未唯への手紙
未唯への手紙
生きのびた共産党
『戦争と飢餓』より 内戦下の中国
国民党政権を崩壊させた抗日戦争は、共産党には正反対の結果をもたらした。共産党は戦争をきっかけに力を取り戻すと、華北で足場を固め、支配地域を拡大した。一九三六年、長征で国民党軍の包囲を逃れた四〇〇〇人が、陜甘寧辺区(陜西省、甘粛省、寧夏省)にあらたな拠点を築き、本部を陜西省の延安に設置した。そして抗日戦争の間に、北部と東中央部で支配地域を広げていった。日本軍は農村地域を完全には制圧しておらず、紅軍は前線の後方で、日本軍の駐屯地を包囲するように活動拠点を築いた。それらの拠点は広く点在し、ある程度の支配を固めたところもあれば、ゲリラ地帯もあった。
このころはまだ、共産党は確固たる支配勢力としての地位を築いていなかった。したがって、それぞれの拠点では、自国軍というより占領軍のような立場で生活を立てなくてはならなかった。しかも、その拠点はたいてい不毛の未開拓地で、地震、洪水、干魅などの自然災害に見舞われがちだった。結成当初、共産党は富裕な農民や地主から土地を没収するという暴力的な農地改革方針を掲げていた。だが、抗日戦争のあいだは、もっと穏健な方法で社会的、経済的な格差を最小化するほうが賢明に思えた。そこで、地主から土地を奪うのではなく、地主が受けとれる地代や貸金の利息を引きさげることで、富の再分配を図ろうとした。小作農の利益が増える仕組みを作れば、農民の労働意欲が高まり、食糧の生産量が増えるという考えだ。また、班制度、輪作、肥料の増量、潅漑など、さまざまな施策が実施され、すべてが効果をあげた。最大の功績は、未発達な農業地帯という制約下で、唯一の資源-労働カーを効果的に活用したことだ。国民党と同じように、農村から兵士を集めたが、できるかぎり反発や人手不足を招かないよう配慮した。農繁期には兵士の家族に特別な支援を与え、また、ふだんから紅軍が農家の収穫作業を手伝った結果、一九三八年には映西省で収穫期間が通常の半分にまで縮められ加。
一九三六年に国民党との休戦が成立したことから、開戦後二年間は、豊作に恵まれた国民党の支配地域から食糧を補充することができた。華北で活動した八路軍の副総指揮官、彭徳懐は、一九三七年の豊かな収穫物を大量に買いこんで、北部の山間地に備蓄用として送っ加。ところが、一九四一年に両党閥の武力衝突が起こると、国民党と共産党の共闘関係は終わり、以降、国民党軍は共産党の支配地域を経済封鎖した。延安ではいっきにインフレが進み、共産党軍の食糧事情が悪化して、兵士の生存が脅かされるまでになった。配給は黒豆だけで、それすらも全員に行き渡らないことが多かった。兵士たちはやむなく瓜、木の葉、草の根、野草を食べてしのいだ。
毛沢東は敵の日本軍に負けず劣らず、自給自足の信奉者だった。共産党員はみずから畑を耕して自活するべきだ。この方針を宣伝するために自分も畑に出て農作業をしてみせたが、その姿に一般の人々ばかりか、兵士や役人も感化された。党や政府の機関から学校、工場、軍の部隊にいたるまで、すべての部門が畑を持つよう奨励された。少年時代に延安までの長征に加わった常政は、次のように振り返る。「毎朝、部隊は鍬をかついで山に入り、開墾した。地面がひどく固くて、ふたりがかりでないと雑草を引き抜けないこともあった。昼間は山を切りひらき、夜は綿を紡いだり、布を織ったりする毎日だった。われわれにはこんな労働歌があった。荒れ地を耕せ、荒れ地を耕せ。前線の兵士には食糧が必要だ。布を織れ、布を織れ。前線の兵士には服が必要汚」。一九四四年には、共産党が開墾した土地は八三万畝(約五万五〇〇〇ヘクタール)に達し、穀物の生産高はじつに一三五〇万トンにのぼった。これは、ドイツが肥沃なウクライナから奪い取った穀物よりも九〇〇万トン多い量だ。共産党の根拠地である院甘寧辺区では、みごとなまでに自給自足が実現されていた。
自給自足の取組みは、陜甘寧辺区以外の共産党支配地区にも広められた。この取組みは政治的な宣伝にも都合がよかった。プロパガンダ班が村々を回って農民たちに増産運動を呼びかけるとき、兵士たち自身もこの運動に参加している事実を告げると、説得しやすかったのだ。とはいえ、やはり農民から食糧を徴発せざるをえなかった。共産党は、支配が確立されている地域では「救国穀物徴税」の名のもとに食糧を集め、支配がそれほど確立されていない地域では、徴税ではなく、貸付や寄付などの形で食糧の提供を求めた。強制的に食糧を集められるほど農民の支持を固めていないことを、党の指導部はよくわきまえており、現場の将校たちにも、物資を受けとるさいは必ず軍票で支払いをするよう徹底させた。華中および華南で活動した新四軍では、徴発の三原則も定められていた。第一に、農民から差し出されたものがなんであれ、文句を言わない。第二に、可能なかぎり村民の経済状態を調べ、貧しい世帯からは食糧を徴発しない。第三に、必要な量だけを受けとる。あまりが出たら、その地を離れる前に住民に返す。共産党の支配地では、軍による横暴な徴発は抑えられていたが、一九四二年に日本軍の猛攻を受けると、兵士たちは追い詰められ、私的な徴発が目につくようになった。共産党軍の兵士も、国民党軍の兵士と同じように、農村の盗賊と化すことはあったのだ。それでも全体として見れば、農民の信頼を保つことに成功し、抗日戦争が終結して内戦が始まったとき、農民たちは戦闘に加わらないまでも進んで共産党に力を貸しだ。
国民党の腐敗が引き立て役となって、共産党の方針の好ましい面が強調された。戦後も続いていた食糧難に、国民政府は紙幣の増刷で対応し、インフレを加速させて事態を深刻化させ加。また、被占領地に戻ってから宗主国のようにふるまい、住人を利敵協力者として蔑んだ。当時は学生で上海に住んでいた女性は、次のように振り返る。「日本軍から統治を引き継ぐために、国民党の役人が重慶から派遣されてきました。役人たちは何もかも横領し、急激なインフレを利用して一般市民から暴利をむさぼりました」。大学の講師だった父親の給料日には、一家で紙幣の詰まった重たい鞄を抱えて急いで店を回り、食糧品を買えるだけ買った。のんびりしていると、インフレが進んで買えなくなってしまうのだ。国民党は従来の支配地域ではすでに嫌われていたが、日本軍から解放された地域でも、すぐに憎まれる存在になった。
国民党政権を崩壊させた抗日戦争は、共産党には正反対の結果をもたらした。共産党は戦争をきっかけに力を取り戻すと、華北で足場を固め、支配地域を拡大した。一九三六年、長征で国民党軍の包囲を逃れた四〇〇〇人が、陜甘寧辺区(陜西省、甘粛省、寧夏省)にあらたな拠点を築き、本部を陜西省の延安に設置した。そして抗日戦争の間に、北部と東中央部で支配地域を広げていった。日本軍は農村地域を完全には制圧しておらず、紅軍は前線の後方で、日本軍の駐屯地を包囲するように活動拠点を築いた。それらの拠点は広く点在し、ある程度の支配を固めたところもあれば、ゲリラ地帯もあった。
このころはまだ、共産党は確固たる支配勢力としての地位を築いていなかった。したがって、それぞれの拠点では、自国軍というより占領軍のような立場で生活を立てなくてはならなかった。しかも、その拠点はたいてい不毛の未開拓地で、地震、洪水、干魅などの自然災害に見舞われがちだった。結成当初、共産党は富裕な農民や地主から土地を没収するという暴力的な農地改革方針を掲げていた。だが、抗日戦争のあいだは、もっと穏健な方法で社会的、経済的な格差を最小化するほうが賢明に思えた。そこで、地主から土地を奪うのではなく、地主が受けとれる地代や貸金の利息を引きさげることで、富の再分配を図ろうとした。小作農の利益が増える仕組みを作れば、農民の労働意欲が高まり、食糧の生産量が増えるという考えだ。また、班制度、輪作、肥料の増量、潅漑など、さまざまな施策が実施され、すべてが効果をあげた。最大の功績は、未発達な農業地帯という制約下で、唯一の資源-労働カーを効果的に活用したことだ。国民党と同じように、農村から兵士を集めたが、できるかぎり反発や人手不足を招かないよう配慮した。農繁期には兵士の家族に特別な支援を与え、また、ふだんから紅軍が農家の収穫作業を手伝った結果、一九三八年には映西省で収穫期間が通常の半分にまで縮められ加。
一九三六年に国民党との休戦が成立したことから、開戦後二年間は、豊作に恵まれた国民党の支配地域から食糧を補充することができた。華北で活動した八路軍の副総指揮官、彭徳懐は、一九三七年の豊かな収穫物を大量に買いこんで、北部の山間地に備蓄用として送っ加。ところが、一九四一年に両党閥の武力衝突が起こると、国民党と共産党の共闘関係は終わり、以降、国民党軍は共産党の支配地域を経済封鎖した。延安ではいっきにインフレが進み、共産党軍の食糧事情が悪化して、兵士の生存が脅かされるまでになった。配給は黒豆だけで、それすらも全員に行き渡らないことが多かった。兵士たちはやむなく瓜、木の葉、草の根、野草を食べてしのいだ。
毛沢東は敵の日本軍に負けず劣らず、自給自足の信奉者だった。共産党員はみずから畑を耕して自活するべきだ。この方針を宣伝するために自分も畑に出て農作業をしてみせたが、その姿に一般の人々ばかりか、兵士や役人も感化された。党や政府の機関から学校、工場、軍の部隊にいたるまで、すべての部門が畑を持つよう奨励された。少年時代に延安までの長征に加わった常政は、次のように振り返る。「毎朝、部隊は鍬をかついで山に入り、開墾した。地面がひどく固くて、ふたりがかりでないと雑草を引き抜けないこともあった。昼間は山を切りひらき、夜は綿を紡いだり、布を織ったりする毎日だった。われわれにはこんな労働歌があった。荒れ地を耕せ、荒れ地を耕せ。前線の兵士には食糧が必要だ。布を織れ、布を織れ。前線の兵士には服が必要汚」。一九四四年には、共産党が開墾した土地は八三万畝(約五万五〇〇〇ヘクタール)に達し、穀物の生産高はじつに一三五〇万トンにのぼった。これは、ドイツが肥沃なウクライナから奪い取った穀物よりも九〇〇万トン多い量だ。共産党の根拠地である院甘寧辺区では、みごとなまでに自給自足が実現されていた。
自給自足の取組みは、陜甘寧辺区以外の共産党支配地区にも広められた。この取組みは政治的な宣伝にも都合がよかった。プロパガンダ班が村々を回って農民たちに増産運動を呼びかけるとき、兵士たち自身もこの運動に参加している事実を告げると、説得しやすかったのだ。とはいえ、やはり農民から食糧を徴発せざるをえなかった。共産党は、支配が確立されている地域では「救国穀物徴税」の名のもとに食糧を集め、支配がそれほど確立されていない地域では、徴税ではなく、貸付や寄付などの形で食糧の提供を求めた。強制的に食糧を集められるほど農民の支持を固めていないことを、党の指導部はよくわきまえており、現場の将校たちにも、物資を受けとるさいは必ず軍票で支払いをするよう徹底させた。華中および華南で活動した新四軍では、徴発の三原則も定められていた。第一に、農民から差し出されたものがなんであれ、文句を言わない。第二に、可能なかぎり村民の経済状態を調べ、貧しい世帯からは食糧を徴発しない。第三に、必要な量だけを受けとる。あまりが出たら、その地を離れる前に住民に返す。共産党の支配地では、軍による横暴な徴発は抑えられていたが、一九四二年に日本軍の猛攻を受けると、兵士たちは追い詰められ、私的な徴発が目につくようになった。共産党軍の兵士も、国民党軍の兵士と同じように、農村の盗賊と化すことはあったのだ。それでも全体として見れば、農民の信頼を保つことに成功し、抗日戦争が終結して内戦が始まったとき、農民たちは戦闘に加わらないまでも進んで共産党に力を貸しだ。
国民党の腐敗が引き立て役となって、共産党の方針の好ましい面が強調された。戦後も続いていた食糧難に、国民政府は紙幣の増刷で対応し、インフレを加速させて事態を深刻化させ加。また、被占領地に戻ってから宗主国のようにふるまい、住人を利敵協力者として蔑んだ。当時は学生で上海に住んでいた女性は、次のように振り返る。「日本軍から統治を引き継ぐために、国民党の役人が重慶から派遣されてきました。役人たちは何もかも横領し、急激なインフレを利用して一般市民から暴利をむさぼりました」。大学の講師だった父親の給料日には、一家で紙幣の詰まった重たい鞄を抱えて急いで店を回り、食糧品を買えるだけ買った。のんびりしていると、インフレが進んで買えなくなってしまうのだ。国民党は従来の支配地域ではすでに嫌われていたが、日本軍から解放された地域でも、すぐに憎まれる存在になった。
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