『キリスト教哲学入門』より 存在と本質
宇宙の現実存在は神の現実存在かなくては知解不可能であるか、一度神を存在の純粋なはたらきとして措定するやいなや、理性は宇宙の現実存在を説明するために困惑することになる。宇宙は神がなければ十分なものでぱないか、神は宇宙がなくても十分に満ち足りている。すでに無限のはたらきとしてそれ自体で措定されている〈存在〉以外に、他の事物の可能性をどうすれば考えることができるだろうか。
この問いに対して単純かつ明晰な答えを期待すべきではない。理由の一つには、その問いが存在に関わるからであり、さらにまた神の自由という神秘にも関わっているからである。これこそ、この問いの正しい理解を見失わないためのもう一つの理由である。探究の出発点となるのは、人間、が一部をなしている自然の世界であり、だからこそ人間は自分の現実存在の第一原因を必要とするのであり、哲学者たちは神の存在へと至る主要な五つの道を見つけたのである。さらなる困難がわれわれを待ち受けていようとも、純粋で、無限で、完全に単純なる〈存在〉の現実存在と、ほかのあらゆるものの原因を否定することはできない。この宇宙か存在するのだから、このような存在による産出はたしかに可能なのである。問題として残るのは、この可能性の論拠を探究することである。
乗り越えられるべき困難は、ここで扱われている神学〔トマス神学〕においてはとりわげ重大なものとなる。そこでは、第一原因か本質の次元を超越しているのである。ここでの問題は、異なる本質が付加されることができないような存在をから、いかにして本質か流出して、存在と合成体を構成しうるのかということである。問題がこのように表現されると、われわれは答えを探究すべき方向か見えてくる。もし神が、本質の次元に、たとえその頂点においてであれ、置かれるならば、神の外部に被造物の世界を見いだすことは、不可能ではないとしても、きわめて困難になってしまう。無限なものに何も付加されることはありえないし、またそこから差し引かれることもない。ライプニッツが述べたように、「一つの神だけか存在し、そしてこの神だけで十分なのである」。われわれはそこに次のように付け加えることもできる。〈神はそれ自体で満ち足りている〉と。しかしここで、われわれは、神の概念が、全被造物を包含する本質の次元をまったく超越しているということから出発する。ここから神と被造物のあいだには、付加や削減といった問題は生じないことを結論することができる。諸存在者と〈存在〉は共約不可能なのである。ここでは想像力の幻影が避けられるべき疑似問題を作り出してしまっているのである。
問題の根底にまで沈潜すると、理性はすぐさま次のように確信するようになる。つまり、これは、明晰かつ判明な観念からなる形而上学では、満足できる解決に到達しがたい困難の一つなのである。精神は何性的な概念を糧にしていて、その概念の対象は本質なので、精神は、一方か本質で、他方が本質を超えるような二つの項のあいだの関係を、満足できる用語で表現することかできない。精神はたしかに存在のはたらきを概念把握するか、その概念は何性的なものではない。何性的な概念となるものがあっても、それは、定義された存在へと至るような場合だけだからである。本質と存在との関係という問題を扱う場合、したがって精神は、初めから内容が完全には表象にもたらしえないょうな結論で諦めるべきなのである。われわれにおける存在の表象不可能性は、神が表象不可能であることにょって投げ与えられた陰のごときものなのである。
するとわれわれに残されたのは、本質を存在のなかに吸収しなから、本質を超越するものからいかにして本質か生じるかを探究することである。現代の哲学者は、昔の形而上学者を、存在の問題に明確に取り組むことなく、存在者の問題に滞留しつづけたとして批判している。たぶん、われわれはこの批判の正確な意味を誤解してきたのだろう。というのも、プラトンからトマス・アクィナス、そして現代に至るまで、最も深遠な形而上学者たちは、本質の起源と原因に至るためには、本質の次元を超えていく必要性を感じてきた、ということがわれわれにはむしろ真理と思われるからだ。他の事情がどうであれ、存在の形而上学とは、存在者の次元に留まることを明確に拒否し、存在の起源となる存在の次元へと邁進する存在論の典型例である。たしかに、いったん形而上学者かその場に足を踏み入れれば、存在者の言語を用いないで存在を語ることを避けたりはしないが、そのことで彼を非難する人たちはまさに同様の誤りを犯すことになる。もし誤りが二つであったならば、彼らは同じ誤りを犯していることになるだろう。しかしそれは同じ一つの誤りだというわけではない。誤りとなっているのは、ただひたすら以下のことだ。つまり、今こそ存在(恥を)を語る好機であると言うかわりに、明日になったらそれについて真面目に語ることにしようということなのだ。知性は、本質の用語という、一つの用語しか持っていない。本質を超えてあるものについて誰も語ることはできない。ただ、本質を超えるものかあることと、本質を超えるものが他のあらゆるものの源泉であることは別だが。しかしその本質を超えてあるものを知ることと、それについて語ることは必要である。というのは、本質を存在と取り違えることは、形而上学を脅かす誤りの最も深刻な原因の一つだからである。形而上学者の反省の頂点は、存在者が存在の分有としてしか考えられないときに与えられる。存在そのもの、存在かはたらきをなしているところの存在者の本質に巻き込まれている仕方でなければ、その姿は捉えられないのである。
宇宙の現実存在は神の現実存在かなくては知解不可能であるか、一度神を存在の純粋なはたらきとして措定するやいなや、理性は宇宙の現実存在を説明するために困惑することになる。宇宙は神がなければ十分なものでぱないか、神は宇宙がなくても十分に満ち足りている。すでに無限のはたらきとしてそれ自体で措定されている〈存在〉以外に、他の事物の可能性をどうすれば考えることができるだろうか。
この問いに対して単純かつ明晰な答えを期待すべきではない。理由の一つには、その問いが存在に関わるからであり、さらにまた神の自由という神秘にも関わっているからである。これこそ、この問いの正しい理解を見失わないためのもう一つの理由である。探究の出発点となるのは、人間、が一部をなしている自然の世界であり、だからこそ人間は自分の現実存在の第一原因を必要とするのであり、哲学者たちは神の存在へと至る主要な五つの道を見つけたのである。さらなる困難がわれわれを待ち受けていようとも、純粋で、無限で、完全に単純なる〈存在〉の現実存在と、ほかのあらゆるものの原因を否定することはできない。この宇宙か存在するのだから、このような存在による産出はたしかに可能なのである。問題として残るのは、この可能性の論拠を探究することである。
乗り越えられるべき困難は、ここで扱われている神学〔トマス神学〕においてはとりわげ重大なものとなる。そこでは、第一原因か本質の次元を超越しているのである。ここでの問題は、異なる本質が付加されることができないような存在をから、いかにして本質か流出して、存在と合成体を構成しうるのかということである。問題がこのように表現されると、われわれは答えを探究すべき方向か見えてくる。もし神が、本質の次元に、たとえその頂点においてであれ、置かれるならば、神の外部に被造物の世界を見いだすことは、不可能ではないとしても、きわめて困難になってしまう。無限なものに何も付加されることはありえないし、またそこから差し引かれることもない。ライプニッツが述べたように、「一つの神だけか存在し、そしてこの神だけで十分なのである」。われわれはそこに次のように付け加えることもできる。〈神はそれ自体で満ち足りている〉と。しかしここで、われわれは、神の概念が、全被造物を包含する本質の次元をまったく超越しているということから出発する。ここから神と被造物のあいだには、付加や削減といった問題は生じないことを結論することができる。諸存在者と〈存在〉は共約不可能なのである。ここでは想像力の幻影が避けられるべき疑似問題を作り出してしまっているのである。
問題の根底にまで沈潜すると、理性はすぐさま次のように確信するようになる。つまり、これは、明晰かつ判明な観念からなる形而上学では、満足できる解決に到達しがたい困難の一つなのである。精神は何性的な概念を糧にしていて、その概念の対象は本質なので、精神は、一方か本質で、他方が本質を超えるような二つの項のあいだの関係を、満足できる用語で表現することかできない。精神はたしかに存在のはたらきを概念把握するか、その概念は何性的なものではない。何性的な概念となるものがあっても、それは、定義された存在へと至るような場合だけだからである。本質と存在との関係という問題を扱う場合、したがって精神は、初めから内容が完全には表象にもたらしえないょうな結論で諦めるべきなのである。われわれにおける存在の表象不可能性は、神が表象不可能であることにょって投げ与えられた陰のごときものなのである。
するとわれわれに残されたのは、本質を存在のなかに吸収しなから、本質を超越するものからいかにして本質か生じるかを探究することである。現代の哲学者は、昔の形而上学者を、存在の問題に明確に取り組むことなく、存在者の問題に滞留しつづけたとして批判している。たぶん、われわれはこの批判の正確な意味を誤解してきたのだろう。というのも、プラトンからトマス・アクィナス、そして現代に至るまで、最も深遠な形而上学者たちは、本質の起源と原因に至るためには、本質の次元を超えていく必要性を感じてきた、ということがわれわれにはむしろ真理と思われるからだ。他の事情がどうであれ、存在の形而上学とは、存在者の次元に留まることを明確に拒否し、存在の起源となる存在の次元へと邁進する存在論の典型例である。たしかに、いったん形而上学者かその場に足を踏み入れれば、存在者の言語を用いないで存在を語ることを避けたりはしないが、そのことで彼を非難する人たちはまさに同様の誤りを犯すことになる。もし誤りが二つであったならば、彼らは同じ誤りを犯していることになるだろう。しかしそれは同じ一つの誤りだというわけではない。誤りとなっているのは、ただひたすら以下のことだ。つまり、今こそ存在(恥を)を語る好機であると言うかわりに、明日になったらそれについて真面目に語ることにしようということなのだ。知性は、本質の用語という、一つの用語しか持っていない。本質を超えてあるものについて誰も語ることはできない。ただ、本質を超えるものかあることと、本質を超えるものが他のあらゆるものの源泉であることは別だが。しかしその本質を超えてあるものを知ることと、それについて語ることは必要である。というのは、本質を存在と取り違えることは、形而上学を脅かす誤りの最も深刻な原因の一つだからである。形而上学者の反省の頂点は、存在者が存在の分有としてしか考えられないときに与えられる。存在そのもの、存在かはたらきをなしているところの存在者の本質に巻き込まれている仕方でなければ、その姿は捉えられないのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます