は、イスラム教では、ぬぐいとられています。
制約も限定もうけない精神が、どこまでも純粋に広がるというなかで、主体は、この広がりと純粋さを実現するという以外の目的をもちません。アラーの神は、ユダヤの神がもっていた限定つきの積極的な目的をもはやもたない。一なる神の崇拝がイスラム教の唯一の目的で、主体は一なる神を崇拝することと、一なる神に世俗の一切を従属させることだけを活動の内容とします。この一なる神はたしかに精神的な存在ではあるが、主体がこの対象のうちに埋没していく以上、一なる神からはすべての具体的内容がぬけおちていき、主体は、精神的に自立した自由な存在ともいえないし、その対象が具体性をもつともいえない。しかし、イスラム教徒は、インド人や修道僧のように絶対の神に沈潜していくわけではなく、主体には生き生きとした無限の活動力があるので、それをもって世俗の領域に踏みこみ、一なる神が純粋に崇拝されることを唯一の目標にかかげつつ、俗事を否定したり実行したり調整したりするのです。
イスラム教の対象は純粋な知の対象であって、形のある像はなく、アラーのイメージを思いえがくことはゆるされません。マホメットは預言者ですが、人間であることにかわりはなく、人間の弱点をたくさんもっています。イスラム教の根本理念は、現実には確固たる根拠などどこにもなく、一切が生きて活動しつつ無限の遠くへと動いていて、それら一切をつなぎとめる絆としては一なる神の崇拝しかない、というものです。一なる神の広がりと力のなかで、すべての制約、すべての民族上、階級上の区別は、消えうせる。氏素姓も、家柄や財産にまつわる政治的権利も、なんの価値もなく、価値のあるのは信仰の有無だけです。一なる神を崇拝し、信仰し、食を断ち、肉体的な快楽をすて、財産の一部を喜捨するごとーイスラム教の命令はこうした単純明快な形をとるものですが、最高の功績は信仰のために死ぬことであって、信仰上のたたかいで死んだ人には天国が約束されます。
イスラム教の起源はアラビアにあります。アラビア人の精神は単純そのもので、形なき感覚が身についています。砂漠には人工のものはなにもありませんから。マホメットがメッカをのがれた六二二年が、イスラム教の紀元元年です。マホメットの生前はかれの指導のもとで、死後は後継者の指導のもとで、アラビア人は巨大な征服をなしとげました。かれらはまずシリアを征服し、六三四年に首都ダマスクスを占領します。ついで、チグリス=ユーフラテス川をこえてペルシャを攻撃し、まもなくペルシャを征服します。西にむかってはエジプト、北アフリカ、スペインを征服し、南フランスのロアール川まで進出しましたが、七三二年、トウール=ポワティエのたたかいでカール・マルテル軍に敗北します。で、そこまでが西方のアラビアの領土となりますが、東方では、すでにいったように、ペルシャ、サマルカンド、小アジア南西部がつぎつぎに占領されます。これらの征服と、それにともなう宗教の普及は、異常な速さで進行しました。イスラム教に改宗したものは、すべてのイスラム教徒とまったく同等の権利をあたえられました。改宗しないものは最初のころは殺されましたが、のちには、被征服者にたいするアラビア人の措置がゆるやかになって、イスラム教に改宗したくないものは年毎に一定の人頭税を払うだけでいいことになった。すすんで服従を申し出た都市は全財産の十分の一か税としてとりたてられ、武力で占領された都市は五分のIがとりたてられました。
イスラム教徒を支配するのは抽象的情熱です。かれらの目標は抽象的な崇拝を広めることであり、そのためにかれらは全情熱をふりしぼる。この情熱は狂信といえるもので、抽象的なものへの情熱、現存体制となんのかかわりももたない抽象思想への情熱です。狂信は、その本質からして、具体的ななにかをやみくもに破壊しようとするところにかろうじてなりたつものだが、イスラム教徒の狂信は同時に崇高さにあふれていて、それは、せせこましい利害にとらわれることがまったくなく、人間味ゆたかな寛容や勇気がいたるところに見られます。ロベスピエールは「自由と恐怖政治」を原理としましたが、イスラム教の原理は、「宗教と恐怖政治」です。しかし、現実の生活は具体的なものであり、特殊な目的を追求するものですから、一国を征服すれば、支配権と富、王族の権利、個人間のつながりができてきます。が、そうした一切は偶然のはかないものにすぎず、きょうはあっても、あしたにはなくなるかもしれない。イスラム教徒の情熱はそんなものにはまったく無頓着で、運を天にまかせてつぎなる征服へと突きすすみます。イスラム教の普及の途上で多くの王国や王朝が建設されたが、無限の大海を行く征服の旅はとどまるところを知らず、根拠地はどこにもなく、さざ波が一定の形をとるかに見えても、透明さをうしなわぬ波は大海へと溶けこんでいく。王朝はしっかりとした機構によってささえられることがなく、したがって王国も悪化の一途をたどるばかりで、個々人のすがたもしだいに消えていきます。
しかし、大海に波頭がたつように高貴な魂が民衆のなかにたちあらわれると、その自由なすがたは、ならぶもののない高貴さ、大らかさ、勇敢さ、覚悟の固さをしめします。特定のなにかが個人の心をとらえたとなると、個人は徹底してそれにこだわります。ヨーロッパ人がさまざまな社会関係をむすび、その網の目のなかで生きるのにたいして、イスラム教徒はひとりのこの個人として生き、しかも最上級の残酷さ、ずるさ、勇気、大らかさをもっています。愛の感情がめばえると、それは、なりふりかまわず深みへと突きすすむものとなる。奴隷を愛した君主は、愛の対象を賛美するために、一切の栄光と権力と名誉をその奴隷にささげ、王笏も玉座もわすれてしまう。が、反対に、相手を容赦なく犠牲にしてしまうこともある。こうしたなりふりかまわぬ思いいれは、アラビア人やサラセン人の灼熱の詩にも見てとれます。この灼熱は、なにものにもとらわれぬ空想のまったき自由をしめすもので、人びとは、はげしい思いいれのなかでひたすらその対象や感情の生命と一体化し、いかなる我欲も利己心ももたないのです。
けれども、熱狂だけでは大事業は成就できない。個々人がさまざまな形の大望に熱狂することはあるし、独立をもとめる一民族の熱狂が一定の目標をかかげることさえある。が、抽象的であるがゆえにすべてを包括し、なにものにもさまたげられず、どこにも踏みとどまることなく、なにものも必要としない熱狂--それが東洋イスラム教の熱狂なのです。
アラビア人は、征服事業も速やかでしたが、芸術や学問もまたたくまに全盛期をむかえます。征服者たちは、手はじめに、既成の芸術と学問をすべて破壊します。すばらしいアレクサンドリア図書館を破壊したのはオマール(ウマル)だといわれます。そこの本に書かれていることは、『コーラン』に書いてあることか、それとも、それとはちがう内容のことか、そのどちらかで、どっちにしろなくていいものだ、というのがかれのいい草です。が、いつのまにかアラビア人は芸術と学問をもち、それをいたるところにおしひろげようとします。サラセン帝国はアル=マンスールとハルン=アル=ラシッドがカリフのとき最盛期をむかえ、交易や商売のさかんな大都市が帝国各地につくられ、豪華な宮殿がたてられ、学校が整備され、帝国の学者がカリフの宮廷にあつまって、宮廷は、最高価の宝石や器具や宮殿でもって外形をかざりたてられただけでなく、花やかな詩と広範な学問が大いに栄えました。もっとも、初期のカリフたちは、砂漠に住むアラビア人に固有の単純率直さをもっていて(その点でとくに有名なのが初代カリフ・アブトバクルです)、地位の上下や教養のちがいにこだわらなかったのですが。サラセン人のどんなに下賤な男女でも、カリフと対等につきあっていた。あけっぴろげな無邪気さは教養を必要とせず、各人はまったく気楽に支配者と対等なつきあいをしていたのです。
カリフの大帝国は、全体をささえる確固たる共同体精神をもたなかったがために、長つづきはしなかった。アラビア人の大帝国は、フランク王国とほぽおなじころに滅亡し、王位は奴隷たちや、新来のセルジュク人やモンゴル人によってたおされ、新しい王国が建設され、新しい王朝がうまれました。最終的にオスマン人が確固たる支配権の確立に成功しますが、それは、ヤニチャール(サルタン親衛兵)を国の中核部隊として組織できたことによります。狂信からさめると、アラビア人の情緒のなかにはもはやいかなる共同の原理もなかったのです。
サラセン人とのたたかいのなかで、ヨーロッパ人の勇気は理想化され、美しく高貴な騎士道をうみだしました。学問と知識、とくに哲学の知識が、アラビアから西洋にやってくる。東洋に住むゲルマン人は高貴な詩情と自由な空想心に火をつけられる。ゲーテまでもが東洋に目をむけ、比類のない、真率で幸福な空想にあふれた、珠玉の作品『西東詩集』をつくったのです。
激情が徐々に消えたあと、東洋は自堕落の極におちこみ、醜悪きわまる欲望が幅をきかせ、イスラム教の教理にはじめからつきまとい、天国でかならずあたえられると約束された感覚的な快楽が、狂信にかわって大きくあらわれてきます。イスラム教徒は、現在は、アジアとアフリカに追いかえされ、ヨーロッパでは、キリスト教の勢力間の嫉妬心のおかげでかろうじてその一角に位置を占めるにすぎませんが、もうはるか以前に世界史の舞台からは退場し、東洋ふうのくつろぎと安定の境地にたちかえっています。
こちら側ヨーロッパでは、新しい世界の形成がはじまり、さまざまな民族が定住の地を得て、全面的な文明開化にむけて自由な現実をつくりはじめ、手はじめに、すべての社会関係をばらばらにし、本来は一般的な規則や単純な原理原則としてまとめられるべきものを、不明瞭な、視野の狭い感覚でもって、あれこれの場当り的なとりきめや複雑怪奇な関係のほうにもっていこうとしているとき、要するに、西洋が偶然と紛糾と分散へとむかいはじめたとき、それとは正反対の方向をなす、全体の統合をめざす動きが東洋の革命として登場してきます。それは、すべての分散や従属をたたきこわし、気分を完全に明晰純粋なものにし、抽象的な一なる神を絶対の対象とするとともに、この一なる神だけを純粋に意識し知るをもって、現実の唯一の目的とするものです。社会関係をもたないことが真に現実を生きるゆえんだというのです。
東洋の原理の性質については、以前にすでに論じたところで、そこでは、最高の原理がもっぱら現実否定の形をとるばかりで、あえて肯定面をとりだせば、自然への沈潜と、この世での精神の隷属とが、現実肯定といえる側面をもつにすぎなかった。ただ、ユダヤ人だけは単純な一の原理を思想にまで高めているので、かれらだけは、思考のとらえる一なる神を尊敬していたのでした。イスラム教の一は抽象的な精神へと純化されていく途上にあるものといえますが、エホバ崇拝につきまとう民族的特殊性はぬけだしています。エホバはュダヤ民族だけの神であり、アブラハムとイサクとヤコブの神であって、この神はユダヤ人とだけ契約をむすび、この民族にだけすがたをあらわすのですから。こうした民族的特殊性は、イスラム教では、ぬぐいとられています。
制約も限定もうけない精神が、どこまでも純粋に広がるというなかで、主体は、この広がりと純粋さを実現するという以外の目的をもちません。アラーの神は、ユダヤの神がもっていた限定つきの積極的な目的をもはやもたない。一なる神の崇拝がイスラム教の唯一の目的で、主体は一なる神を崇拝することと、一なる神に世俗の一切を従属させることだけを活動の内容とします。この一なる神はたしかに精神的な存在ではあるが、主体がこの対象のうちに埋没していく以上、一なる神からはすべての具体的内容がぬけおちていき、主体は、精神的に自立した自由な存在ともいえないし、その対象が具体性をもつともいえない。しかし、イスラム教徒は、インド人や修道僧のように絶対の神に沈潜していくわけではなく、主体には生き生きとした無限の活動力があるので、それをもって世俗の領域に踏みこみ、一なる神が純粋に崇拝されることを唯一の目標にかかげつつ、俗事を否定したり実行したり調整したりするのです。
イスラム教の対象は純粋な知の対象であって、形のある像はなく、アラーのイメージを思いえがくことはゆるされません。マホメットは預言者ですが、人間であることにかわりはなく、人間の弱点をたくさんもっています。イスラム教の根本理念は、現実には確固たる根拠などどこにもなく、一切が生きて活動しつつ無限の遠くへと動いていて、それら一切をつなぎとめる絆としては一なる神の崇拝しかない、というものです。一なる神の広がりと力のなかで、すべての制約、すべての民族上、階級上の区別は、消えうせる。氏素姓も、家柄や財産にまつわる政治的権利も、なんの価値もなく、価値のあるのは信仰の有無だけです。一なる神を崇拝し、信仰し、食を断ち、肉体的な快楽をすて、財産の一部を喜捨するごとーイスラム教の命令はこうした単純明快な形をとるものですが、最高の功績は信仰のために死ぬことであって、信仰上のたたかいで死んだ人には天国が約束されます。
イスラム教の起源はアラビアにあります。アラビア人の精神は単純そのもので、形なき感覚が身についています。砂漠には人工のものはなにもありませんから。マホメットがメッカをのがれた六二二年が、イスラム教の紀元元年です。マホメットの生前はかれの指導のもとで、死後は後継者の指導のもとで、アラビア人は巨大な征服をなしとげました。かれらはまずシリアを征服し、六三四年に首都ダマスクスを占領します。ついで、チグリス=ユーフラテス川をこえてペルシャを攻撃し、まもなくペルシャを征服します。西にむかってはエジプト、北アフリカ、スペインを征服し、南フランスのロアール川まで進出しましたが、七三二年、トウール=ポワティエのたたかいでカール・マルテル軍に敗北します。で、そこまでが西方のアラビアの領土となりますが、東方では、すでにいったように、ペルシャ、サマルカンド、小アジア南西部がつぎつぎに占領されます。これらの征服と、それにともなう宗教の普及は、異常な速さで進行しました。イスラム教に改宗したものは、すべてのイスラム教徒とまったく同等の権利をあたえられました。改宗しないものは最初のころは殺されましたが、のちには、被征服者にたいするアラビア人の措置がゆるやかになって、イスラム教に改宗したくないものは年毎に一定の人頭税を払うだけでいいことになった。すすんで服従を申し出た都市は全財産の十分の一か税としてとりたてられ、武力で占領された都市は五分のIがとりたてられました。
イスラム教徒を支配するのは抽象的情熱です。かれらの目標は抽象的な崇拝を広めることであり、そのためにかれらは全情熱をふりしぼる。この情熱は狂信といえるもので、抽象的なものへの情熱、現存体制となんのかかわりももたない抽象思想への情熱です。狂信は、その本質からして、具体的ななにかをやみくもに破壊しようとするところにかろうじてなりたつものだが、イスラム教徒の狂信は同時に崇高さにあふれていて、それは、せせこましい利害にとらわれることがまったくなく、人間味ゆたかな寛容や勇気がいたるところに見られます。ロベスピエールは「自由と恐怖政治」を原理としましたが、イスラム教の原理は、「宗教と恐怖政治」です。しかし、現実の生活は具体的なものであり、特殊な目的を追求するものですから、一国を征服すれば、支配権と富、王族の権利、個人間のつながりができてきます。が、そうした一切は偶然のはかないものにすぎず、きょうはあっても、あしたにはなくなるかもしれない。イスラム教徒の情熱はそんなものにはまったく無頓着で、運を天にまかせてつぎなる征服へと突きすすみます。イスラム教の普及の途上で多くの王国や王朝が建設されたが、無限の大海を行く征服の旅はとどまるところを知らず、根拠地はどこにもなく、さざ波が一定の形をとるかに見えても、透明さをうしなわぬ波は大海へと溶けこんでいく。王朝はしっかりとした機構によってささえられることがなく、したがって王国も悪化の一途をたどるばかりで、個々人のすがたもしだいに消えていきます。
しかし、大海に波頭がたつように高貴な魂が民衆のなかにたちあらわれると、その自由なすがたは、ならぶもののない高貴さ、大らかさ、勇敢さ、覚悟の固さをしめします。特定のなにかが個人の心をとらえたとなると、個人は徹底してそれにこだわります。ヨーロッパ人がさまざまな社会関係をむすび、その網の目のなかで生きるのにたいして、イスラム教徒はひとりのこの個人として生き、しかも最上級の残酷さ、ずるさ、勇気、大らかさをもっています。愛の感情がめばえると、それは、なりふりかまわず深みへと突きすすむものとなる。奴隷を愛した君主は、愛の対象を賛美するために、一切の栄光と権力と名誉をその奴隷にささげ、王笏も玉座もわすれてしまう。が、反対に、相手を容赦なく犠牲にしてしまうこともある。こうしたなりふりかまわぬ思いいれは、アラビア人やサラセン人の灼熱の詩にも見てとれます。この灼熱は、なにものにもとらわれぬ空想のまったき自由をしめすもので、人びとは、はげしい思いいれのなかでひたすらその対象や感情の生命と一体化し、いかなる我欲も利己心ももたないのです。
けれども、熱狂だけでは大事業は成就できない。個々人がさまざまな形の大望に熱狂することはあるし、独立をもとめる一民族の熱狂が一定の目標をかかげることさえある。が、抽象的であるがゆえにすべてを包括し、なにものにもさまたげられず、どこにも踏みとどまることなく、なにものも必要としない熱狂--それが東洋イスラム教の熱狂なのです。
アラビア人は、征服事業も速やかでしたが、芸術や学問もまたたくまに全盛期をむかえます。征服者たちは、手はじめに、既成の芸術と学問をすべて破壊します。すばらしいアレクサンドリア図書館を破壊したのはオマール(ウマル)だといわれます。そこの本に書かれていることは、『コーラン』に書いてあることか、それとも、それとはちがう内容のことか、そのどちらかで、どっちにしろなくていいものだ、というのがかれのいい草です。が、いつのまにかアラビア人は芸術と学問をもち、それをいたるところにおしひろげようとします。サラセン帝国はアル=マンスールとハルン=アル=ラシッドがカリフのとき最盛期をむかえ、交易や商売のさかんな大都市が帝国各地につくられ、豪華な宮殿がたてられ、学校が整備され、帝国の学者がカリフの宮廷にあつまって、宮廷は、最高価の宝石や器具や宮殿でもって外形をかざりたてられただけでなく、花やかな詩と広範な学問が大いに栄えました。もっとも、初期のカリフたちは、砂漠に住むアラビア人に固有の単純率直さをもっていて(その点でとくに有名なのが初代カリフ・アブトバクルです)、地位の上下や教養のちがいにこだわらなかったのですが。サラセン人のどんなに下賤な男女でも、カリフと対等につきあっていた。あけっぴろげな無邪気さは教養を必要とせず、各人はまったく気楽に支配者と対等なつきあいをしていたのです。
カリフの大帝国は、全体をささえる確固たる共同体精神をもたなかったがために、長つづきはしなかった。アラビア人の大帝国は、フランク王国とほぽおなじころに滅亡し、王位は奴隷たちや、新来のセルジュク人やモンゴル人によってたおされ、新しい王国が建設され、新しい王朝がうまれました。最終的にオスマン人が確固たる支配権の確立に成功しますが、それは、ヤニチャール(サルタン親衛兵)を国の中核部隊として組織できたことによります。狂信からさめると、アラビア人の情緒のなかにはもはやいかなる共同の原理もなかったのです。
サラセン人とのたたかいのなかで、ヨーロッパ人の勇気は理想化され、美しく高貴な騎士道をうみだしました。学問と知識、とくに哲学の知識が、アラビアから西洋にやってくる。東洋に住むゲルマン人は高貴な詩情と自由な空想心に火をつけられる。ゲーテまでもが東洋に目をむけ、比類のない、真率で幸福な空想にあふれた、珠玉の作品『西東詩集』をつくったのです。
激情が徐々に消えたあと、東洋は自堕落の極におちこみ、醜悪きわまる欲望が幅をきかせ、イスラム教の教理にはじめからつきまとい、天国でかならずあたえられると約束された感覚的な快楽が、狂信にかわって大きくあらわれてきます。イスラム教徒は、現在は、アジアとアフリカに追いかえされ、ヨーロッパでは、キリスト教の勢力間の嫉妬心のおかげでかろうじてその一角に位置を占めるにすぎませんが、もうはるか以前に世界史の舞台からは退場し、東洋ふうのくつろぎと安定の境地にたちかえっています。
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