未唯への手紙
未唯への手紙
震災は日本を変えたのか 地方自治体の学んだ教訓とつかんだ機会
『3.11 震災は日本を変えたのか』より 地方自治体の再活用 窓は開かれた 地方自治体における変化のナラティブ
三・一一という大災害は、論争の的である地方行政改革--地方分権、地方自治、地域化---をめぐる議論にふたたび火を付けた。日本のある大都市の幹部職員は三・一一の主な教訓として、こう語った。「これまで継承されてきた、中央から都道府県、都道府県から市町村、という三層のモデルは機能しませんでした。地方が地方を助けるために団結せざるを得なかったのです」。兵庫県の井戸知事はこれに同意し、ペアリング支援制度は全国で制度化されるだろうと示唆した。しかし、地方自治体が学んだ教訓を生かすために、法改正や、法的指針さえも待つつもりはないのは明らかだった。政府が教訓を求めて三・一一についての調査を行なっているあいだに、地方自治体は事実上、防災と災害対応のプログラム強化に乗り出したのだぺ。徳島県知事の飯泉嘉門は全国知事会の会議で、その理由を、全体のビジョンを確立すべき政府が自分の果たすべき役割を決定できない以上、それをする責任は知事にあるからだと説明した訥。
だが知事たち、とくに東北の知事からは、行政改革のためにふさわしい教訓とはなにか、よくわからないという声も上がっている。全員が「カウンターパート方式」に前向きで、宮城県の村井知事や福島県の佐藤知事は、この制度が早急に全国的に確立されるよう呼びかけた。だが、地域全体の行政改革を「時期尚早」と判断しつつ、より東北の状況にかなうのは関西のような広域連合か、それとも道州制なのかという点では意見が割れている。ローカル化への改革がより望まれているときに、東北広域連合を設立しても単に政府の計画のための「受け皿」になるだけではないか、という懸念の声もある。これと同じ分裂が、道州制への展望についても見られる。村井知事が、道州制を将来、住民の助言も仰いで導入することがきわめて重要になると述べたのに対し、秋田県知事の佐竹敬久は、道州制は権力集中の新たな形態を招くのではないかとの懸念を示した。一方、地方公務員は、三・一一によって中央政府と地方との関係が今まさに転換しつつあることが明らかになったとはいえ、中央政府の役割はまだ存在すると認めている。ある岩手県復興局計画担当者は構造的問題について、縦割り行政は相変わらず県にとって問題で、土地利用、財政、港湾管理といった、中央省庁の権限の重複に対処すべき分野はとくにそうだと述べたが、三・一一によって、各県の横や斜めの結び付きはかつてないほどに強まっていると明言した。ある専門家は、日本は地方レベルで政策の効率化に向かって「じわじわと」進んできたが、新たな協力体制に向けては疾走してきたと説明する。その体制が、三・一一当時、混乱した政府とは裏腹に早急な対応を可能にしたのだに。総務省が二〇』三会計年度予算要求で「カウンターパート支援」に一五億円を割り当てたことによって、その混乱はようやく少しは落ち着いたようだ宍。
これについては、二○一二年三月に内閣府の中央防災会議が中間報告を行なっている。ほぼ一年がかりのその調査は、主に政府機関の当面の危機対応に対する評価と、(それまでにおなじみになっていた)情報伝達、救援物資の輸送、人員、燃料供給、避難所、医療における障害をつきとめることに焦点を当てたものだった。その報告書は、災害対応の改善のために増えつづける勧告で埋め尽くされた。それは、災害時には、政府、地方自治体、民間企業、個人それぞれが不特定の役割と責任を負うものと結論づけ、最終報告書では詳述されていないものの、法改正が望ましいとしている。だが、危機管理における中央と地方の関係の大きな変化については、ほとんど述べられていない。三・一一から一年以上たち、日本は総合的な分析を待ちつづけていた。
その分析が政治に後れをとったのは、あの災害に見舞われたのが地方自治体にとってとりわけ不安定な時期だったからだ。二〇一一年六月、総務省の諮問委員会は、府県に政府機能を持たせることでより大きな権限を委譲する方法について報告を出した。そこでは、地方自治法を改正し、震災後の救援に主導的役割を果たした広域連合にさらなる権限を与えることが提案されている円たしかに、出だしでつまずき数十年がすぎて、大衆主義のリーダーらはすでにイニシアチブを取りはじめていたが、三こ一によって彼らの反中央というメッセージはより伝わりやすくなった。名古屋市では、元衆議院議員で、二〇〇九年に反中央の声を上げて地方レペルヘ移行した河村市長が、地域政党「減税日本」の共同設立者となり、二〇一一年二月には民主党の対立候補の三倍の票を得て再選された。河村は地方自治体の首長のなかでも、もっとも精力的に三・一一後の東北を支援した一人だ。だが、地方行政についてもっとも耳目を集める抗議を申し立てたのは、河村と類似した志向を持つ橋下徹だった。前大阪府知事の橋下は、地方行政改革を掲げて二〇一一年一一月に大阪市長となった。多くの知事とは違い、橋下は道州制を擁護している。「道州制という大号令をかけるしかない。しかし道州制など、口でいうだけではなにも進まない」
また別のところで橋下は、改革が進まない理由として、中央省庁は東京にあり、各役所の役人はどうしても東京からの視点でしかモノを考えられないからだと述べた。彼はこう提案する。「地方のことは、地方に任せることが最良の策なのです。なぜならその地のことは、そこに生まれ、そこで生活する人間がいちばんよくわかっているからです。言葉が悪くなりますが、今すべての地方は霞ケ関に『隷属』しているような状況です」宍。この問題に少なからぬ効果を及ぼすために(あるいは政治上の盟友を見きわめる試金石として)、橋下は二〇一二年初頭、「大阪維新の会」という政党を立ち上げ、維新政治塾という政治教育の場をつくった。国政レベルで、自民党や民主党に対抗する候補者を養成するためだ。橋下の人気は、三・一一の直接的な結果ではないが、三・一一は彼に力を貸した。彼の政党のマニフェストは、三・一一がくっきりと浮き彫りにした、いくつかの問題にまともに向き合っている。そのマニフェストとは、道州制を擁護し、地方交付税制の代わりに消費税を地方税化し、大阪市と大阪府の統合を目指し、原子力発電の廃止を訴え、憲法改正により総理大臣の直接選挙と参議院の廃止を求めるものだ。かなりの批判(ヒトラーやムッソリーニとの比較から、既存の政治家らに「ファシモト」と呼ばれることもあった)にもかかわらず、橋下は三・一一後、日本でもっとも注目された政治家となった。彼の努力は、地方自治法の改正に賛成する自民党や民主党の支持者を刺激した。その改正とは、地域連携の強化だけでなく、ある程度以上の規模のすべての市に都道府県の権限を持たせることだ。これほど広い分野にわたって、地方の力を国の力に変換することを迫った者は、これまでだれもいなかった。しかしまた同時に、地方行政がここまで多くの日本人にとって大問題になったことも、これまでほとんどなかったのだ。
三・一一という大災害は、論争の的である地方行政改革--地方分権、地方自治、地域化---をめぐる議論にふたたび火を付けた。日本のある大都市の幹部職員は三・一一の主な教訓として、こう語った。「これまで継承されてきた、中央から都道府県、都道府県から市町村、という三層のモデルは機能しませんでした。地方が地方を助けるために団結せざるを得なかったのです」。兵庫県の井戸知事はこれに同意し、ペアリング支援制度は全国で制度化されるだろうと示唆した。しかし、地方自治体が学んだ教訓を生かすために、法改正や、法的指針さえも待つつもりはないのは明らかだった。政府が教訓を求めて三・一一についての調査を行なっているあいだに、地方自治体は事実上、防災と災害対応のプログラム強化に乗り出したのだぺ。徳島県知事の飯泉嘉門は全国知事会の会議で、その理由を、全体のビジョンを確立すべき政府が自分の果たすべき役割を決定できない以上、それをする責任は知事にあるからだと説明した訥。
だが知事たち、とくに東北の知事からは、行政改革のためにふさわしい教訓とはなにか、よくわからないという声も上がっている。全員が「カウンターパート方式」に前向きで、宮城県の村井知事や福島県の佐藤知事は、この制度が早急に全国的に確立されるよう呼びかけた。だが、地域全体の行政改革を「時期尚早」と判断しつつ、より東北の状況にかなうのは関西のような広域連合か、それとも道州制なのかという点では意見が割れている。ローカル化への改革がより望まれているときに、東北広域連合を設立しても単に政府の計画のための「受け皿」になるだけではないか、という懸念の声もある。これと同じ分裂が、道州制への展望についても見られる。村井知事が、道州制を将来、住民の助言も仰いで導入することがきわめて重要になると述べたのに対し、秋田県知事の佐竹敬久は、道州制は権力集中の新たな形態を招くのではないかとの懸念を示した。一方、地方公務員は、三・一一によって中央政府と地方との関係が今まさに転換しつつあることが明らかになったとはいえ、中央政府の役割はまだ存在すると認めている。ある岩手県復興局計画担当者は構造的問題について、縦割り行政は相変わらず県にとって問題で、土地利用、財政、港湾管理といった、中央省庁の権限の重複に対処すべき分野はとくにそうだと述べたが、三・一一によって、各県の横や斜めの結び付きはかつてないほどに強まっていると明言した。ある専門家は、日本は地方レベルで政策の効率化に向かって「じわじわと」進んできたが、新たな協力体制に向けては疾走してきたと説明する。その体制が、三・一一当時、混乱した政府とは裏腹に早急な対応を可能にしたのだに。総務省が二〇』三会計年度予算要求で「カウンターパート支援」に一五億円を割り当てたことによって、その混乱はようやく少しは落ち着いたようだ宍。
これについては、二○一二年三月に内閣府の中央防災会議が中間報告を行なっている。ほぼ一年がかりのその調査は、主に政府機関の当面の危機対応に対する評価と、(それまでにおなじみになっていた)情報伝達、救援物資の輸送、人員、燃料供給、避難所、医療における障害をつきとめることに焦点を当てたものだった。その報告書は、災害対応の改善のために増えつづける勧告で埋め尽くされた。それは、災害時には、政府、地方自治体、民間企業、個人それぞれが不特定の役割と責任を負うものと結論づけ、最終報告書では詳述されていないものの、法改正が望ましいとしている。だが、危機管理における中央と地方の関係の大きな変化については、ほとんど述べられていない。三・一一から一年以上たち、日本は総合的な分析を待ちつづけていた。
その分析が政治に後れをとったのは、あの災害に見舞われたのが地方自治体にとってとりわけ不安定な時期だったからだ。二〇一一年六月、総務省の諮問委員会は、府県に政府機能を持たせることでより大きな権限を委譲する方法について報告を出した。そこでは、地方自治法を改正し、震災後の救援に主導的役割を果たした広域連合にさらなる権限を与えることが提案されている円たしかに、出だしでつまずき数十年がすぎて、大衆主義のリーダーらはすでにイニシアチブを取りはじめていたが、三こ一によって彼らの反中央というメッセージはより伝わりやすくなった。名古屋市では、元衆議院議員で、二〇〇九年に反中央の声を上げて地方レペルヘ移行した河村市長が、地域政党「減税日本」の共同設立者となり、二〇一一年二月には民主党の対立候補の三倍の票を得て再選された。河村は地方自治体の首長のなかでも、もっとも精力的に三・一一後の東北を支援した一人だ。だが、地方行政についてもっとも耳目を集める抗議を申し立てたのは、河村と類似した志向を持つ橋下徹だった。前大阪府知事の橋下は、地方行政改革を掲げて二〇一一年一一月に大阪市長となった。多くの知事とは違い、橋下は道州制を擁護している。「道州制という大号令をかけるしかない。しかし道州制など、口でいうだけではなにも進まない」
また別のところで橋下は、改革が進まない理由として、中央省庁は東京にあり、各役所の役人はどうしても東京からの視点でしかモノを考えられないからだと述べた。彼はこう提案する。「地方のことは、地方に任せることが最良の策なのです。なぜならその地のことは、そこに生まれ、そこで生活する人間がいちばんよくわかっているからです。言葉が悪くなりますが、今すべての地方は霞ケ関に『隷属』しているような状況です」宍。この問題に少なからぬ効果を及ぼすために(あるいは政治上の盟友を見きわめる試金石として)、橋下は二〇一二年初頭、「大阪維新の会」という政党を立ち上げ、維新政治塾という政治教育の場をつくった。国政レベルで、自民党や民主党に対抗する候補者を養成するためだ。橋下の人気は、三・一一の直接的な結果ではないが、三・一一は彼に力を貸した。彼の政党のマニフェストは、三・一一がくっきりと浮き彫りにした、いくつかの問題にまともに向き合っている。そのマニフェストとは、道州制を擁護し、地方交付税制の代わりに消費税を地方税化し、大阪市と大阪府の統合を目指し、原子力発電の廃止を訴え、憲法改正により総理大臣の直接選挙と参議院の廃止を求めるものだ。かなりの批判(ヒトラーやムッソリーニとの比較から、既存の政治家らに「ファシモト」と呼ばれることもあった)にもかかわらず、橋下は三・一一後、日本でもっとも注目された政治家となった。彼の努力は、地方自治法の改正に賛成する自民党や民主党の支持者を刺激した。その改正とは、地域連携の強化だけでなく、ある程度以上の規模のすべての市に都道府県の権限を持たせることだ。これほど広い分野にわたって、地方の力を国の力に変換することを迫った者は、これまでだれもいなかった。しかしまた同時に、地方行政がここまで多くの日本人にとって大問題になったことも、これまでほとんどなかったのだ。
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