未唯への手紙
未唯への手紙
哲学は「放り出された存在」から始まる
『哲学者図鑑』より 未唯宇宙に関係する考え方のみをアップ。私が好きなのは、放り出された存在
ベンサム 快楽の量を計算して、それが最大になればよいのだ ⇒ 最大多数の最大幸福をめざすには?
ミル 快楽にもいろいろ種類があるけれど、高級な快楽をめざせ! ⇒ やみくもに快楽計算をしてもダメ?
ジェイムズ 実際的な効果があれば真理だから、とりあえずやっとけ ⇒ 結果が出ていればそれは正しいことだ
デューイ 使える哲学と使えない哲学があるから、とっかえひっかえ使え ⇒ 知識や思考は道具だから結果に価値がある
マルクス 「歴史のゴールは共産主義社会だ」というシナリオがある ⇒ 歴史は決まったストーリーで進む
キルケゴール 心の中で納得できる自分にとっての真実をみつけよう ⇒ 私がそのために死ねるような真理とは?
ニーチェ 自分が力をもてるような考え方を、人は「真実」だと信じ込む ⇒ ひねくれないで素直に力を発揮しろ
フッサール 自分の心にインタビューすると真実がみえてくる ⇒ エポケー(判断中止)でリアルな世界がわかる
ヤスパース 人間は乗り越えられない壁にぶつかってこそわかることがある ⇒ 限界状況に追い込まれるとわかること
サルトル 人間は自分で自分をつくっていく存在なのだ ⇒ 実存は本質に先立つってどういうこと?
レヴィナス 「顔」が語りかけてくるメッセージは「汝、殺すことなかれ」 ⇒ 他人は思い通りにならないものだ
アラン 幸福になろうと努力しなければ、幸福にはなれない ⇒ 上機嫌であることは義務である
ハーバーマス コミュニケーション的理性の可能性 ⇒ コミュニケーションで道を開く
ネグリ、ハート 新たな敵である〈帝国〉に対抗する方法 ⇒ グローバリゼーションってどういうこと?
ハンナ・アーレント 無思想であることが、実は悪を生み出している ⇒ 人間が人間として生きる活動とは?
ハイデガー 死ぬってことが生きているうちにわかる方法とは? ⇒ 私の「死」と他人の「死」は違う
私たちは、何かの目標をクリアしたときに、「やったぞ!」という達成感を感じます。しかし、そこで目標が終わるわけではなく、また次の課題が生じて、それを乗り越えていきます。となると、最終的な達成感は、すくなくとも人生の経過の中にはないでしょう。では、達成されるのはいつか? それは人生の最後です。その最後とは「死」です。つまり人生のゴールは死であって、そのときにこそ、人生は完成し「本当の自分のあり方(本来性)」がとりもどせるはずです。
じゃあ、「死に際が肝心なのか?」というとそうではありません。なぜなら、死に際では、まだ生きていますから。だったら、死んだあと「死んだぞ、ゴールだ!」と思うのか。それは無理です。死んだら自分かいません。人間は死を俐験できないということになります。死が人生のゴールといえども、これを理解するのは実に難しいことです。
もちろん、死亡に関するニュースなどを頻繁に耳にすることでしょう。それは、「私」という主観が「対象(客観)」としての「死」を認識したにすぎません。自分自身が死んでいる状態を、生きている自分にわかるわけがないのです。死をとらえるのは至難の業です。ハイデガーは、現象学という哲学の手法で「存在論」を展開し、死についての分析を行いました。
まず、死においては、失うものと失われるものとがまったく同じ存在です。「スマホをなくした」とか「定期をなくした」などの「なくす」は、自分ではない存在です。ところが「死」においては、なくすものとなくなったものが同じなのです。
また、私たちの日常のできごとは順番の入れ替えができます。社会人になってから、大学に入ってもいいのです。老化でさえときに、多少の努力で若返ること(若く見せること)などもできるでしょう。ところが、「死」については確実に順番が決まっていて、必ず最後に来ます。自分の死を通り越して、その未来から振り返って、自分が経験した死をながめることはできないのです(死の乗り越え不可能性)。
たとえば、学校の卒業式は今まで生きてきた人生の1つの成就を祝う行事でしょう。ところが、人生全体のゴール、人生の卒業式が「死」です。
「死」においては成就した瞬間に、その参加者が消えてしまうのです。ビルを建てていて、完成した瞬間に崩れるなんてことはないでしょう。でも、「死」だけは、人生の最後の最後、まさにゴール、成就の瞬間に全部なくなってしまうのです。
また、自分の死を他の誰かに、代わってもらうわけにはいきません。自分の死は、自らで引き受けます。
こんな「死についての分析」を聞かされると、気分が落ち込んでくるかもしれません。けれども、ハイデガーは、「死への存在」が本来の自分たりうるあり方なのですから、死の覚悟によって、本来の自己をとりもどすべきことを説きます(死への先駆的決意性)。
死から目をそらすのではなく、自分の死がまだ訪れていない今から、そのあり方を直視することで、瞬間が輝いてくるのです。
メルロ・ポンティ 身体について、哲学したらこうなった! ⇒ 触れあうことで存在がわかる
哲学の世界では、他人の食べているラーメンの味が、なぜ自分も同じようにわかるのかというささいなことが問題とされます。自分が他人になりきることも他人が自分になりきることもできないのですから、ラーメンの味は「この自分だけのもの」という結論に至ります。「感情移入」でわかるという説明もあるのですが、それもあくまで自分の経験で他人の味覚を推測しているだけです(他人のラーメンの味も自分のラーメンの味から推測しているだけ)。これでは、自分の主観が他人に移動しただけにすぎないので、自分のコピーが他人として外に存在していることになります。この世界には私しか存在していないという恐ろしい話になりそうです(独我論)。どうしたら、私たちは他人のリアルな気持ちにもっと近づくことができるのでしょうか。哲学では、これを「他者問題」といいます。
メルロ・ポンティは、この「他者問題」に1つの解決を与えています。彼は、私の生きられたまま、知覚されたままの現実世界を「現象野」とよびました。そして、現象野を生きる主体は「自己の身体」であると考えたのです。
私たちが体をもっているのは当たり前のことですが、その当たり前のことから哲学にもっていくところがすごかったのでした(それ以前の哲学は精神からスタートしていたから)。頭でっかちになると、「自分は精神的存在だ」と思ってしまうのですが、確かに、体なくして自分の存在はありません。
ウィトゲンシュタイン 語れないことについては沈黙するしかない ⇒ 哲学的な難題は消滅した?
ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』を執筆して、いったん哲学の世界から身を引きました。なぜかというと、この書によって哲学のすべての問題が解決したと考えたからです。すべての問題というのは、「ギリシア時代のソクラテスから全部です。哲学史をぶった切り!」という感じです。
ウィトゲンシュタインの哲学は、言葉自体を論理的に分析するという点てそれまでの哲学とまったく異なるものでした。今までの哲学は、その哲学の内容を批判するという形で続いていました。たとえば、「プラトンの哲学をアリストテレスが批判する」という形で、哲学が発展してきたのです。
ところが、哲学とは言葉によってつくられるわけですから、もし言葉の使い方が間違っていたら、根本的に全部間違いということになります。ウィトゲンシュタインは、過去の哲学が、言葉の使い方を論理的に間違えていたので、全部アウトと判定したのでした。「人生の目的はなにか」「生きる意味は?」「人はなにをするべきか」などの哲学的な問いは、その問い自体が間違っていたというのです。
この『論理哲学論考』の論理体系を支えているのは、「写像理論」です。ウィトゲンシュタインによると、世界と言語は、いわばコインの表裏のように切り離すことはできません。言葉と世界が並行関係をもっていることになります。言葉が世界を正確に写しているとするならば、言葉の使い方を分析することで、世界を正しくとらえているかどうかが明らかになるでしょう。逆に、ヘンな言葉の使い方をすれば、文自体が無意味になってしまいます。
「運命はあるんだろうか」「真実の愛とはなにか」「なんのために生きてるのかな」などは、「写像理論」によると、言葉に対応していない対象について論じていますから、問題自体が意味をなさないインチキ質問ということになります。
今までのほとんどの哲学が否定されるのですから、元も子もありません。過去の哲学(形而上学)の問題は語っても無意味。というわけで、ウィトゲンシュタインは『論考』のラストを「語りえぬものについては沈黙しなければならない」で締めくくりました。
ベンサム 快楽の量を計算して、それが最大になればよいのだ ⇒ 最大多数の最大幸福をめざすには?
ミル 快楽にもいろいろ種類があるけれど、高級な快楽をめざせ! ⇒ やみくもに快楽計算をしてもダメ?
ジェイムズ 実際的な効果があれば真理だから、とりあえずやっとけ ⇒ 結果が出ていればそれは正しいことだ
デューイ 使える哲学と使えない哲学があるから、とっかえひっかえ使え ⇒ 知識や思考は道具だから結果に価値がある
マルクス 「歴史のゴールは共産主義社会だ」というシナリオがある ⇒ 歴史は決まったストーリーで進む
キルケゴール 心の中で納得できる自分にとっての真実をみつけよう ⇒ 私がそのために死ねるような真理とは?
ニーチェ 自分が力をもてるような考え方を、人は「真実」だと信じ込む ⇒ ひねくれないで素直に力を発揮しろ
フッサール 自分の心にインタビューすると真実がみえてくる ⇒ エポケー(判断中止)でリアルな世界がわかる
ヤスパース 人間は乗り越えられない壁にぶつかってこそわかることがある ⇒ 限界状況に追い込まれるとわかること
サルトル 人間は自分で自分をつくっていく存在なのだ ⇒ 実存は本質に先立つってどういうこと?
レヴィナス 「顔」が語りかけてくるメッセージは「汝、殺すことなかれ」 ⇒ 他人は思い通りにならないものだ
アラン 幸福になろうと努力しなければ、幸福にはなれない ⇒ 上機嫌であることは義務である
ハーバーマス コミュニケーション的理性の可能性 ⇒ コミュニケーションで道を開く
ネグリ、ハート 新たな敵である〈帝国〉に対抗する方法 ⇒ グローバリゼーションってどういうこと?
ハンナ・アーレント 無思想であることが、実は悪を生み出している ⇒ 人間が人間として生きる活動とは?
ハイデガー 死ぬってことが生きているうちにわかる方法とは? ⇒ 私の「死」と他人の「死」は違う
私たちは、何かの目標をクリアしたときに、「やったぞ!」という達成感を感じます。しかし、そこで目標が終わるわけではなく、また次の課題が生じて、それを乗り越えていきます。となると、最終的な達成感は、すくなくとも人生の経過の中にはないでしょう。では、達成されるのはいつか? それは人生の最後です。その最後とは「死」です。つまり人生のゴールは死であって、そのときにこそ、人生は完成し「本当の自分のあり方(本来性)」がとりもどせるはずです。
じゃあ、「死に際が肝心なのか?」というとそうではありません。なぜなら、死に際では、まだ生きていますから。だったら、死んだあと「死んだぞ、ゴールだ!」と思うのか。それは無理です。死んだら自分かいません。人間は死を俐験できないということになります。死が人生のゴールといえども、これを理解するのは実に難しいことです。
もちろん、死亡に関するニュースなどを頻繁に耳にすることでしょう。それは、「私」という主観が「対象(客観)」としての「死」を認識したにすぎません。自分自身が死んでいる状態を、生きている自分にわかるわけがないのです。死をとらえるのは至難の業です。ハイデガーは、現象学という哲学の手法で「存在論」を展開し、死についての分析を行いました。
まず、死においては、失うものと失われるものとがまったく同じ存在です。「スマホをなくした」とか「定期をなくした」などの「なくす」は、自分ではない存在です。ところが「死」においては、なくすものとなくなったものが同じなのです。
また、私たちの日常のできごとは順番の入れ替えができます。社会人になってから、大学に入ってもいいのです。老化でさえときに、多少の努力で若返ること(若く見せること)などもできるでしょう。ところが、「死」については確実に順番が決まっていて、必ず最後に来ます。自分の死を通り越して、その未来から振り返って、自分が経験した死をながめることはできないのです(死の乗り越え不可能性)。
たとえば、学校の卒業式は今まで生きてきた人生の1つの成就を祝う行事でしょう。ところが、人生全体のゴール、人生の卒業式が「死」です。
「死」においては成就した瞬間に、その参加者が消えてしまうのです。ビルを建てていて、完成した瞬間に崩れるなんてことはないでしょう。でも、「死」だけは、人生の最後の最後、まさにゴール、成就の瞬間に全部なくなってしまうのです。
また、自分の死を他の誰かに、代わってもらうわけにはいきません。自分の死は、自らで引き受けます。
こんな「死についての分析」を聞かされると、気分が落ち込んでくるかもしれません。けれども、ハイデガーは、「死への存在」が本来の自分たりうるあり方なのですから、死の覚悟によって、本来の自己をとりもどすべきことを説きます(死への先駆的決意性)。
死から目をそらすのではなく、自分の死がまだ訪れていない今から、そのあり方を直視することで、瞬間が輝いてくるのです。
メルロ・ポンティ 身体について、哲学したらこうなった! ⇒ 触れあうことで存在がわかる
哲学の世界では、他人の食べているラーメンの味が、なぜ自分も同じようにわかるのかというささいなことが問題とされます。自分が他人になりきることも他人が自分になりきることもできないのですから、ラーメンの味は「この自分だけのもの」という結論に至ります。「感情移入」でわかるという説明もあるのですが、それもあくまで自分の経験で他人の味覚を推測しているだけです(他人のラーメンの味も自分のラーメンの味から推測しているだけ)。これでは、自分の主観が他人に移動しただけにすぎないので、自分のコピーが他人として外に存在していることになります。この世界には私しか存在していないという恐ろしい話になりそうです(独我論)。どうしたら、私たちは他人のリアルな気持ちにもっと近づくことができるのでしょうか。哲学では、これを「他者問題」といいます。
メルロ・ポンティは、この「他者問題」に1つの解決を与えています。彼は、私の生きられたまま、知覚されたままの現実世界を「現象野」とよびました。そして、現象野を生きる主体は「自己の身体」であると考えたのです。
私たちが体をもっているのは当たり前のことですが、その当たり前のことから哲学にもっていくところがすごかったのでした(それ以前の哲学は精神からスタートしていたから)。頭でっかちになると、「自分は精神的存在だ」と思ってしまうのですが、確かに、体なくして自分の存在はありません。
ウィトゲンシュタイン 語れないことについては沈黙するしかない ⇒ 哲学的な難題は消滅した?
ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』を執筆して、いったん哲学の世界から身を引きました。なぜかというと、この書によって哲学のすべての問題が解決したと考えたからです。すべての問題というのは、「ギリシア時代のソクラテスから全部です。哲学史をぶった切り!」という感じです。
ウィトゲンシュタインの哲学は、言葉自体を論理的に分析するという点てそれまでの哲学とまったく異なるものでした。今までの哲学は、その哲学の内容を批判するという形で続いていました。たとえば、「プラトンの哲学をアリストテレスが批判する」という形で、哲学が発展してきたのです。
ところが、哲学とは言葉によってつくられるわけですから、もし言葉の使い方が間違っていたら、根本的に全部間違いということになります。ウィトゲンシュタインは、過去の哲学が、言葉の使い方を論理的に間違えていたので、全部アウトと判定したのでした。「人生の目的はなにか」「生きる意味は?」「人はなにをするべきか」などの哲学的な問いは、その問い自体が間違っていたというのです。
この『論理哲学論考』の論理体系を支えているのは、「写像理論」です。ウィトゲンシュタインによると、世界と言語は、いわばコインの表裏のように切り離すことはできません。言葉と世界が並行関係をもっていることになります。言葉が世界を正確に写しているとするならば、言葉の使い方を分析することで、世界を正しくとらえているかどうかが明らかになるでしょう。逆に、ヘンな言葉の使い方をすれば、文自体が無意味になってしまいます。
「運命はあるんだろうか」「真実の愛とはなにか」「なんのために生きてるのかな」などは、「写像理論」によると、言葉に対応していない対象について論じていますから、問題自体が意味をなさないインチキ質問ということになります。
今までのほとんどの哲学が否定されるのですから、元も子もありません。過去の哲学(形而上学)の問題は語っても無意味。というわけで、ウィトゲンシュタインは『論考』のラストを「語りえぬものについては沈黙しなければならない」で締めくくりました。
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