未唯への手紙
未唯への手紙
ウィトゲンシュタインの「バシリスク走法」
『ヨーロッパ思想を読み解く』より
ウィトゲンシュタインは、興味深い哲学者の一人である。いま今では、彼は向こう側への対処の新しい考案者として登場してきたと言うことができるだろう。だが、たぶんそれは、当時の彼の自意識にとって無意識だったはずである。彼は、この世の向こう側、集合なので諸「向こう側」と言おう、それを次々と跳び移るという離れ業をやってのけた。水面に足は掛けるが、決して沈みはしない、キリストトカゲ(バシリスク属)のように走り抜けるのである。
例えば「私がその箱を観ていない時、それはなお存在するか」という問への唯一の正しい答は、「もちろんそうだ、誰かがそれを運び去ったり破壊したりしていなければ」というものであろう。哲学者はもとよりこの答に満足しないであろうが、この答は彼の問題提起を全く正当に論破するものである。
これは本書、第一章のバークリの問題提起に答えるものである。バークリによれば、我々が感覚するのは物質の実体ではなく、ゲンニピゼッシンから得られた物質の被膜にすぎない。その向こう側をバークリは物質的実体と呼び、永遠にわからないから問うてもムダだ、ないも同じだと言った。ならば、あそこにある箱はバークリが見ているときにだけ存在するのかという問いが生じる。バークリはそれに対して、箱があったことを私はかつて見て知っている。その経験が私に箱の存在を示 唆するのだ、と答えるのである。
このときの立ち位置が、ウィトゲンシュタインでは異なる。バークリでは「私は箱を知覚する」「私は箱を経験する」に立っているのだが、ウィトゲンシュタインのほうは、「箱は物理的に実在する」なのであり、その箱の向こう側に一瞬サッと立ってしまうのである。だから、彼は箱を向こう側から見ていて、誰かが来て箱を運び去ったり、壊したりしなければ、箱はそこに在るのだ、というのである。そして理由づけをする。
「私はχを知覚する」というこれだけの語り方にしても、既に物理的表現方法からとられており、ここでのズは物理的対象--例えば物体--のはずである。この語り方をxが生のままのデータを意味せねばならない現象学で使用するのが既に誤りである。というのもいまや「私」も「知覚する」も初めと同じ意義を持つことが不可能であるから。
世界は物理的言語で語らなければならない。だからバークリのように、経験論をもってきても、物自体の外にいるのでは世界を語ったことにはならない。だから君たちは世界を語れない、と、ウィトゲンシュタインは物の向こう側から諭すのである。
で、すぐに飛ばないと自分が神になってしまうので、ウィトゲンシュタインはそこに居続けられない。次には「Aが歯痛を持つ」という課題に即移る。そして「痛み」の向こう側に立とうとするのである。
それこそ誰も持たない痛みとはおよそどのようなものなのか。それこそ誰にも属さない痛みとは。
と、向こう側を必死に探すのだが、見つからない。それより前に「私の感覚はこの身体を超えてぴろがることは決してない、ということである。これらは注目すべき興味深い事実である」と、言ってしまっている。そこで結論はこうなる。
私が知っている歯の痛みの感覚という現象は、日常言語の表現様式では「これこれの歯に私は痛みを持つ」によって描出されるのであり、「この場所に痛みの感覚がある」といった種の表現による訳ではない。この経験の領域全体は今の言語では「私は……持つ」という形式をした表現によって記述される。「Nは歯痛を持つ」という形式の諸命題は全く別の領域のために取っておかれている。従って「Nは歯痛を持つ」といった諸命題にはじめの仕方で経験と連関するものが発見されないからといって、驚くにはあたらないのである。「痛み」の向こう側はなかった。私の歯痛は私の身体を超え出ることはない。日常言語では「これこれの歯に私は痛みを持つ」という表現をする。ラッセルとは異なり、ウィトゲンシュタインにとっては、我々の日常言語はそのままで完全に論理的秩序を有する。「私は……持つ」と、言うしかない。「私は……持つ」は、「中田君は歯痛を持つ」という形式の諸命題とは別物である。「この場所に痛みの感覚がある」という、歯痛の向こう側には立てないのだ。だから、「考えることによって経験をいわば延長できると思っている哲学者達は、電話によって話を伝えることはできるがはしかを伝えられないことを考えてみるべきであろう」と、こちら側に戻り、人間はみな同一で、「人間」だという概念に実体があるとする「実念論」に無効を宣言するのである。
ウィトゲンシュタインの主著が「いわゆる哲学書の体裁をなしていない」と言われるのは、この諸「向こう側」を走り抜けるバシリスク走法のためである。一瞬でも、向こう側の立ち位置が維持できれば、こちら側の弱点はすべてお見通しとなる。
ゆえに彼は、「世界の本質に属することを言語は表現できない。……表象可能なことだけを言語は語ることができるのである」、「世界の意義は世界の外になければならない。……世界の中にあるとすれば、これも又偶然的であろうからである。それは世界の外になければならない」と言えるのである。
ウィトゲンシュタインは、興味深い哲学者の一人である。いま今では、彼は向こう側への対処の新しい考案者として登場してきたと言うことができるだろう。だが、たぶんそれは、当時の彼の自意識にとって無意識だったはずである。彼は、この世の向こう側、集合なので諸「向こう側」と言おう、それを次々と跳び移るという離れ業をやってのけた。水面に足は掛けるが、決して沈みはしない、キリストトカゲ(バシリスク属)のように走り抜けるのである。
例えば「私がその箱を観ていない時、それはなお存在するか」という問への唯一の正しい答は、「もちろんそうだ、誰かがそれを運び去ったり破壊したりしていなければ」というものであろう。哲学者はもとよりこの答に満足しないであろうが、この答は彼の問題提起を全く正当に論破するものである。
これは本書、第一章のバークリの問題提起に答えるものである。バークリによれば、我々が感覚するのは物質の実体ではなく、ゲンニピゼッシンから得られた物質の被膜にすぎない。その向こう側をバークリは物質的実体と呼び、永遠にわからないから問うてもムダだ、ないも同じだと言った。ならば、あそこにある箱はバークリが見ているときにだけ存在するのかという問いが生じる。バークリはそれに対して、箱があったことを私はかつて見て知っている。その経験が私に箱の存在を示 唆するのだ、と答えるのである。
このときの立ち位置が、ウィトゲンシュタインでは異なる。バークリでは「私は箱を知覚する」「私は箱を経験する」に立っているのだが、ウィトゲンシュタインのほうは、「箱は物理的に実在する」なのであり、その箱の向こう側に一瞬サッと立ってしまうのである。だから、彼は箱を向こう側から見ていて、誰かが来て箱を運び去ったり、壊したりしなければ、箱はそこに在るのだ、というのである。そして理由づけをする。
「私はχを知覚する」というこれだけの語り方にしても、既に物理的表現方法からとられており、ここでのズは物理的対象--例えば物体--のはずである。この語り方をxが生のままのデータを意味せねばならない現象学で使用するのが既に誤りである。というのもいまや「私」も「知覚する」も初めと同じ意義を持つことが不可能であるから。
世界は物理的言語で語らなければならない。だからバークリのように、経験論をもってきても、物自体の外にいるのでは世界を語ったことにはならない。だから君たちは世界を語れない、と、ウィトゲンシュタインは物の向こう側から諭すのである。
で、すぐに飛ばないと自分が神になってしまうので、ウィトゲンシュタインはそこに居続けられない。次には「Aが歯痛を持つ」という課題に即移る。そして「痛み」の向こう側に立とうとするのである。
それこそ誰も持たない痛みとはおよそどのようなものなのか。それこそ誰にも属さない痛みとは。
と、向こう側を必死に探すのだが、見つからない。それより前に「私の感覚はこの身体を超えてぴろがることは決してない、ということである。これらは注目すべき興味深い事実である」と、言ってしまっている。そこで結論はこうなる。
私が知っている歯の痛みの感覚という現象は、日常言語の表現様式では「これこれの歯に私は痛みを持つ」によって描出されるのであり、「この場所に痛みの感覚がある」といった種の表現による訳ではない。この経験の領域全体は今の言語では「私は……持つ」という形式をした表現によって記述される。「Nは歯痛を持つ」という形式の諸命題は全く別の領域のために取っておかれている。従って「Nは歯痛を持つ」といった諸命題にはじめの仕方で経験と連関するものが発見されないからといって、驚くにはあたらないのである。「痛み」の向こう側はなかった。私の歯痛は私の身体を超え出ることはない。日常言語では「これこれの歯に私は痛みを持つ」という表現をする。ラッセルとは異なり、ウィトゲンシュタインにとっては、我々の日常言語はそのままで完全に論理的秩序を有する。「私は……持つ」と、言うしかない。「私は……持つ」は、「中田君は歯痛を持つ」という形式の諸命題とは別物である。「この場所に痛みの感覚がある」という、歯痛の向こう側には立てないのだ。だから、「考えることによって経験をいわば延長できると思っている哲学者達は、電話によって話を伝えることはできるがはしかを伝えられないことを考えてみるべきであろう」と、こちら側に戻り、人間はみな同一で、「人間」だという概念に実体があるとする「実念論」に無効を宣言するのである。
ウィトゲンシュタインの主著が「いわゆる哲学書の体裁をなしていない」と言われるのは、この諸「向こう側」を走り抜けるバシリスク走法のためである。一瞬でも、向こう側の立ち位置が維持できれば、こちら側の弱点はすべてお見通しとなる。
ゆえに彼は、「世界の本質に属することを言語は表現できない。……表象可能なことだけを言語は語ることができるのである」、「世界の意義は世界の外になければならない。……世界の中にあるとすれば、これも又偶然的であろうからである。それは世界の外になければならない」と言えるのである。
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