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ハイエク デモクラシーヘの懐疑

『経済学41の巨人』より F・A・ハイエク 人間は全能ではない

ハイエクの社会主義に対する批判は大きく二つの柱からなっている。一つは前に述べたように、それが多大のしかも本質的には伝達や管理不可能な情報の集積を必要とするということであった。そしてもう一つの柱は、それがいねば人間の理性の過信に基づいているということだ。もちろん、この両者は別々のことではなく、ある意味で同じことの別の側面だともいえよう。計画が社会の全般にわたる正確な情報を持ち得るという仮定は、別の面からいえば、人間が物事を計画する極めて優れた理性能力を持っていることを前提にしているからである。

人間が様々なことを合理的に設計できるという考えは、ただ社会主義において前提とされているだけではない。それはもっと目立たない形だが、実はデモクラシーの前提でもある、とハイエクは言う。

なぜなら、人間が優れた合理的設計能力を持っているという仮定は当然ながら、人間は様々なことを決定するうえで全権を持っているという考えを導き出すだろう。人々が意思決定において無制限の権利を持つという思想こそ、デモクラシーの柱なのである。デモス(人民)とクラトス(統治あるいは権力)を合成したのがデモクラシーのもともとの意味だからだ。

こうして、社会主義に対する批判はやがてデモクラシーに対する批判、もしくはデモクラシーの理念の再検討へと向かっていく。これは、自由の観念とデモクラシーの観念との間に矛盾を見ようとするものであり、自由の擁護のためには、無制限の人民主権という意味でのデモクラシーを無条件で認めてはならないということである。

『隷従への道』以来、ハイエクにとっては、経済学研究よりも自由主義の政治哲学的基礎を研究することの方がはるかに重要に思われた。こうした政治哲学的、思想的関心はハイエクをして『自由の条件』(一九六〇年)、さらに『法と立法と自由』(七三-七九年)といった大著を書かせることになる。

だが、どうしてデモクラシーは自由と相反するのだろうか。それは、自由があくまで個人の好みや意志を超えたルールに基づかなければならないからである。このルールは個人の意志を超えてはいるが、超越的に与えられているものではない。それは社会が歴史の試行錯誤のうちに意図せず生み出していき、堆積していったものだ。だから慣習、伝統といった過去の経験のうちにルールがある。ここにハイエクの自由主義の重要な点がある。彼のいう「自由」とは、個人がやりたいことをやれるというのでも、また、いわゆる「選択の自由」でもない。自由主義において重要なことは、自由が、社会の歴史や経験のうちにつくり出したルールに基づかなければ意味をなさないという点なのである。

だから、人々の無制限な権力という意味でのデモクラシーは、人々にこうしたルールそのものを恣意的に変更する権利を与える。これは自由の条件を崩すことなのである。言い換えると、無条件にデモクラシーを認めてしまうと「自由」の条件が破壊されてしまう。そこで、ハイエクは例えば立法と行政を峻別することを強く主張する。立法つまり、「自由」の条件であるルールをつくるという作業に関しては、無条件のデモクラシーを制限すべきだというのである。
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