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ロシアが輝いていた頃

ロシアが輝いていた頃 5年の年月をかけて映画「戦争と平和」を作り上げた 数学も秀で出ていた リュドミラ・サベリーエフワは大阪万博にゲストしてやってきた
ナチ時代の日記を呼んでるけど ソ連とは言わずに ロシア軍と呼んでいる スラブ民族ということを強調したかったのかな 歴史における 詳細と概要は次元の違い
今日は数学の日 円周率πから取ったみたい あまりにも安易 そういえば次男の結婚記念日忘れない数字として0314のナンバープレートにしていた
そういえば、ゼミの四方教授が言っていた 数学の教授と知った近所の人から言われたこと 「3桁同士の掛け算ができるんでしょうね」 数学を理解することは困難 20年後に会った時に「君が何を考えてるかわからなかった」と言われた
シフォンケーキは1年ぶりぐらい #スタバ風景

豊田市図書館の11冊
312.38ジヤ『ゼレンスキーの真実』
312.27ナカ『シリア・レバノン・イラク・イラン』
102.8バク『哲学の女王たち もうひとりの思想史入門』
231フジ       231『古代ギリシャのリアル』
134.97ノヤ『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』
204ダイ『文明崩壊(上)』
312.38ルデ『ゼレンスキーの素顔 真の英雄か、危険なポピュリストか』
024.1キタ『本屋のミライとカタチ 新たな読者を創るために』
234キヤ『14歳から考えたい ナチ・ドイツ』
312.9ジン『流れが見えてくる 地政学図鑑』
134.96イケ『ハイデガーと現代現象学 トピックで読む『存在と時間』』

奥さんへの買い物依頼
食パン8枚   118
お茶 148
豚小間         358
チキンラーメン           378
ポテト肉巻き  168
牛カルビマヨネーズ     168
ラピッツァ マルゲリータ           258
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個と国家の関係は変わる

歴史                  
個と国家の関係は変わる
国家は国民を組織化してきた
国家は個の要望に対応できない
個と超で全体を取り込む
個の覚醒から平等をめざす
組織の時代から個の時代に変わる
個が超の視点を得る
超の下に国家があり個を支援
第16章は「個の時代が始まる」
そのためには個の覚醒と超とのつながり
#歴史
組織は個の目的のために使うものと教えられた それで組織も生きてくる
明日はダブルスターか となると昼はスタバですね

奥さんへの買い物依頼
食パン8枚   108
お茶 138
ジンジャエール           148
肉まん4個   248
ミンチ          212
ドリア          328
UFO 128
キハダマグロ 441
シュークリーム           79
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歴史は個と他者の関係から生まれる

歴史は個と他者の関係から生まれる 個と全体の関係から自由と平等が生まれる 全体を助ける 中間の存在が生まれた 所有を保証するための組織 一人では生きていけないと言う 幻想を強要 全体を超える超の存在とつながる個の自覚で歴史は変わる
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個の歴史は存在することができるのか

個の歴史は存在することができるのか この世界に放り込まれた身として
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現象の意味から私の歴史をつくる

歴史で見る←現象の意味から私の歴史をつくる
四つの警告 感染症、 戦争、 自然 災害そして環境破壊
国家による戦争 国家の目的は国民へ のサービス提供
私の歴史 私の世界の内にある私の 時間
宇宙に至る 私の歴史で人類の歴 史を見る
新たな数学←個と超をつなげた数学
存在は無 数学は無から有を作り出す
点は集合 個が全体で 全体が個になるうる
超の存在 個が全体と同一となる超の存在
私は全体 私の目的達成のために世界を取り込む
変革の哲学←存在から超に至るプロセス
哲学者 存在のなぞから全体を見ていく
歴史哲学 自由の次のテーマは平等
存在のなぞ 存在のなぞから個の目的達成
変革に向かう 超の存在から全体の根本を変える
私の分化←現象を解析して存在を分化させる
他者の世界 存在を確認 するための現象
空間 社会の現象を集め て何か言えるか
空間を拡張 空間から全体を表現してみた
全体を理解 全体が存続するための条件
私の統合←他者の世界を変革する
統合する 分化したものを新たな観点で作り直す
未唯宇宙 宇宙から全体を見渡す
全体の再編 個を主体にすることで全体が変わる
超から見る 個と超がつながることで安定する
今日から2024 ダイアリー FB を下書きにしましょう
微分は変化を見る 積分は平均を見る では位相は何を見る 微分可能な面を作ることにより特異点を抽出する
無に戻る←個は存在となり 超は無となる
独我論 存在を数学・哲学的に解釈
宇宙の旅人 無の出発点に戻ってきた
存在は無 今は存在するが無に含まれている
問はない この奇妙な空間をいき続ける
背理法のような世界にいる 奇妙な感じ いるのかいないのかわからない明日はたまったハイブリッド本を処理しよう
ダイアリーは FB の 反映としておきます そのうちダイアリーの意味がわかってくるかもしれない
奥さんへの買い物依頼
手羽元         285
お茶 138
みかん         250
バナナ         120
あぶり焼きチキン        378
トマト           298
とんがりコーン           108
サッポロ一番とんこつ  428
豚肉ロースステーキ    350
かっぱえびせん          98
焼き豆腐      128
鍋用ラーメン 218
三ツ矢サイダー          128
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岩波講座『世界歷史16』

岩波講座『世界歷史16』

 岩波講座『世界歷史16』

国民国家と帝国一九世紀

一八四八年革命論

中澤達哉

はじめに

一八四八年革命は、一七世紀のイギリス革命、一八世紀のフランス革命やアメリカ独立革命、二〇世紀のロシア革命と異なり、革命という語の前に国名を冠しない。名称自体が単に勃発の年を表し、なおかつ、諸地域の革命の集合(revolutionsof1848/49)であることから分かるように、全容は実に捉えがたい。実際にこの革命は、一八四八年の上半期に瞬く間にヨロッパ全域に伝播し、大海原を越え、いとも容易にブラジルやコロンビアなど大西洋の対岸に達した。E・ホブズボームによれば、この革命は、「潜在的には最初のグローバルな革命」であったが、他の革命に比して「最も成功しなかった」(ホブズボーム一九八一:一二-一三頁)。同年二月のパリでの華々しい初発と、翌年八月のハンガリー独立戦争の敗北による失望感との間にある、あまりにかけ離れた落差をみれば、「諸民族の春」とは手放しに形容することができなくなる。この革命ほど評価しがたいものはない。

自由・平等・同胞愛を掲げたフランス革命から約六〇年の歳月が経っていた。すでに大革命を肌で知る世代はほぼいない。人びとはメッテルニヒ(KlemensvonMetternich)の復古主義をむしろ肌で体験していた。このような中で、ともすると神話化されていた市民革命の成果を自国にも実現しようとした(特にドイツ系)知識人にとっては、一八四八年の変革は「予告された革命」であった(マルクス、エンゲルス一九七一九七頁)。一八一五年のウィーン体制成立以降の約三〇年が、本体の到来を想定する「三月前期」(Vormärz)と称されたのはそのためである。つまり、予告されるほどに革命は思想的に周到に準備されてきたし、期待の的でもあった。その帰結として、革命運動はしばしばイデオロギー的に統一されているかのように描かれた。実際には、諸地域の革命運動は相互に協調もすれば、逆に早くから激しく対立もしていたのだが。一八四八年革命が「不成功」だったと言われるのは、対立の側面が重視されるからであるが、一方で、この革命は新たな変革主体を登場させたという意味において、まぎれもなく「近代世界の転換点」であったとの把握も存在する(増谷一九七九:七頁)。さらに近年は、亡命者たちの活動にも視野を広げ、一八四八年革命の長期的な余波を指摘し、失敗像の転換を迫る研究も現れている(Clark2023)。

このように、研究史を一瞥しただけでも、一八四八年革命の多面性は明らかである。では、なぜ、これほどまでにこの革命の評価が分かれるのだろうか。同一の出来事が異なる解釈へと帰着するのは、なぜだろうか。史料の制約であろうか。あるいは、後世の国別の国民史の記述ゆえに、異なる姿をみせてしまうのであろうか。もちろん革命の多様性は、今日のフランス革命研究やロシア革命研究でも次々と明らかにされており、一八四八年革命だけを特別視することはできない。むしろ本稿のアプローチは、近世のウェストファリア期から近代後期までの長期変動の中間に一八四八年革命を位置づけ、その実態と構造を明らかにすることである。これにより、一国に限定されないグバル革命としての性質が詳らかになるのではなかろうか。この小論では、近代史研究のほか、近世史研究の成果も踏まえた上で、従来とは幾分異なる革命理解を提示してみたい。

一、「長い近世」と「長い一九世紀」

近世史研究の変貌

一八四八年革命は今日、近世史学の巨大な地殻変動を抜きにして語ることはできない。近世史研究の変貌は、古くは一九六〇年代のポスト工業社会の到来に対応したポストモダニズムによる方法論上の問題提起に端を発する。近代の相対化の機運に対して、近世の独自性を強調することで、近代の既存認識に修正を促そうとすることに特徴がある。近世史研究では、一九七〇一九〇年代に以下の国家論・政治社会論の二つの分野で変容が生じた。それは、かつてのアナール学派に勝るとも劣らない活況ぶりであった。①K・ケーニヒスバーガ、エリオットらの複合国家論と複合君主政論、②J・ポーコック、Q・スキナーらの市民的人文主義に基づく共和主義論である。特に、①の複合国家・複合君主政論は、九〇年代末に「礫岩国家」(conglomeratestate)論へと歩を進め、近世国家史・国制史・政体史研究は一変した。つまり、君主権のもと税制・軍制・官僚制によって中央集権化を進め、対内的に排他的な管轄権を有し、対外的には独立性を保持した主権国家群が成立したとする、従来の絶対主義的な近世国家像は批判の俎上に載せられたのである。こうした把握が人口に膾炙すると、二〇〇〇年にS・ボーラック、〇四年にはA・オジィアンダーによって、国際関係史におけるいわゆる「ウェストファリア神話」さえ提起されることになる。

ここで「礫岩的主権国家」論に言及しよう。スウェーデンの歴史家H・グスタフソンによれば、近世国家を構成する各地域(礫)は、中世以来の独自の法と権利を根拠に、君主に対して地域独特の接合関係をもって礫岩のように集塊していた(グスタフソン二〇一六八六頁)。Conglomerateとは無数の礫(さまざまな色・形・大きさの小石)を含有する堆積岩であり、非均質かつ可塑的な集塊を指す。現代の国際複合企業群もまたconglomerateと呼ばれるのはその文脈においてである。ゆえにこの国家論は、国家を構成する地域の組替・離脱・変形を常に前提とする、緩やかな可塑的主権国家論といえる。その典型は、スペイン王国、スウェーデン王国、神聖ローマ帝国、ハプスブルク帝国、ポーランド=リトアニア共和国であった。より高度な接合の事例としては、フランス王国やイングランド王国を挙げている(グスタフソン二〇一六一〇四一一〇五頁)。絶対王政の中央集権とは異なる、ヨーロッパ全域に及ぶ国家形態として想定されていることを重視しなければならな一方でそれは、一六世紀以降の世界の商業化に適合的な国家形態とも言えるのであろう。

なお、筆者はこれまで、ヨーロッパにおける礫岩的主権国家の編成原理が第一次世界大戦直後まで持続したことを指摘したうえで、主権分有の動態を軸に、近世帝国と近代国民国家の相互浸潤を問題にしてきた(中澤二〇二一:一七五一一七八頁)。その際この状況を「長い近世」と形容し、一八四八年革命から六七年のアウスグライヒまでをハプスブルク帝国史における主権再編の第四期とした(中澤二〇一四:一三五一一六五頁)。本稿においても適宜、主権分有の動態を、一八四八年革命を検証する際の参照軸としたい。

近代史研究の相対化

近世の絶対主義的な主権国家像の相対化は、やがて近代の国民主義的な主権国家像にも修正を迫ることになる。かでも近代史研究の認識に抜本的な変化を及ぼしたのが、一九八〇年代にE・ゲルナー、アンダーソン、Eホブズボームを中心に形成された構築主義である。これは、国民国家研究に以下の三つの基盤を提供した。ネイションは近代において社会的に構築された①人工物であり、また、②想像の共同体である。この集団概念の形成は、③資本主義化・工業化に起因する。

特にホブズボームは、そうした新たに構築されたネイションにあたかも永続的実体であるかのうな装いをもたせるべく、ナショナリストが試みたネイションに都合の良い伝統の創造プロセスを解明した。彼によれば、一八四八年の諸革命は、ネイションを政治的な主体とするための運動であるナショナリズムを中産階級、自由主義、政治的民主主義、そして労働者階級と同様に政治の世界の恒常的なプレーヤーに昇華させた(ホブズボーム一九八一:三六頁)。それゆえ、特権階級や富裕層はもはや旧来のやり方では社会秩序を維持できなくなったと言う。プロイセンの封建領主たるユンカーは世論の重要性にようやく気付き、政治に無関心な南イタリアの農民でさえ君主を軽々に擁護しなくなった。ナポレオン三世(NapoléonIII一八〇八一七三年、在位一八五二七〇年)など革命後の君主は、国民とともに歩む道を選択せざるをえなくなった。
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『未来から来た男』ジョン・フォン・ノルマン

 『未来から来た男』ジョン・フォン・ノルマン

現代のコンピューターの誕生を巡る込み入った事情

エニアックからアップルまで

未来のコンピューターに真空管は1000本しか要さないかもしれず、もしかすると重量はわずか1・5トンほどかもしれない。

――『ポピュラーメカニクス』誌、1949年3月号

ロスアラモスの爆弾の投下先となる日本の最終候補地を選ぶのに忙しかった1945年春のある朝、メサから帰宅したフォン・ノイマンはベッドに直行して12時間寝続けた。このときのことをクラリが回想録にこう記している。「ジョニーが何をやらかそうと、2食飛ばしたことよりも私が心配になりそうなことは思いつかない。彼が一度にあれほど長いこと寝続けることなどもちろん知らなかった」

その晩遅くに目をさましたフォンノイマンはかなりの早口で、重圧を感じているときのようにどもりながら、こんな予言を語りだした。

僕らが今つくっているのは怪物で、その影響力は間違いなく歴史を変えく。歴史というものが何かしら残るならね。でも、完成を見ないことなんかありえないだろう。その理由は軍事的なものだけじゃない。科学者の立場から言って非倫理的だからだよ、科学者が自分たちにできるとわかっていることをやらないのは、それがどんなに恐ろしい成り行きを招きかねないとしても。それに、これは始まりでしかないんだ!今まさに使えるようになりつつあるこのエネルギー源によって、科学者はどこの国でもいちばん嫌われると同時にいちばん求められる市民になるだろう。

ここでフォン・ノイマンは唐突に、話題を原子の力から自分が「この先、重要性が増すうえに欠かせなくなる」と思っていた機械の力へと転じた。

「人類は月のはるか先の宇宙まで行けるようになるだろうけれど、それはみずからの創造物の進歩についていけた場合に限られる」。そして、人類がついていけなかった場合には、自分が当時その開発を手伝っていた爆弾よりもその機械のほうが危険な存在になりかねないと心配した。

「未来の技術の可能性についてあれこれ考えているうち、彼がかなり動揺してきたので、私はとうとう睡眠薬を何錠か、そしてとても強いお酒を飲んではどうかと勧めた。彼を現実に引き戻し、避けがたい破滅という自分の予測を気に病むのをやめて少々リラックスさせるためである」

あの晩に彼の心を捉えて放さなかったビジョンがどのようなものだったにしろ、フォンイマンは純粋数学とすっぱり手を切り、自分が恐れる機械の実現に集中した。「このとき、来るべき未来の姿がジョニーの興味を強くひいて頭から離れなくなり、以来ずっとそのままだった」

計算処理に対するフォン・ノイマンの関心は1930年代までさかのぼれる。彼は最初に陸軍の仕事をしていた頃から、爆発のモデル化に必要となる計算量が急速に膨らんで、当時の卓上計算機の能力では手に負えなくなると見込んでいた。ジャーナリストのノーマン・マクレイによると、フォン・ノイマンは「計算機が進歩して、その一部は脳と同じように機能するようになり」、さらには「そうした機械があらゆる通信系、送電網、大工場といった大規模システムに接続されるようになる」と予想していた。1960年代と70年代にコンピューターが相互接続されてARPANETが構築されるのだが、インターネットはそれ以前から何度となく思い描かれていたのだ。

フォン・ノイマンがコンピューターに関心を抱いたのは、戦時中にチューリングに触発されてのことだったのか?この2人が互いを探し求めていたという話はありえそうだ。イギリスの国立研究開発公社(NRDC)の初代代表を務めた科学者トニジファードは実際にそうだったと主張しており、1971年に計算機科学者で歴史家のブライアン・ランデル相手にこう語っている。「彼らは出会い、互いを刺激しました。言ってみれば、それぞれが頭の中に絵の半分を持っていたのが、会って話をするなかでこの2枚がひとつにまとまったのです」



1943年のイギリスでフォン・ノイマンに何が起こったにせよ(その痕跡は今やすっかり失われているようだが)、帰国後の彼はロスアラモスで誰よりも熱く計算技術の重要性を説くようになった。そして1944年1月にはOSRDで応用数学部門を率いていたウォーレン・ウィーヴァーに宛てて手紙を書き、国内最速クラスのコンピューターを探すための支援を要請した。爆縮型爆弾の計算が手に負えなくなりつつあったのだ。ウラムが次のように回想している。

フォン・ノイマンとの議論では、私は手間暇かけて1段階ずつ力まかせに計算することを提案したり、その構想を披露したりした。膨大な量の計算を要し、時間もはるかにかかるが、このほうが信頼性の高い結果が得られる。フォンノイマンが「その兆しが見えてきた」新しい計算機を使おうと決めたのはこのときだった。

ウィーヴァーはフォン・ノイマンをハワード・エイケンに引き合わせた。エイケンはハーバード大学の物理学者で、自身が設計を手がけた電子機械式のコンピューターがIBMから届くのを待っていた。ASCC(自動逐次制御計算機AutomaticSequenceControlledCalculator)と呼ばれていたそのコンピュターは、のちにハーバード・マークⅠと名を変える。フォン・ノイマンはエイケンを訪ね、ロスアラモスに戻ると、機密扱いの問題のひとつを修正して本来の目的を示唆する内容を削除してはどうかと提案した。エイケンは知らなかったが、彼のコンピューターで最初に実行された計算のなかには、爆弾開発のための衝撃波シミュレーションの数々が含まれていた。だが、ハーバード・マークⅠはロスアラモスのパンチカード式計算機よりも処理が遅かったうえ(精度は勝っていた)、そもそも海軍用に押さえられていた。フォン・ノイマンは長年にわたって計算能力を求めて国内を精力的に飛び回り続けた。

「戦後数年は、最新式のメインフレーム計算機を擁するどの施設を訪ねても、必ず誰かが衝撃波問題の計算を実行していたものです」と語るのは、研究に電子式のコンピューターを初めて用いた天文学者のひとり、マーティン・シュヴァルツシルトだ。「なんでまたその処理をと尋ねると、決まってフォン・ノイマンに頼まれてのことでした。こうした処理が、最新式コンピューターの現場を歩き回っていたフォン・ノイマンの足あとと化していたのです」

妙な話だが、ティーヴァーはペンシルベニア大学ムーア校(電気工学科)で開発中だった電子式装置のことをフォン・ノイマンに話していなかった。1943年4月にこのプロジェクトの予算を承認していたフォン・ノイマンの後ろ盾、オズワルド・ヴェブレンしてもそうだった。ハーバード大学のマークIや、ドイツでコンラート・ツーゼが開発していたZ3など、初期の装置では数字を表すのに歯車機構と歯車の歯、そしてリレースイッチが用いられていたのに対し、ムーア校のENIAC(エニアック。電子式数値積分器・計算機ElectronicNumericalIntegratorandComputer)には可動部品がなかった。真空管と電気回路しかなく、設計者は自分たちの計算機は従来型より何千倍も速く計算できると豪語していた。

もしかするとウィ–ヴァーもヴェブレンも、ENIAC

の開発チームは経験不足で、完成にこぎ着けられないと踏んでいたのかもしれない。あるいは、フォン・ノイマンはコンピューターをすぐにでも必要としていたところへ、ENIACは使えるようになるまであと2年と見込まれていたからかもしれない。いずれにしても、フォン・ノイマンはこの装置のことを偶然知った。アバディーンのBRL(弾道研究所)での会合を終えて、帰りの列車を待っていたときだった。

ハーマン・ゴールドスタインはミシガン大学の数学者だったが、第二次世界大戦中は米国陸軍に入隊していた。彼がこれから太平洋に送られるというタイミングで、BRL付きの科学者を集めていたヴェブレンが割って入り、より良い条件を提示した。ゴールドスタインへの渡航命令は、アバディーン性能試験場に出向くよう指示する命令と同じ日に届いた。ゴールドスタインは賢明にもヴェブレンとアバディーンを取り、そこで大砲の射表の計算チームに配属された。ヴェブレンは第一次世界大戦中にも発射体の軌道に関する同様の計算の監督者として雇われていた。

1944年のある夏の日の夕刻、アバディーン駅のホームで、ゴールドスタインは見覚えのある人物を見かけた。今やアメリカでアインシュタインに次いで有名な科学者となていたその人物の講義を、ゴールドスタインは聴講したことがあったのだ。ゴールドスタインがフォン・ノイマンに自己紹介すると、列車を待ちながらの談笑が始まった。ゴールドスタインは、自分が任務のひとつとしてフィラデルフィアのムーア校との連絡将校として働いていることを説明し、共同で取り組んでいたあるプロジェクトについて触れた。それが毎秒300回を超える乗算が可能な電子式のコンピューターだった。

その途端、ゴールドスインによれば、「会話の雰囲気がユーモアを交えた気取らないものから数学の学位審査の口頭試問のようなものへと一変した」

ゴールドスタインによると、この出会いからまもない8月7日、フォン・ノイマンはムーア校で開発中だったコンピューターをゴールドスタインの手配で視察した。そこでフォン・ノイマンが見たものが、「彼のその後の人生を変えました」とゴールドスタインは語っている。

ENIACは170平方メートルほどの床面積があり、部屋いっぱいを占めていた。1万8000本の真空管と大量の配線やスイッチからなる内部構造が、壁に沿ってむきだしでずらりと並んでいた。

「今の私たちはパソコンを持ち運びできるものと思っています」とこのプロジェクトに1950年に加わった数学者ハリー・リードは言う。「ENIACはその中に住めるような代物でした」

ENIACの生みの親はジョン・W・モークリーという、研究者になる夢を大恐慌で絶たれた物理学教員だった。彼は奨学金を得てメリーランド州ボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学で勉強し、学部の卒業など気にせず1932年に同大で物理学の博士号を取った。しばらく研究助手として働いていたのだが、運悪く、大学のポストを探し始めた時期が近代史上有数の長い経済停滞期と重なり、モークリーの研究職探しは頓挫し、彼はアーサイナス大学という、ペンシルベニア州にある小規模のリベラルアーツ・カレッジの職で妥協せざるをえなくなった。彼はそこで物理学科の長だったが、実は教員はほかにいなかった。彼は開戦時にもまだ同校に籍を置いていた。世界を襲った惨事には、モーリーの望みを断ったものもあれば、将来の見通しを好転させたものもあった。1941年、科学者が戦時協力のために再教育を受けていたムーア校で、彼は電子工学の講座を受講した。34歳だったモークリーはそこで22歳のJ・プレスバー・エッカートと出会う。彼は地元の不動産王の息子だったが、電子工学に精通していたことから、モークリーが受講した実習講座を任されていたのだった。この2人が、大砲の射表を計算するための装置を製作するという野心的な構想を一緒に考えた。当時のムーア校では、射表の計算に人員をどんどん取られていた。

特定の大砲の射表には、さまざま条件下でさまざまな高度から発射された砲弾の射程を示す弾道が何百と記載されていた。大砲と弾薬の組み合わせそれぞれに専用の射表が必要だった。ムーア校での計算の元になるのはBRLの試験場からのデータで、異なる高度で10発ほど発射された各砲弾の射程距離の測定結果が記録されていた。ムーア校はこのデータをもとに、砲弾の高度や速度に応じて違ってくる風の抵抗を考慮しながら、ほかの軌道を計算しなければならなかった。射表の1行分を計算するのに、1人が卓上計算機を使って最大2日かかった。1930年代になると、マサチューセッツ工科大学(MIT)のヴァネヴァー・ブッシュらが発明した微分解析機を使って、同じ作業を20分とかからずできるようになった。微分解析機は部屋いっぱいになるような大きさの装置で、妙に大きなテーブルサッカー台を何台もボルトでつないだような見た目だったが、問題に即したシャフト、ギア、ホイールを設定すると、ある棒を使って入力の曲線をなぞることで、その動きが求める出力へと機械的に変換された。だが安くはなかった。陸軍はムーア校の解析機の費用を出したが、戦争勃発のおそれが生じた場合にはBRLが徴発できることが条件だった。1940年にそれが現実となり、BRLは連絡将校としてゴールドスタイン少尉を送り込んだ。

1942年終盤のムーア校では、解析機を使うグループと、卓上計算機を使う100人の女性チームに、週6日で弾道計算をさせていた。どちらのチームも射表をひとつ仕上げるのに1カ月ほどかかっていた。だが、女性チームのほうでは、奮闘むなしく、スケジュールの遅れが大きくなるばかりだった。

モークリーはこの遅れを把握していた。彼の最初の妻だった数学者メアリー・オーガスタ・ワルズルがチ―ムの一員だったからだ。モークリーは、ムーア校から191年9月に助教として採用されると、解析機を間近で観察して動作原理の把握に努めるとともに、同じ作業をもっと高速にこなせるその電子版について考え始めた。彼は暫定的なアイデアを「計算を目的とした高速真空管の使用」と題して書き起こした。1943年春のこと、ゴールドスタインがこの覚書をたまたま目にした。彼はモークリーが説明していた方針は追求に値すると確信し、BRLの高官にその重要性を説いた。ENIACの契約は6月に署名され、BRLが用意した15万ドルを元手に1.5ヵ月での完成を目指した。最終的には50万ドルを優に超える費用(今日の800万ドル)がかかっている。

ENIACの開発が「プロジェクトPX」というコード名で本格的に始まった。電気技術者のジョン・ブレイナードがこのプロジェクトの責任者に任命されて予算管理を担当し、エッカ―トが主任技術者となった。このプロジェクトのそもそもの考案者であるモークリーは、顧問という非常勤の役割に格下げとなった。戦争関連の作業に教職員を大勢取られていたムーア校には、彼に引き続き教鞭を執ってもらう必要があったのである。

エッカートは当初、技術者十数名という小振りなチームを率いて、回路の設計やテストを行っていた。だが、1944年に組み立てが始まると人員が急増した。「配線士」と呼ばれた3人の組立工や技師からなる製造チームが引き入れられ、コンピューターの部品を取り付け、それらをケーブルでつなぎ、50万か所ほどもあった接点をはんだ付けして、装置をこの世に出現させた。ここで、ENIACを設計したのは男性だったが、現物の組み立てという手間暇かかる厳しい作業を担当したのはほぼすべて女性で、彼女たちは夜間や週末も働いて完成させた。このプロジの賃金支払票には50人近くの女性の名前が埋もれていたが、ひょっとするとイニシャルしか記載されていない大勢もそうした女性たちだったのかもしれない。

こうした尽力にもかかわらず、戦時中は部品――真空管に限らず、抵抗器、スイッチ、ソケット、長さ何キロ分にもなる配線材のような普通の部品――の調達が難しく、プロジェクトの完成は遅れに遅れて、陸軍の上層部はいらだちを露わにしていた。「ENIACが完成まであと3カ月から進まなかった期間が1ヵ月近くあった」と歴史家のトーマス・ヘイグは語っている。

そんな現場にフォン・ノイマンが登場したのは1944年8月という、ENIAC完成の1年以上前のことだった。このプロジェクトに対する初期の貢献のひとつは、資金が途絶えないようにしたことだ。科学界の重鎮だったフォン・ノイマンは、その頃には政府筋や軍関係に絶大な影響力を持っていた。その彼が、この装置の有用性は当初の設計目的をはるかに超えるだろうと説得力を持って主張したのである。1945年

12月にいよいよ完成すると、彼の予言どおりとなった。ENIACが最初に計算したのは射表どころか、ロスアラモスから依頼された水素爆弾の問題だった。

ロスアラモスは2人の物理学者ニコラス・メトロポリスとスタンフランケルを送り込んでこの新装置の働きぶりを調べさせ、その持てる計算能力をロスアラモスが余すところなく使えるようにした。2人には補助要員として、ハーマン・ゴールドスタインの妻でのちにENIACの取扱説明書を執筆する数学者アデル・ゴールドスタインと、新たにトレーニングを受けた6人のオペレーター――全員女性で、うち4人が数学科卒――が同行した。計算の本来の目的を知っていたのは2人の物理学者だけだった。その目的とは、テラーの「スーパー」の起爆に必要となる貴重なトリチウムの量を決定するために、3本の連立偏微分方程式を解くことである。アメリカによる初期の爆弾研究の大半と同様、詳細は今なお機密扱いだが、ハーマン・ゴールドスタインによると、数週間にわたって100万枚のパンチカードがムーア校へ送られた。テラーは得られた結果をもとにあの爆弾の採用を求め、1946年4月にロスアラモスで行われた極秘の会議では”コンピューターが自分の主張を裏付けた、自分のスーパーはうまくいく”と主張した。フォン・ノイマンとフックスが特許について協力することになったのもこの会議だ。そして、フックスがその詳細をロシアに流すのである。

ENIACに向けられたフォン・ノイマンの関心は、より良い爆弾をつくるための道具としての有用性をはるかに超えていた。彼はENIACを初めて見たときから、まったく違う類いのコンピューターについて考えていた。

ENIACの欠点の多くは、その設計者たちにプロジェクトの当初から認識されていた。150キロワットという消費電力は、半分以上が真空管の加熱や冷却に使われていた。その真空管にしても、新たな入荷分をストレステストにかけて不合格品をはじくという徹底した手続きを踏んでいたにもかかわらず、数日に1本は壊れていた。不良品や接点不良によるダウンの時間を最小限に抑えられるよう、ENIACの部品は標準化された差し込み式ユニットとして用意され、簡単に取り外して交換できるようになっていた。そこまでしても、ダウンしていた時間は稼働時間よりも長かった。『ニューヨークタイムズ』紙の記事によると、契約上の義務によってBRLに移設済みだった1947年12月の段階で、時間の1%は準備とテストに、4%は問題のトラブルシューティングと解決に費やされており、実稼働時間はわずか5%――週に約2時間――だった。

ENIACは戦争用の装置として生まれ、用途はひとつだった。だが戦争が終わり、射表の計算が別の切迫した問題と使用時間を争うようになると、ENIACの存在理由がその最大のハンディキャップとなった。フォン・ノイマンはこのことをプロジェクトに携わる誰よりも、ひょっとすると世界中の誰よりもはっきり認識していた。さらに重要なこととして、ENIACよりも柔軟性がはるかに高くて再プログラムの容易な後継機をどう設計したら良いか、彼は具体的に把握していた。ENIACチームはこの装置の欠点についてかねて議論を続けていた。そこへフォン・ノイマンが加わると、後継機製作の提案書がすみやかに用意され、BRLの上層部による審査にかかった。8月25日、ゴールドスタインとフォン・ノイマンも出席した上層部の委員会が計画を承認した。ムーア校ではすぐさま、この新装置の開発に「プロジェクトPY」というコド名が付けられ、その設計を巡って真剣な議論が始まった。翌年3月、開発チームは彼らの考えをフォン・ノイマンが取りまとめることに同意した。フォン・ノイマンが取りまとめたのはそれどころではない内容の文書だった。

この頃のフォン・イマンは、電子工学という萌芽期の分野にすでに精通していた。各種真空管の優劣にいて彼なりの考えを持っており、新装置の回路をぜひとも設計したいと思っていた。だが、彼は技術者ではなかった――数学者であり、うわべは複雑に見える問題を解きほぐして最も基本的な形で描いてみせる、という特筆すべき能力を持ち合わせていた。そして今、彼はその才腕をENIACチームの雑然としたアイデアに対して振るおうとしていた。ヘイグと共著者らは次のように見ている。「ジョン・オン・ノイマンが審美眼の持ち主だったというわけではないが、ENIACに対する彼の知性の反応は、けばけばしい大聖堂を委ねられた熱心なカルヴァン主義者よろしく、フレスコ画を漆喰で白塗りし、不要な装飾を切り落とすことにたとえられるかもしれない」。この衝動が新装置の設計として実を結び、それに刺激された何世代にわたる技術者や科学者がコンピューターをそのイメーていくことになるのだ。

意外なことに、計算処理の最先端を行くこの貢献に向けたフォン・ノイマンの頭の準備は、20世紀前半に数学界を引き裂いていた根源的な危機との関わりを通じて整えられていた。歴史の思わぬ展開が、現代のコンピューターの知的起源を、数学は完全で、無矛盾で、決定可能であることを証明するというヒルベルトの挑戦と結び付けたのだ。ヒルベルトが彼の挑戦を公にしてほどなく、知的には活発だったが精神的にはもろかったオーストリアの論理学者クルト・ゲーデルが、数学は完全だという証明も無矛盾だという証明も不可能であることを示した。そしてゲーデルがこの偉業を成し遂げて5年後、23歳のチューリングがヒルベルトの「決定問題」に挑み、仮想機械を持ち出すという、論理学者の誰も予想だにしなかったやり方で、数学は決定可能ではないことを証明した。この2人の論理学者による形式主義の成果が、フォン・ノイマンが現代のコンピューターの構造を具体化する際に活かされるのだ。彼の考えをまとめた「EDVACに関する報告の第1草稿」は、やがて計算処理史上最大の影響力をもつ文書となる。計算機科学者のヴォルフガンク・コイによれば、「今日ではこれが現代のコンピューターの出生証明書とみなされている」

 宇宙
空間の外延 内なる空間から全体を超え宇宙に出る
全体を再配置 個を分化し 全体に統合させる
宇宙から見る 超として全体を見る
知の世界 個の目的を生かし 思考中心の世界

 全てを知る
私がすべて 私の核から宇宙の端までが私です
無を知る 全てを知ることで存在の無に至る
私がいる 個の覚醒で存在の意味を納得する
有限を知る 有限の意識から共有する世界をめざす
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『SF超入門』

 『SF超入門』

「これから何が起こるのか」を知るための教養

管理社会・未来の政治

すでに浸透しつつある「マイルドな管理社会」の末路

(ビッグ・ブラザー)率いる党が支配する全体主義国家の、極端な管理・監視社会を描いた『一九八四年』を筆頭に、SFの中では「未来の政治」が何パターンも提示されてきた。一日に発話可能な語数が女性のみ100語以下に制限され、女性の権利が大きく制限されているアメリカを描いたクリスティーナ・ダルチャー『声の物語』。らゆる書籍の所持が禁じられ、本が燃やされ、思想統制が行われるようになった未来を描くレイ・ブラッドベリ『華氏451度』本稿でこれから紹介する作品以外にも、注目すべき作品は数多く存在する。

管理社会というキーワードは、現代において重要性を増している。というのも、インターネットやAIの発展により、これまでSF作品の中で「未来のテクノロジー」と共に描かれてきた「もしも」が、現実のものになりつつあるからだ。

2013年には、アメリカ国家安全保障局(NSA)およびCIAの元局員であったエドワード・スノーデンが、米国内で行われている各種監視活動についての暴露を行った。そこで明かされた事実―「PRISM」と呼ばれるインターネット情報の検閲システムによって、一般市民を含むユーザーのメールやWeb検索、チャットなど多岐にわたる行動が傍受されていること。また、そうした活動にはベライゾン、マイクロソフト、アップルといった巨大企業が関わっており、アメリカは情報収集を国内のみならず中国や同盟国である日本やフランス、イツなどに対しても行っていることーは、世界に衝撃を与えた。

さらに近年、監視国家としての存在感を強め、管理社会体制を拡大しているのが中国だ。政府による弾圧が激しくなっていると報じられる新疆ウイグル自治区では、最先端のテクノロジーを駆使した監視体制が敷かれている。アメリカのジャーナリスト、ジェフケインによる『AI監獄ウイグル』(新潮社)では、150人以上のウイグル人難民、政府関係者、元中国人スパイらに取材を行い、その実態を報告している。

新疆ウイグル自治区では、2015年頃からグループ内の相互監視が行われていたとい市民は100世帯ごとのグループに分けて管理され、グループ内のメンバーにはお互いの訪問者の出入りや日々の行動を記録し合うことが求められた。各家庭の玄関には個人情報が詰まったQRコードが貼られ、それをグループ長が毎日読み取ってチェックする。「一体化統合作戦プラットフォーム(IJOP)」というシステムが監視に用いられていることも明らかになっている。このシステムでは、監視カメラの顔認証、―プ長によるQRコードチェック、銀行取引などあらゆる情報から「通常とは異なる行動」や「治安の安定に関わる行為」をAIがピックアップして当局に報告する。教師でもない人物が大量の書籍を所有していたり、普段5キログラムの化学肥料を買っている人が突然55キログラムも買ったりといった「異常」が検知されると、IJOPの「プッシュ通知」により、即座に警察と政府当局の捜査対象になるのだ。

れ日本に住む一般市民にとっても、管理社会は他人事ではない。近年、誰もがスマホを持ち歩き、冷蔵庫から自動車まで身の回りのあらゆる道具がインターネットと繋がるようになった結果、われわれの日々の行動はすべてデータとして企業に収集されるようになった。このことは「監視資本主義」のキーワードと共に大きな問題となっている。

グーグル、メタ(旧フェイスブック)、マイクロソフトを筆頭に、監視資本主義を主導しているとされる企業は、収集したデータを基にユーザーの次の行動を予測している。データをサービス向上に役立てるといえば聞こえはいいが、多くの場合、データは企業側の利益のために用いられる。ユーザーの行動特性からターゲティング広告を設定したりするのは序の口で、果ては製品を通じてユーザーの行動をコントロールすることも可能になる。たとえば、インターネットにつながった車両システムがドライバーを特定の実店舗に誘導することもありうるだろうし、SNSではユーザーの「いいね!」履歴などから政治的志向を分析し、その人のタイムラインに表示される投稿をコントロールすることで、選挙におけるユーザーの投票行為を操作することもできる(実際に、2016年の米大統領選挙では、フェイスブックでこうした「工作」が行われた)。

われわれがすでに慣れつつある、マイルドな管理社会の行き着く先は、間の個性と自由の剥奪だ。こうした問題提起もSFでは繰り返しなされてきた。

『一九八四年』

――「二足す二は四である」と言えなくなった世界

ジョージ・オーウェル

どんな作品か「捏造された真理」を押し付けられる人々の悲劇

監視社会を描いたディストピア小説といえば、真っ先に名前が挙がるのが、この『一九八四年』だ。読んだことはなくても、タイトルを耳にしたことがある人は多いだろう。20世紀を代表する傑作であり、時代を超えて読みつがれている物語である。

作者のジョージ・オーウェルは、キャリアの初期はルポルタージュ作家として、スペインの内戦体験を描いた『カタロニア讃歌』(1938)などを発表していた。その後は小説を執筆しながら、英BBCに入社して東南アジア向けの番組をつくったり、「トリビューン」紙の文芸担当編集長になったりと職を転々としている。

そんな最中、1945年に刊行されたのが、小説『動物農場』だ。豚や犬や猫が暮らす農場で、動物たちが人間に対して一斉蜂起し、すべての動物は平等であるという理想を体現した「動物農場」を設立する。ところが次第に、一部の動物が富や権力を独占するようになり…………という、現実世界のソ連を彷彿とさせる作品だ。政治権力が腐敗していく普遍的な過程を描き出したこの小説は大ヒットを記録し、『一九八四年』と並んでオーウェルの代表作とされている。その4年後に『一九八四年』が刊行されるが、このときすでにオーウェルは重い結核を患っており、本作が最後の著作となった。

物語の時代設定は、夕ルどおりの1984年。刊行当時の人々からすると、30年ちょっと先の近未来に当たる。世界は旧アメリカ合衆国、旧イギリス、オーストラリア南部などを領有する〈オセアニア〉、欧州大陸からロシアの極東までを領有する〈ユーラシそして旧中国や旧日本を中心にアジア圏を領有する〈イースタシア〉の3大国に分かれているという状況だ。

物語の舞台であるオセアニアは、〈ビッグ・ブラザー〉なる人物が率いる党に支配された全体主義国家。街中では、テレビと監視カメラを兼ね備えた〈テレスクリーン〉が人々の行動を監視している。さらに、至るところに口ひげをたえた45歳くらいの男、すなわちビッグ・ブラザーのポスターが貼られていて、その下には“ビッグ・ブラザーがあなたを見ている”とキャプションがついている。その言葉のとおり、ポスターの男の目線は見る者の動きを追いかけてくるような印象を与える。

主人公であるウィンストンスミスは、オセアニアの〈真理省〉に勤務する党員だ。理省といっても、真理を追究する機関などではない。党にとって都合の悪い情報や記録をねじまげ、真理を「捏造」している組織だ。ここでウィンストンは、日夜党のために記録を改ざんして過ごしている。

党は3つのスローガン「戦争は平和なり」「自由は隷従なり」「無知は力なり」を掲げ、<ニュースピーク〉と呼ばれる新しい言語を公用語としている。ニュースピークでは徐々に使用される単語が減らされており、最終的には使用者の「思考」を制限するのだ。

党員には、毎日2分間、党の敵に対してありったけの憎悪を表現する「二分間憎悪」が習慣づけられている。さらに、オセアニア国民は、嘘を嘘と知りつつ同時に真実であると信じるような「二重思考」の実践を要求される。

やがてウィンストンは真理省での仕事に違和感を覚えるようになり、党に禁じられた行為である「日記」の習慣をひそかに開始する。ある日の日記に、彼は次のように書き残す。

自由とは二足す二が四であると言える自由である。その自由が認められるならば、他の自由はすべて後からついてくる。

党への反発を強めながら日々を過ごしていたある日、ウィンストンは彼と同じく党の方針に疑問を抱く女性、ジュリアと知り合い、テレスクリーンの監視をかいくぐりながら密会を重ねるようになる。

反政府活動への意欲を高めつつ、二人の仲が深まっていく最中、ウィンストンは党の官であるオブライエンの自宅に招待される。オブライエンは、ジュリアと共にオブライエン邸を訪ねたウィンストンに、自分が党に反抗する秘密組織〈ゴールド同盟>の一員であることを明かし、組織のためにどこまで尽力できるのかとウィンストンたちに問う。

意気揚々とゴールド同盟への忠誠を誓うウィンストンだったが、実はこれは、ウィンストンたちを捕らえるための罠だった。ウィンストンはジュリアもろとも身柄を確保され、党から苛烈な拷問を受ける。出している指の数を答えろと言われ、実際には4本であったとしても、党が5本だというのならば5本だと答えなくてはならない。繰り返し拷問を受けるうちに、ウィンストンは自然とその考えを受け入れるようになっていく。

最終的に、〈101号室〉と呼ばれる最も恐ろしい拷問部屋に連行されたウィンストンは、ついに最後までかばっていたジュリアをも裏切り、これをもって洗脳は完了する。ウィンストンは牢獄から解放され、日常を取り戻す。ある日公園で、同じく拷問を受けてきたであろうジュリアと再会するも、すでにお互いに対する感情はなく、少し会話を交わしたのちにあっけなく別れてしまう。《彼は今、《ビッグ・ブラザー》を愛していた。》――この救いのない一文で、物語は終わる。

どこがスゴいのか――為政者が情報統制に走るたび、何度でも立ち戻るべき作品

ここで描かれている「未来像」には、現代の感覚からすると古臭く感じられる部分も多い。社会を監視する役目は、テレスクリーンどころかとっくに見えないカメラへと移行しているし、インターネット上では発言の一つひとつまで捕捉される。市民の行動に対する誘導やコントロールは、SNS上でもっと巧妙な形で行われるようになっている。

それでも『一九八四年』は、何度でも立ち戻るべき作品だ。権力者は、その権力を維持するために、常に文書改ざんや監視体制の強化といった支配的な方向へと向かいたがる。したがって、ファシズムへの志向が消え去ることは決してないだろうとオーウェルは考えていた。実際、この作品で描かれた情景はいまなお各国で繰り返されている。

『一九八四年』が世に出てから70年余り。国家による情報統制が厳しさを増し、監視社会への懸念が高まるたびに、本作は注目を集めてきた。

近年の事例でいえば、2017年のトランプ大統領の就任式に関連して「オルタナティアクト(もうひとつの事実)」という言葉が物議をかもした。トランプ政権の報道官は、就任式に集まった群衆が「過去最大の人数」だったと自画自賛したが、実際にはそれを裏付ける統計や写真はどこにもない(むしろ空撮写真を見る限り、オバマ大統領の就任式に集まった群衆より明らかに少ない)。この報道を虚偽だと批判するメディアに対して、当時トランプの側近であったケリーアン・コンウェイは「(虚偽ではなく)もうひとつの事実」だと反論したのだ。この発言がまさに「一九八四年」的だということで、本作はまたしても注目を浴び、米アマゾンの書籍売り上げランキングのトップに急浮上している。このときのブームは日本にも波及し、翻訳書は4万部も増刷された。

国家や巨大な組織が、極端な形で市民の統制に走ったとき、人は自分たちがどのように行動し、何を感じるべきなのかというヒントを求めて本作を手に取る。

近年は、時代に合わせてアップデートされた、新しい『一九八四年』と呼ぶべき作品も登場している。アルジェリアの作家ブアレム・サンサルは、「2084世界の終わり」の中で、宗教が支配するようになった全体主義国家の姿を描き出した。中国の代表的なSF作家の一人である郝景芳は、自身がまさに1984年生まれであることもあって、中国人の目線から『一九八四年』をひもといた長編『1984年に生まれて』を発表している。あと数十年もすれば、20世紀を見据えた「二一八四年」が登場し、オリジナルのDNAを後世へ受け継いでいくことだろう。

ジョージ・オーウェル

1903年、英国領インド生まれ。文学のみならず、20世紀の思想、政治に多大なる影響を与えた小説家。主な著作に『動物農場』などがある。

『すばらしい新世界』

――私たちは自己という究極の「虚構」から逃げられない

どんな作品か与えられた「幸福」で制御された人類を描く

オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』は、ジョージ・オーウェル『一九八四年』と並んで最も有名なディストピアSFだ。タイトルは、シェイクスピアの戯曲『テンペスト』の中の台詞から取られたもの。むろん、ハクスリーはこのタイトルに大いなる皮肉を込めている。

物語の舞台は西暦2540年。作中では〈フォード紀元632年〉と表される、いまから約500年先の未来だ。本作が刊行された1930年代は、自動車王ヘンリー・フォードが編み出した大量生産方式によって、安価な自動車が出回るようになった時代。こうした「すべてを流れ作業化する」技術が信奉された結果として、〈フォード紀元〉が生まれたという設定だ(T型フォードが発売された1908年が〈フォード紀元〉の元年に当たる)。

この世界では、人間はみな人工受精で瓶から産まれ、その時点で階級が決定され、その後の人生を送ることになる。支配階級として〈アルファ〉が存在し、それに追従する階級として〈ベータ〉〈ガンマ〉〈デルタ〉〈イプシロン〉が、それぞれに定められた役割を果たすようになっている。

こうしたシステムを機能させるために、人類は徹底した遺伝子コントロールを受けている。たとえば、自然を愛することは生産性に寄与しないからという理由で、人々は自然を嫌うようにプログラミングされている。

下層の階級に属し、ろくでもない仕事をさせられている人々も、遺伝子操作によってそうした作業を「楽しめる」ように設定されているため、不満も不平も抱かない。仮に嫌なことがあっても、多幸感をもたらす〈ソーマ〉という薬を用いることで、たやすく打ち消すことができる。

しかし、やがて物語の焦点は、この世界に違和感を覚え、孤独を感じる男バーナードへと移っていく。その後は、この社会の外側からやってきた〈野人〉のジョンを主人公とし、「誰もが強制的に幸せにされる世界では、不幸になる/不都合を得る権利の価値が高まるのではないか」という新たなテーマが持ち上がってくる。

どこがスゴいのか20世紀の最も予言的なSF書

『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリは、「すばらしい新世界」について、「20世紀の最も予言的なSF書」であり「年を経るごとに現実味が増している」と賛辞を贈っている(『21Lessons21世紀の人類のための27の思考』/河出書房新社)。

ハラリが評価した一点めは、本作のテーマ設定そのものだ。「すばらしい新世界」の中では、階級が下でろくでもない仕事に従事させられている人々も、不満も不平も抱かない。遺伝子操作により、そうした作業が楽しめるようにされているためだ。人間は生化学的なアルゴリズムの集積であり、科学によってそのアルゴリズムをハッキングすることで、自山に制御できるようになる。そんな現代に通じる視点を、『すばらしい新世界』は当時か干していた。

同レディストピア小説の『一九八四年』と比較したとき、その特色はさらに際立つ。『一九八四年』が描く未来は、誰が読んでも恐ろしいことがわかる。一方、『すばらしい新世界』この世界の何が問題なのかをはっきりと指摘することが難しい。読者に考え込ませる作品なのだ。

ハラリが本作を評価するもうひとつの点は、彼が主テーマにしてきた「虚構」と関連している。ハラリは、現在のテクノロジーと科学の革命が意味するものは、《正真正銘の個人と正真正銘の現実をアルゴリズムやテレビカメラで操作しうるということではなく、あるということだ》と語る。

われわれは自分が枠の中に閉じ込められることを恐れるが、実際には自分の脳の中に閉じ込められている。そしてその脳自体も、さらに大きな人間社会が構築する、虚構の中に閉じ込められている。映画「マトリックス」で主人公のネオは赤いカプセルを飲み込むことで、自分が囚われていた虚構の牢獄から抜け出すことに成功するが、外の世界は中の世界とそう変わらず、そこもまた別の虚構世界にすぎないのだ。

「すばらしい新世界」の中で、社会の外で暮らしてきた野人のジョンは、ロンドンの人々を煽り立て、彼らを支配するシステムに反抗させようとする。

しかし、人々はこれにまったく反応しない。ジョンは警察に逮捕され、世界統制官(この世に1人だけ存在する世界の管理者)であるムスタファ・モンドと議論を重ねていく。「文明には、気高さも英雄らしさもまったく必要ないんだよ。そんなものは、政治的な失敗のあらわれだ」と語るムスタファ・モンドに対して、ジョンはこう返す―「でも、苦労は必要です。オセローの言葉を覚えてませんか?『嵐のあとにいつもこんな平穏が訪れるのなら、風よ、死者が目を覚ますほど激しく吹き荒れろ』」と。

不都合なことが好きで、気楽さを望まず、不幸せになる権利を主張するジョンに対して、ムスタファ・モンドは「いやなら出ていけばいい」と答えるのみだ。

結局、野人のジョンは社会から出ていき、無人の地で暮らし始める。そんな彼の存在が世に知られると、人々が群がって彼を観察するようになる。ジョンの平穏な生活は一瞬にして破壊され、もはや逃れる場所もなくなった彼は、最終的に死を選ぶ。

脳も自己も虚構の一部である以上、本当にそこから逃げ出したいなら、自分自身から逃げ出さなければならない。そこまで含めた先鋭的な結末を、この『すばらしい新世界』は1世紀近く前に描き出していたのである。

オルダス・ハクスリー

1984年、英サリー州生まれ。文芸誌編集などを経詩集で作家デビュー。膨大な数のエッセイ、旅行記、伝記などもある。
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岩波講座『世界歷史21』

 岩波講座『世界歷史21』

二つの大戦と帝国主義20世紀前半

ソヴィエト社会主義の成立とその国際的文脈

はじめに

二〇世紀初頭のロシアの社会主義者は、西ヨーロッパと比較しての自国の後進性を強く意識していた。農業国で「ブルジョア」民主主義も達成されていないロシアではなく、強大なプロレタリアートを擁し、ブルジョア革命の課題がすでに果たされている西ヨーロパでこそ、社会主義革命は起こるであろう。こうした観点をどの国のマルクス主義者も共有していた。だが、自国の後進性に対する自覚は、ロシアの一部の社会主義者に、独特な世界革命の展望を打ち出すための動機をも与えた。そうした展望には、レフ・トロツキーの永続革命論だけではなく、ウラジール・レーニンの帝国主義論も含まれた。第一次世界大戦を触媒としてレーニンは、資本主義全体の破滅が迫っているとの認識を得るとともに、ヨーロッパばかりかロシア、さらには被抑圧地域までもが社会主義へと向かう革命に突入するという、壮大な世界史像を打ち出した。本稿は、ロシアの社会主義者が自国に新しい社会体制を打ち立てる過程を、ヨーロッパ、とくにドイツの社会主義運動の動向を参照しながら検討する。また、ロシアの社会主義者がコミンテルンを通じて打ち出した世界(史)認識について-察する。後進的とされる諸地域が歴史の主体となる世界史像を打ち出したことは、ソヴィエト社会主義に独特の輝きを付与したのである。

  • 帝国主義と第一次世界大戦

ヨーロッパ社会主義者の混迷

一八七三年、ウィーンで起こった恐慌を起点にして、ヨーロッパと北アメリカは長い不況に入った。社会主義者はこの「大不況」資本主義の最後が間近であるあかしと受け取った(McDonough1995:341)。無調整な資本主義のもとでは生産過剰による恐慌が避けられず、資本家は新しい市場の開発と従来の市場のさらなる開発によって危機を乗り切ろうとするが、かえって恐慌予防の手段を減らし、いっそう全面的な恐慌を準備することになる。これがカール・マルクスの見通しであった(マルクス、エンゲルス一九六〇:四八一頁)。

だが、八九六年に「大不況」は終わり、好景気が訪れた。資本主義が予期せぬ回復力を発揮したことは社会主義者を混乱させた。ドイツ社会民主党右派のエドゥアルト・ベルンシュタインは、社会主義革命の追求ではなく、体制内での運動を主眼とせよと主張した。党活動の実態はすでにそうなっていたのだが、党主流派は社会主義革命の目標を棚上げする気にはなれなかった。カール・カウツキーはベルンシュタインの「修正主義」を党内で公式に否定することに成功したが、社会主義革命の好機はいずれ到来すると論じる以上のことはできなかった(McDonough1995:341-346;スティーンソン一九九〇一六九―一九三頁)。

ヨーロッパ社会主義者の動向には、一九〇五年の第一次ロシア革命が影響を与えた。ペテルブルグでは労働者評議会(ソヴィエト)が組織され、一二月にはモスクワで労働者の武装蜂起が起こった。これに触発されて各国社会主義運動の左派は、街頭での大衆運動を重視するようになったが、カウツキーたち主流派は労働者の勢力が十分でない時点で政府との対決姿勢を強めることに慎重であった。こうしてヨーロッパの社会運動は右派、左派、それにイデオロギー上は社会主義革命を掲げつつも、実践では改良主義の立場をとる中間派に分極化した(スティーンソン一九九〇:一九四一二二八頁)。

理論面であらたな局面を切り開いたのは、オーストリアのルドルフ・ヒルファディングである。彼は『金融資本論』(一九一〇年)で資本主義の回復に説明を与えた。マルクスの時代と異なり現代資本主義では、産業資本ではなく銀行資本の役割が増えた。銀行資本は産業資本と融合して金融資本となる。競争を特徴とする産業資本が国家介入を嫌うのに対して、金融資本は安定を好むために国家の介入・保護を求め、政治権力との関係も緊密化する。資本の集中と経営の大規模化が進み、トラスト化が進行する。無政府状態的な競争にかえて、トラストによる経済の調整が進み、恐慌の可能性は減る。こうして金融資本のもとで現代資本主義は、より組織された性格を帯びる(「組織資本主義」)。金融資本はまた、投資先を求めて政府の植民地拡大を後押しするため、帝国主義が本格化する。こうしたヒルファディングの理論は、同時代の社会主義者に広く受け入れられた(McDonough1995:348-350)。

問題は、ヒルファディングの認識を大枠で共有した上で、どのような目標を立て、その実現のために何をなすべきかということであった。第一次世界大戦が始まると、何をなすべきかという問いはいっそう鋭さを増した。

戦時統制経済

社会主義者は労働者階級の国際連帯を旗印とし、一八八九年にはヨーロッパの社会主義政党を中心にして社会主義インターナショナル(第二インター)を結成していた。そのシュトゥットガルト大会(一九〇七年)は、戦争阻止のために努力し、開戦後はその即時中止を目指して介入すること、さらには資本家の支配の没落を促進するために戦争によって生じた危機を利用しなければならないと決議した。だが実際に、一九一四年夏に各国政府が参戦すると、諸社会主義政党も戦時予算を受け入れ、

第二インターは崩壊した。反戦を維持したローザ・ルクセンブルクのような左派は少数であった(西川一九八九:二三〇、一八七―二〇三頁)。

戦争の長期化にともない、各国では戦時経済体制が構築された。とくにドイツでは諸企業の国有化、原料・燃料の配分、価格規制、食糧配給などで国家による経済生活の計画的な管理が実現した。「組織資本主義」の延長線上に出現したこの体制は、社会主義者の関心をひいた。ドイツ社会民主党内で支配勢力となった右派のうちには、戦時統制経済を「国家社会主義」とみなし、社会主義への接近として評価するものが現れた(XMeJIbHHIKA1927:143,150)。右派に近い『社会主義月刊』誌の「国家社会主義」欄(この欄自体は一九一〇年開始のようである)は、開戦後最初の回(一九四年一二月九日)で、「戦争は経済的・社会的生活を維持し規制するための、巨大な一連の国家的措置をおのずから必要とした」と記し、クレジット取引を維持するための貸付金庫開設法の議決などを報じた(SozialistischeMonatshefte

国家社会主義の支持者のうちインリヒ・クーノは、ドイツ政府による帝国主義(植民地支配)の追求をとくに積極的に肯定した。帝国主義が社会主義に先行する「段階」である以上、ドイツがその段階を進むのを支援すべきであると彼は論じた。冊子『党の崩壊?』(一九一五年)で彼は記した。「新しい帝国主義的な発展段階は、より早期の発展段階、たとえば機械制大工業の形成がそうであったように、資本主義の新しい、内的な、金融面での生活条件の中から成長して出てきた発展時期であり、そのようなものとして不可避の、社会主義への通過段階なのである」(Cunow1915:14)。クーノの主張は植民地支配の正当化であったが、発展段階論に立ち、社会主義への接近を志向する点で、マルクス主義者による戦争への積極的な対応の一つの姿であった。

社会主義者がみな帝国主義を段階と考えたわけはない。右派の露骨な戦争支持に批判的なカウツキーは、一九一五年四月にクーノに反論した。ヒルファディングは「帝国主義という語をある特殊な種類の政策の意味で用いたのであり、「経済段階」としてではなかった」とカウツキーはいう。不可避的な段階ではなく政策である以上、帝国主義を推進しても社会主義にたどりつけるとは限らず、帝国主義政策にかえて各国金融資本の国際連合による世界の搾取という、「超帝国主義」政策が現れる可能性がある、と彼は論じた(Kautsky1915:111,144)。

レーニンの帝国主義論

スイスに亡命中のレーニンは、ドイツでの議論を丹念に追っていた。彼はクーノを帝国主義的として非難したが、帝国主義を政策ではなく段階とする点ではカウツキーよりもクーノと重なる点があった。レーニンにとってカウツキの「超帝国主義」論は、資本主義の廃絶という課題を回避するものであった(レーニン全集二二巻・一九五七:三一二―三一三頁)。

レーニンは、帝国主義を段階とした上で、その先に進もうとした。彼によれば「帝国主義とは、二〇世紀にはじめて到達した資本主義の最高の発展段階である」。金融資本の支配が植民地支配と世界分割を推進し、世界戦争を引き起こすにいたった。「いまや人類は、社会主義にうつるか、それとも植民地や独占や特権やありとあらゆる民族抑圧によって資本を人為的に存続させるための「大」国間の武力闘争を、数年間も、さらには数十年にわたってさえたえしのぶか、そのいずれかをえらぶようせまられている」。それゆえ、「現代の帝国主義戦争の内乱〔内戦〕への転化」が必要なのであった(レーニン全集二一巻・一九五七:二〇〔訳は変更〕、二二五、三〇七―三〇八頁)。

注目すべきは、戦争の進展につれ、レーニンによるロシア革命の位置づけが変化したことである。彼は他の社会主義者と同様、後進国ロシアの当面の課題は共和政樹立などの民主主義革命であると考え、ロシアの革命とヨーロッパ社会主義革命とを単に並置していた。一九一五年七月の時点でも「ロシアは、もっともおくれた国であって、そこでは社会主義革命は直接には不可能」と記していた。だが、九月後半の論説「ロシアの敗北と革命的危機」では、レーニンの認識には変化が見られた。同論説はロシアで自由主義政党のカデット(立憲民主党)などが政府批判を強めたため、皇帝ニコラ一世が九月半ばに下院を休会させたことを受けていた。レーニンはこの情勢を「ロシアにおける革命的危機のもっともきわだった現れの一つ」と評価した上で、こう記した。一九〇五年革命と異なり「ロシアにおけるブルジョア民主主義革命は、いまではもう、西欧の社会主義革命の序曲であるだけではなく、切りはなすことのできない構成部分なのである」。「戦争が全ヨーロッパを」とらえたことが、レーニンがロシアとヨーロッパの革命を直接に結合させるための背景をなしていた(レーニン全集二巻・一九五七:七、一五七、二八〇、三九二―三九三頁)。

これによりレーニンの展望はトロッキーに接近した。一九〇五年革命の経験に基づきトロッキーは、ロシアではプロレタリアートがブルジョア革命を主導し、さらに連続的に社会主義革命に進んでいくという「永続革命論」を唱えていた(トロッキー一九六七)。これに対してレーニンにおいては、帝国主義と世界戦争がヨーロッパ、さらに世界を一体化させたことによって、ロシア革命の連続的発展の展望が開けたのである。

だが、遅れたロシアはどのようにしてヨーロッパ社会主義革命と歩調を合わせることができるのか。第一の答えは先進ヨーロッパの支援であるが、それが直ちに得られる保証はなかった。第二の答えは革命戦争である。一九一五年八月の「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」でレーニンは、西ヨーロッパ諸国を念頭において、当初は一国でも、革命戦争により社会主義を維持することが可能との認識を打ち出した。「若干のテーゼ」(一〇月一三日発表)ではこの認識がロシアを念頭において具体化された。革命によって自分たちボリシェヴィキが権力についた場合には何をするのかという踏み込んだ問いを立て、レーニンは記した。全交戦国に「植民地と、すべての従属的な、抑圧されている、完全な権利をもたない諸民族との解放を条件として」講和を提議する。現在の政府のもとでは各国ともこの条件を受け入れることができない。「そうなれば、われわれは革命戦争を準備し、遂行しなければならないであろう」。ここで「革命戦争」の主体は、ヨーロッパ諸国民だけに限定されなかった。「いま大ロシア人に抑圧されているすべての民族、アジアのすべての植民地・従属国(インド、中国、ペルシア、その他)を反乱に立ちあがらせる」ことを彼は考えていた(レーニン全集二一巻・一九五七和田一九七七二〇頁、vanRee2010:160-164)。帝国主義と四一七一四一九頁、世界戦争が、世界革命の展望を開いたある。第三の答えは戦時統制経済にあった。一九一六年末にレーニンは、若い同志ニコライ・ブハーリンの戦時統制経済論のコンセプト「国家資本主義」を受け入れ、経済生活全般が国家によって管理され、計画原理が導入されるまでになったことに注意を向けた。レーニンは「国家資本主義」から社会主義までの距離は限りなく小さいと見た。彼は戦時統制経済がある程度まで確立されていたロシアでも、革命後に社会主義に移行することは可能であるとの認識をかためたと考えることができる(和田一九八二:二七ニー二七六頁)。

こうしてレーニンは徐々に、ヨーロッパで社会主義革命が起こるまでの短期間という条件付きではあるが、ロシア一国でも社会主義建設を進めることができると示唆するようになった。一国社会主義論の萌芽がここにあった。

一九一七年春二月革命の報を受けたレーニンは、封印列車でドイツを経て帰国した。社会主義者のエスエル(社会主義者=革命家党)とメンシェヴィキは、各都市で労働者・兵士代表ソヴィエトを組織して、民主的な講和を実現するようにカデット主導の臨時政府に圧力をかけたが、戦線維持には理解を示した。連立政府となった五月以降、国政の主導権は社会主義者に移ったが、彼らもまた、数ヵ月以内に普通選挙の実施が見込まれていた憲法制定会議が開催されるまで、急進的な改革に踏み切ろうとはしなかった(ブルダコーフ二〇一七)。民衆の間では、戦争の即時停止、臨時政府の打倒を掲げるレーニンへの支持が高まっていった。

六月二一日には「経済会議」が設置された。「国民経済の一般組織計画の策定」などを課題とし、商工省の活動計画などを検討した。だが、社会主義者と主義者の意見調整は難航した。メンシェヴィキの労働大臣とカデットの商工省次官がそれぞれ作成した経済政策宣言案は、いずれも採択されなかった。財務省には二月革命後の直接税と間接税の税収の割合についての資料がなく、一九一七年度の予算も同省幹部によれば、誰も承認するものがいないので存在しないということであった。一〇月前半に経済会議は活動をやめた(Ky3HeuOza2011:7-10,15,18)。

  • ロシア内戦と社会主義

ソヴィエト政権の成立

一九一七年一〇月二五日、十月革命によってボリシェヴィキが政権についた。新政府人民委員会議の首班にはレーニンがついた。彼の主導で第二回全ロシア・ソヴィエト大会は「平和に関する布告」「土地に関する布告」を採択した。政権は理念上は集団経営を支持していたが、「土地に関する布告」では農民による地主所有地の奪取と細分化を是認した(ACB1957:17-20,408)。国内の後進地域である農村との提携路線には、被抑圧民族との提携という「若干のテーゼ」との類似性を見出せる。

「平和に関する布告」は「若干のテーゼ」の直接の延長線上にあり、無併合・無償金に基づく民主的講和のための交渉に即時入るよう、各国の国民と政府に呼びかけた。「無併合」は植民地支配の全面的な否認であり、大国による小民族の強制的な編入は、その時期や、当該民族の発展の程度にかかわらず否定された(Ibid:12-16)。

各国政府が無反応であることまではレーニンは予期していたが、イギリス・フランス・ドイツ労働者の応答がなかったことは彼の期待を裏切った。一一月二〇日には民族人民委員ヨシフ・スターリンとレーニンの署名で「ロシアと東方の全勤労ムスリムへの呼びかけ」を出し(Ibid:113-115)、旧ロシア帝国の諸地域や中東・インドのムスリムとの連携を図ったが、呼びかけにとどまった。非ロシア人地域はどこでも、十月革命により混乱する大ロシアから離れつつあった。

結局ドイツ側中央同盟国だけが、講和交渉に応じた。ブハーリンたちは革命戦争を主張したが、レーニンは政権の存続を最優先とし、一九一八年三月三日にブレスト・リトフスク講和条約を締結した。ソヴィエト・ロシアは沿バルト全域およびベラルーシの一部の領有権を手放し、フィンランドとウクライナから撤退し、ザカフカースの一部をオスマン帝国に移譲した。これに先立って中央同盟国は、一月二七日にウクニナ人民共和国ともブレスト・リトフスクで講和条約を結んでいた。これは第一次世界大戦で最初の講和条約である。「民族自決」が適用された点で、二つのブレスト講和には新しい潮流に応えた側面があった。パリ講和会議での中東欧の新興国の成立をも先取りしていた。

この間人民委員会議は、企業経営に対する労働者統制(じきに形骸化した)、銀行の国有化など、経済管理に関わる諸措置を採用した。一九一七年一二月一日には経済生活の国家管理のために最高国民経済会議を設置した。帝政期につくられた戦時統制機構もここに吸収された。翌年春までに試行錯誤的に諸企業の国有化がなされた。これら一連の措置は社会主義そのものとは考えられなかった。一九一八年二月一日発表の一文でレーニンは、現在のロシアには「みごとな技術装備をもつ、ドイツの組織された国家資本主義以上に高度な、新しい経済制度は、まだない」と記した。

レーニンの認識では、ロシアは資本主義から社会主義への移行期にあった。一九一八年一月六日に憲法制定会議(農民の支持を受けたエスエルが第一党となった。エスエルは人民委員会議を認めておらず、レーニンは憲法制定会議を解散すると決めた。会議は一月五日に一日だけ開かれた)が閉鎖された後、第三回全ロシア・ソヴィエト大会で「ロシア社会主義ソ「ヴィエト共和国」という国名が打ち出された(七月に憲法が制定され、ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国(RSFSR)の名称が確定する。その後、「社会主義」と「ソヴィエト」の語順は入れ替わる)。「社会主義への移行を実現しようという」「決意」が、国名の意味するものであった。レーニンはこうした移行期にある国家を「プロレタリアート独裁」と呼んだ。カウツキーは「プロレタリアート独裁とは〔中略〕自然な発展段階を飛び越える、あるいは法令によって取り去るための壮大な試みである」と述べたが、正鵠を射ていた。

一九一八年三月にはブレスト講和の締結と軌を一にして、より安全な内陸部のモスクワに首都を移した。党名も第七回党大会(三月六十八日)でロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)からロシア共産党(ボリシェヴィキ)に改称した。「社会民主(主義)」の語が放棄されたのは、第二インターの社会民主政党の失墜のためであるが、十月革命によって「民主主義」の観念自体が見直しを迫られたためでもあった。モスクワ市プレスニャ地区党委員会は党名改称を支持して、「労働運動の平和的発展の時期には、社会主義諸政党の必要かつ進歩的な要素であった民主主義の諸要求」の綱領は、「現在かつての意義を喪失している」と述べた(Couna-Hemokpar.8Mapra1918:3)。レーニンも「労働者が自分自身の国家をつくりだしたとき、わが国の革命の発展過程のなかで民主主義―ブルジョア民主主義の古い概念が乗りこコミューン型の新えられたところに、労働者は到達した」と述べた(レーニン全集二七巻・一九五八:一二五頁)。しい国家であるソヴィエト共和国では、社会民主主義を含む旧来の民主主義全般が古くなったのである。

そのことは「ブルジョア的な」市民的自由の観念が否定されるということでもあった。前年一一月二八日(憲法制定会議の当初の開会予定日)、政権はカデットを「人民の敵の党」と呼び、その幹部の逮捕に踏み切った。逮捕から逃れて潜伏したフョードルェフは、一九一八年一月一日、同志のソフィア・パーニナ(逮捕され、裁判の後に釈放)宛ての手紙に「新年おめでとう。古い年、それにロシアのレトロ革命(レトロ=ヴォリューション)は呪われんことを」と記した。市民的自由の確立を目指してきたカデットにとっては、ロシア革命は歴史の逆行に帰結したのだった。

内戦と国家建設

一九一八年五月半ば、四万人弱のチェコスロヴァキア軍団がウラル地方のチェリャビンスクで反乱を起こした。同軍団は第一次世界大戦中にロシア軍に投降したハプスブルク帝国軍の兵士から編成され、西部戦線に参加するためにソヴィエト政権の許可を得てウラジオストックに向かっていた。だが、チェリャビンスクでソヴィエト政権と諍いになり、反乱を起こしたのである。多様な反ボリシェヴィキ勢力が呼応して、沿ヴォルガ・ウラル・シベリアにいたる地域がソヴィエトロシアから切り離された。軍団の救出を名目として、連合国も八月以降、ロシアに軍事干渉を開始した(林二〇二:一〇九、一三六一一七一、一七六―一九〇頁)。これによりロシア内戦は第一次世界大戦と直結した。ただし、一一月に大戦が終わると、東部戦線の再構築という連合国のロシア介入の一番の目的は消滅し、反ボリシェヴィキ諸勢力に対する連合国の支援も中途半端なものとなった。

ソヴィエト総会では一九一八年六月以降、エスエル・メンシェヴィキが放逐され、七月の左派エスエル反乱後は同党も分裂し、代議員はほぼ共産党および無党派だけとなった(池田二〇一七一八七一八八頁)。この現状をカウツキは、プロレタリアート独裁ではなく「プロレタリアート内部での一党の独裁」と批判した。そもそも独裁が臨時措置ではなく恒常化していることが問題であった。「われらがボリシェヴィキの同志たちは全てを全ヨーロッパ革命という札に賭けた。この札が通らなかったとき、彼らは解決不能な諸課題を突きつけるような道に追いやられた」。それゆえ彼らは独裁の恒常化に依拠しているとカウツキーは論じた(Kautsky1918:29,38,60)

内戦の展開と並行して、ソヴィエト・ロシアでは赤軍の建設、経済・行政機構の確立、農村における徴兵・穀物徴発体制の整備、共産党組織の集権化が一体的に進んだ。軸となったのは共産党組織である。都市部の食糧不足が深刻になり、労働者の間に不穏な情勢が強まった一九一八年五月を境にして、中央委員会から県・市の党委員会へと連なる指揮系統に服することが、党員集団に対して明確に求められるようになった。これ以降、穀物徴発のための農村への人員派遣、内戦の前線への派遣などを通して、軍事的な規律をもった党組織の集権的編成が進んだ。

経済面では企業の国有化が包括的な性格を帯びた。一九一八年六月二八日に重要工場企業の全面的国有化がなされたのである。国有化企業数はそれまでの四八七から八月末までに三一一四に跳ね上がった。これらの企業の管理にあたった最高国民経済会議には、産業部門ごとに総管理局(グラフキ)がおかれた(庄野一九六八:七六二―七八五頁)。この企業管理体制においては、中央機構と地方機構、また部門間で、物資の確保をめぐる権限争いや汚職が絶えなかった。その皺寄せとして、「ブルジョア的」な出自をもつ革命前からの職員(民間からの転入者も含む)が攻撃され、冤罪事件も発生した(CBHA3HHCKas2011)。職員攻撃の背景には、政権が彼ら旧職員に依拠せざるをえないことがあった。最高国民経済会議の中央機構では旧職員の比率は四八・三パーセントに上った(powHnKOB1973:53)。

対農民政策では、都市の食糧危機が強まった一九一八年五月以降は、都市政権にとっての他者としての農村という把握が前景化した。穀物の確保が対農村政策における最重要課題であった。一九一九年一月には、穀物徴発量を事前に確定して県ごとに割り当てる割当徴発制度(帝政末期に先例をもつ)が全国的に導入された(梶川一九九八二九十三四頁)。

軍事面では旧軍将校の利用というトロツキー路線が功を奏し、一九一八年夏までに最高指揮機構が確立された。総ルガ・ウラル地方の奪還にじてソヴィエト政権は旧軍の事務機構を活用することができた。八月以降、赤軍は沿ヴ成功した(Smele2015:81-88)。一一月にはドイツ革命が起こり、世界革命の展望が開けたかのように見えた。

とはいえソヴィエト・ロシアの孤立が急に緩和されるわけではなく、経済構造がすぐに変革される見通しもなかった。九一九年春の第八回党大会(三月一八一二三日)で新しい党綱領案を議論した際、ブハーリンは目下の事象であるが緒についたのである。その最初のものとして三月珍坦ムスリム勢力とモスクワとの協議の結果、バシキリア自治ソヴィエト社会主義共和国が成立した(Schafer2001)。共産党支配が前提ではあるが、現地住民の政治参加を実現し、その文化育成に努める自治共和国体制は、同時代の列強の植民地支配と比べて先進的であった。

一九一九年六月には、アレクサンドル・コルチャークムスク政権の部隊を赤軍が押し戻し、シベリア・極東のソヴィエト化の展望が開けた。極東の中国人・朝鮮人の革命運動も活発化した。反日本帝国の目標を掲げる彼らは、ロシア共産党の重要な提携者であった。コミンテルン執行委員会ビュローは一二月に「東方問題について」を議題とし、中国・日本・朝鮮・インドトルコ・ペルシア諸民族への個別のアピールの準備を始めた(山内二〇〇七:一三五―一三六頁)。「東方」がコミンテルンの視野に本格的に入り始めたのである。

一九二〇年二月、ソヴィエト・ロシアは内戦開始以来初の講和となるタル・トゥ条約をエストニアと締結した。四月までに日本を除く連合国の部隊も撤兵した。四月には赤軍がアゼルバイジャンを征圧するなど、旧帝国版図の多くもモスクワの支配に服しつつあった。

第二回ュミンテルン大会(一九二〇年七月一九日|八月七日)は、赤軍のポーランド進軍と重なり、代議員はヨーロッパのソヴィエト化の展望に沸いた。だが本大会のより重要な点は、東方諸地域および植民地が存在感を高めたことである。第一回大会に代表がいた中国、朝鮮(この二地域は在露活動家が代表)(石川二〇〇七、水野二〇〇七)、トルコ、ペルシアにくわえ、インド、メキシュ、オランダ領インドネシア(オランダ人マーリン)の代表も参加した。その結果、第二回大会の議論には顕著な特徴が生じた。それは、先進諸国およびロシアだけではなく、被抑圧地域も視野に入れた「世界史」像が、出席者の間で共有されていたことである。「帝国主義戦争は従属地域の諸民族を世界史に引き入れた」とレーニンは大会で述べた(Bropoi1934:619-625;レーニン全集三一巻・一九五九:二二五頁)。

大会では後進諸民族の世界史上の位置が激しく議論された。レーニンの報告によれば、民族・植民地問題小委員会では、「国民経済発展の資本主義的段階」は「後進の諸民族にとって不可避である」と考えることは正くないとの結論にいたった。「先進国のプロレタリアートの援助をえて、後進国はソヴィエト体制に移行し、資本主義的発展段階を飛びこえて、一定の発展段階を経て共産主義へ移行」できるのである(レーニン全集三一巻・一九五九:二三七頁〔訳は変更〕)。ドイツ社会民主党左派出身のカール・ラデックもこう述べた。「同志レーニンは、全ての諸国民が資本主義の段階を経過すると考えるためのいかなる理論的根拠もないと指摘した。今日の資本主義諸国の全てが、工場制手工業の時期を通過して資本主義にたどりついたのではない。日本は封建主義から直接に帝国主義的文化に移行したのだ」(Bropoň1934:115)。こうしてマルクス主義の特徴の一つである段階論的な世界史認識が、国際共産主義運動の座標に据えられた。

一九二〇年の時点では、反帝国主義運動の高揚を背景として、前進運動の速度、段階の跳躍や短縮――ソヴィエロシア自身が試みていた――への楽観論が目立った。インドの共産主義者マナベンドラ・ローイは、インド資本主義の成長の速度をレーニンよりも高く見積もり、民族ブルジョア一般とではなく、革命的な性格をもった部分だけと提携すべきとの見解をレーニンに受け入れさせた(ヘイスコックス一九八六:九一一六頁)。オランダ領インドネシアのマーリンは、「植民地のためにいわゆるクーノ的マルクス主義を採用すべきではない」と述べ、ある段階(この文脈では資本主義)を必ず通過すると考えるべきではないと論じた(Bropoň1934:138)。

実は、先進地域の成果から学ぶことで、後進地域は諸段階を跳び越えることができるという認識は、一九〇七年にカウツキーも示していたが、それはあくまで理論上の平面においてであった(Lih2019:56)。これに対して、いまや跳躍の可能性は実践上の平面に移された。それはまた、被抑圧・後進地域の民族も、世界史の主体とみなされたということでもあった。この点は、ヨーロッパ中心の第二インターにはないコミンテルンの特徴であった。

かくしてソヴィエト社会主義が、被抑圧地域を重要な主体とする「世界史」像を具現化したという意味で、コミンテルン第二回大会は決定的な意義をもったのである。

三、ソヴィエト社会主義とアウタルキー

世界資本主義の安定

内戦が収束に向かう一九一九年末、ソヴィエト政権はトロツキーの主導で労働の軍事化に着手した。これは一種のアウタルキー(自給自足)政策であった。外国からの工業製品や資本の獲得が不可能な状況にあって、軍隊を労働軍に改組し、全般的労働義務制と組み合わせることで、労働強化による工業の再建を図ったのである。トロIは最高国民経済会議の地方分権化などの機構改革も求めた。守勢に立たされた最高国民経済会議議長アレクセイ・ルイコフは、第九回党大会(一九二〇年三月二九日1四月五日)で、資本主義諸国とのつながりを排除した構想では経済復興は困難であると指摘した(Day2004:21-34)。

現物経済化が進む一九二〇年のロシアは、社会主義に急速に向かっているように見えた(ただし闇市場は残った)。エフゲーニー・プレオブラジェンスキーは際限なき紙幣発行を、対価なしで流通界から価値物を汲み出す特殊な税金のようなものと評価した(上垣一九七八:四六頁)。だが八月、ワルシャワ近郊に迫った赤軍がポンド軍に押し戻され、ヨーロッパ革命の希望が遠のくとともに、ルイコフが提起した選択肢が現実味を帯び始めた。この年一月に連合国はロシアの封鎖解除を決定していた。一一月二三日、人民委員会議は資本主義諸国への利権供与を認める法令を採択した。年末までにレーニンは、労働組合の国家との一体化を主張するトロツキーを抑え、労働組合の一定の自立性を擁護することで、労働の軍事化路線の終わりが近いことを示した(IIITeăH1949:394-397;Day2004:39-41,52)。一九二〇年夏から農村では過酷な穀物徴発に対する蜂起があいついだ。一九二一年春には食糧不足や労働動員体制に対する労働者の抗議行動が、ペトログラードやモスクワをはじめとする都市部に起こった。農村の窮状に同情的なクロンショット要塞の水兵も反乱を起こした。食糧供給を改善して都市労働者の抗議を静めるため、第一〇回党大会(一九二一年三月八一一六日)は穀物割当微発から食糧税(現物税)への転換を決め、納税後に農民の手元に残った穀物は局地市場で取引できるようにした(石井一九七七:一二―二四頁)。この転換を説明するにあたってレーニンは、穀物割当徴発を念頭において、これまでは荒廃と戦争によって「戦時共産主義」を余儀なくされていたと語った。一九一八年春にわれわれは、国家資本主義は一歩前進であると考えていたが、現在ふたたびプロレタリアート独裁を国家資本主義と組み合わせようとしているのだとも述べた(レーニン全集三二巻・一九五九:三六九三七二頁)。レーニンは社会主義への前進運動における転進を、「強いられた戦時共産主義」から「一九一八年春の元来の路線への回帰」として説明したのである。しかし、割当微発や全般的労働義務制のような、「戦時共産主義」として考えられた諸施策は、内戦がおおむね収束した後の一九二〇年にも、社会主義への有効な方策として精力的に追求されてきたので、「強いられた」という説明には無理があった。また、一九一八年春には、政権と市場や商業の関係については論じられていなかったので、一九二一年春の転換と一九一八年春との間に直接的な関係を想定することもできない(門脇一九七一)。第一○回党大会は市場経済の全面導入に踏み切ったわけではなく、協同組合を介した工業製品(たとえば繊維品)と農産物の地域的な商品交換を想定していた。だが、市場経済は政権の想定を超えてなし崩し的に拡大し、農業にくわえ、小売業・中小企業・消費財産業も私的原理に委ねられることになった。鉱山、金属・機械・石油化学といった資本財産業・重工業の大半は「官制高地」として国有化を維持し、最高国民経済会議が管理を続けた。「官制高地」という軍事用語が示す通り、共産党の認識では私的経済という敵が彼らを包囲していた。企業経営には独立採算制が導入され、失業も発生した。この現状が一九二一年末までに「新経済政策」、また略称「ネップ」と呼ばれるようになった石井一九七七:三、二五十三二頁、Shearer1996:27-28)。

共産党は重工業主体の工業化を目標としたが、農民の消費意欲を喚起して、穀物を市場で現金化させるためには、消費財生産を強化する必要があった。だが、工業化の原資を得るためには、農民に有利な市場価格で穀物を確保するのは望ましくはなかった。結局、農業国ロシアをいかに工業化するかという、帝政期以来の問題が共産党の前に立ちはだかっていた。財務人民委員グリゴーリー・ソューリニコフは国際経済との接続路線を追求し、外国からの消費財の輸入、借款の実現を目指した。通貨安定と予算の均衡も実現させた。だが、一九二二年五月、ソヴィエト・ロシアも参加したジェノヴァ会議が成果なり、この方面での楽観ができないことが分かった(Day2004:60-65;ノーヴ一九八二一〇二―一〇四頁)。

 第10章 私の展開は「個と超」とする
個の自立から分化と統合を繰り返す
現象の概要として私の歴史を作る
個と超をつなげた新たな数学
存在から目的を達成して超に至る
現象を解析して存在を分化させる
他者の世界の変革する
超として私の宇宙を創造する
存在は個となり 無は超となる
 ダブルスターの日なので昼食はスタバ #スタバ風景
 豊田市図書館の1冊
412.2バツ『未来から来た男』ジョン・フォン・ノイマン
11月15日(水) 

 フロントが4人だから二列目両脇のてれさと桜が目立つ それと裏センターの和とあやめ #池田瑛紗
 4つのシンメ かきさく やまくぼ てれさく まゆうめ さいごがまゆせーらなら #早川聖来
11月16日(木) 

 私を 「存在」とした以上 未唯空間は「空間」へ 未唯宇宙は「宇宙」とします 未唯からの別離
11月17日(金) 

 30年で世界を掌握する方法
神(女性格)は女性に対して 子供を支配せよ!と伝えた そして平和に向かせる 戦わせない教育で30年もすれば 平和になる
 アラブの石油はアラブの女性を強くするために神が配置した 教育を受けた 払うの女性が部屋を求める時 世界は変わる
 女性は自立して家族制度を変革させる 家を守らず自分を守る 生まれていた個として有限であることを示す 有限である以上 所有とは無関係になる いかに この目的を果たすか そのための方向を示すものは 共有
 これおもろい

 奥さんへの買い物依頼
食パン8枚   158
お茶 138
トマトジュース 178
鮭切身         300
あまおうケーキ          218
鍋野菜         258
みかん         380
スペアリブ    457
ポテサラ       100
納豆            118
天ぷら         398
 豊田市図書館の6冊
133.5ポパ『果てしなき探究(上))知的自由
133.5ポパ『果てしなき探究(下))知的自由
133.5コダ『オックスフォード哲学者奇行』
234.07『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』
321サト『21の物語から考える法学入門』
368.2リス『貧困とはなにか』概念・言説・ポリティックス
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『超約 ヨーロッパの歴史』

『超約ヨーロッパの歴史』増補版

二つの世界大戦

ビスマルクがドイツ帝国を創設すると、彼の戦争にかける冒険主義はひとまず終了した。彼はヨロッパにおける平和の保持を希望していた。ヨーロッパには五つの列強が存在していた。ビスマルクの目的は、常に三つの国々からなる同盟に加わっていることだった。

ドイツ統一後のヨーッパ諸国は、地図に示した通りである(p271、図4)。

一八七一年に生まれた新ドイツ帝国は、現在のドイツよりもかなり大きい。二つの世界大戦により、ドイツは東部において広い領土を失った。かつてのプロイセン東部だった地域は、現在ポーランドになっている。

イタリアもドイツ同様、ごく最近になって統一された国であり、その統一までの道のりはドイツとよく似ている。一八四八年の革命によって既存権力が崩壊すると、イタリアの民主共和政体宣言がローマで行われたが、これはすぐに弾圧された。すると北イタリアのピエモンテ王国の首相カヴールが見事な外交的手腕を発揮し、力づくでイタリアを統一し、彼の王ヴィットーリオエマヌエーレ二世が一八六一年にイタリア王国の王となった。この新国家によって統一された最後の国家は、ローマ教皇領だった。その領土は、その時もなおイタリア半島中心部を横断する帯状の土地で、かなりな面積を有していた。一八四八年の諸革命後、フランスのナポレオン三世は教皇を保護するため、イタリアに軍隊を送った。しかしナポレオン三世は普仏戦争でプロイセンに敗北したため、イタリアはローマを奪還することができたのだった。

ドイツとイタリアという二つの新国家の東には、不規則な広がりを持つロシアとオーストリアという二つの帝国が存在していた。しかしこの両国は経済面では西ヨーロッパ諸国より遅れを取っていた。しかもこの両国は多民族社会であり、その中には、いまや自分たちを被支配民族とみなす人々も含まれていた。ハンガリーのマジャール人はオーストリアに対して自国を認めるように迫り、一八六七年にオーストリア=ハンガリー二重帝国の名のもとに権力を分かち合い、君主政体を共同で支える合意がなされた。

ヨーロッパにはさらに第三の多民族帝国があった。それはイスタンブール〔かつてのコンスタンティノープル〕を首都とするオスマン・トルコ[オスマン帝国]である。この巨大な帝国はいまや没落しかけており、支配下のバルカン半島の人々に独立の希望を抱かせるようになっていた。しかし、それはかなり危険な道だった。トルコはこれら諸国に独立した権利を認めたものの、依然として彼らを支配したがっていた。オーストリアとロシアはトルコ人の帝国の解体を歓迎したが、特にこの地域に強い関心があるため、ここに新国家がいくつも独立することを望まなかった。ヨーロッパにおけるトルコに取って代わるという野望を持つロシアにとって、黒海から地中海に抜ける二つの海峡を経由するルートが中断されることは断じて許されなかった。オーストリアは北ヨーロッパでプロイセンに敗北した経験から、自国領の南東部においてロシアに負けたくなかった。このように、バルカン半島は「ヨロッパの闘鶏場」に他ならず、紛争が絶えることがなかった。オスマン帝国はますます衰えていき、ナショナリストたちに希望を与えた。トルコの支配を脱して生まれた新国家は、依然としてオーストリアやロシアの支配下にある国々を勇気づけた。しかしこうした民族解放の力は列強の戦略的利害と衝突することになる。さらに新国家や新国家を希望する民族は、互いに主張し合って譲らなかった。多民族から成るこれらの国では、領土に関して複数の主張が存在していたのである。

当時のヨーロッパの強国は、イギリス・フランス・ドイツ・オーストリア・ロシアの五か国だった。

その六番目の地位に就きたかったイタリアは、同盟のシステムのプレーヤーではあっても、大きな重みを持たなかった。ビスマルクにとって、ドイツの最高の同盟相手はロシアとオーストリアだった。両国ともドイツと同じように皇帝が支配する国だったからである。一八七〇年の普仏戦争の敗戦国である共和政国家フランスは、何があってもドイツと同盟を結ぶことは考えられなかった。ことに自国東部の二つの地方、アルザスとロレーヌを奪わたことにより、フランス人の心にはドイツに対する深い復讐心が育まれていった。この地域の住民の大半はドイツ語を話し、ドイツの将軍たちは、ライン川を越えた地域にドイツの領土を持つことの有利さを感じていた。イギリスはヨーロッパに対しては孤立主義を取る傾向があった。その関心の方向は海外にあったが、ただひとつの権力がヨーロッパ大陸を支配することは決して許さないという政治方針だけは定まっていた。

ロシアとオーストリアはビスマルクのドイツと組んだが、三者が協調関係を保持することは非常に困難だった。露・墺両国はバルカン半島で争いあっていたからである。ビスマルクはいやおうなしにバルカン問題に取り組まざるを得ず、しかも両国とは良好な関係を維持し続けなければならなかった。もしもドイルカン問題でオーストリアを強く支援したら、ロシアはフランスと手を組むかもしれず、ビスマルクの恐れていたことが現実になる可能性もあった。もしも戦争が起こったら、ドイツは東西両戦線で闘うことになるかもしれなかった。この曲芸のような外交ができる人間は、ビスマルク以外にいなかった。彼はまさに辞任する直前まで、三国の協調関係を生かそうと努力し続けた。ヴィルヘルム二世とその閣僚は、それまで継続してきた露・墺両国との同盟関係を打ち切り、ドイツを全面的にオーストリアの側につけることにした。当然の結果として、八九三年にロシアはフランスと同盟を結んだ。そして一九〇四年には、イギリスがフランスと協商〔条約〕を結んだ。この条約は細部において、ヨーロッパ以外で両国が主張していた領土の紛争解決に関する部分に言及されていた。ヨーロッパで戦争が起きた際にイギリスがフランスを支援するという誓約はなかったものの、フランスはイギリスにとって古くからの宿敵だったため、この新しい同盟は非常に重要なものであった。今やドイツとオーストリアは、ヨーロッパの五強のうちのたった二つになってしまった。ここにイタリアを引き入れたとしても、たいした力にはならなかった(しかも第一次世界大戦ではイタリアは敵になった)。

ドイツの力を信じきっていたヴィルヘルム二世とその閣僚は、同盟国としてのロシアを失ったことを深く悔いてはいなかった。ドイツ語を話すオーストリア人は、後進国のロシア人より馴染み深かったし(実際、ドイツ人はロシア人を東方の野蛮なスラヴ人と見なしていた)、プロイセン主導のドイツ統一を確保するためオーストリアと戦争を行ったビスマルクのことをあまり重要視する必要はない、と考えていた。しかし、このような事態になると、ドイツは二方面で戦線を準備する必要に迫られた。こうして、まずフランスを奇襲攻撃で打ち倒し、その後ただちに反転して、全力でロシアに向かうという計画が立てられた。

ブロイセン、および新生ドイツは、兵士を短期間で動員して素早く動かす物流方法をマスターしていた。彼らは軍隊の移動手段として列車を利用し、情報の監視や命令の指示に電信を使った。一八七〇年にプロイセンがフランスに勝利した際には、かけた時間はわずか六か月だった。次の戦争では、六週間で終わる戦闘計画であった。ドイツ以外の列強もドイツの例を踏襲し、迅速な動員計画を立てていた。こうして両陣営とも戦争の準備を整えていた。

ヨーロッパの陸上で圧倒的な力を保持していることに満足せず、ドイツは強力な海軍の建設に着手した。それはこの分野におけるイギリスの卓越性に我慢がならなかった皇帝の肝煎りの計画だった。食糧自給率が低いイギリスにとって、制海権は帝国の存亡とイギリス本国自体の存亡に不可欠なものだった。ドイツの造船はイギリスの制海権を脅かすものであり、さらに彼らを上回る可能性もあった。海軍力競争が始まり、両国民はある時は喝采したり、ある時はパニックに陥るという状況を交互に体験した。新聞と政治家は愛国精神をおおいに煽った。それは防衛計画における新たな要素だった。イギリスの大臣ウィンストン・チャーチルが新しい軍艦が六隻必要だ、と発言すると、経済学者たちは、できるのはせいぜい四隻なのだが、「結局我々は八隻で妥協するだろう」と述べた。

誰もが戦争が間もなく始まるであろうことを予測していた。そして、むしろ戦争を歓迎するかのようにも見えた。人種主義や適者生存といった新たな思潮が、戦争を正当な国民国家のための資格試験であるかのように見せていた。そして人々のほとんどは、戦争が始まったとしても、短期ですぐに終わるだろうと考えていた。

列強の中でドイツだけが不安要素だった。経済力が高まるにつれて、より大きな影響力を求めるようになっていたが、九一四年七月には、その軍事指導者たちはヨーロッパの全面戦争で勝利を目指すという賭けに出た。彼らが飛びついたのはバルカン半島の危機的状態だった。将来のオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であった皇太子フランツ・フェルディナント大公が、帝国の最南部にあたるボスニアでセルビア人ナショナリストによって暗殺された。ボスニアは多くのセルビア人たちの本拠地であり、彼らはオーストリアの支配に対する反乱を企てていた。セルビアは当初オーストリアの援助を得てトルコからの独立を果たしたが、この頃になるとオーストリアはセルビアを不穏勢力と見なすようになっていた。オーストリアを脅威と感じるようになったセルビアは、ロシアに保護を求めた。

オーストリア政府は、セルビアが暗殺の責任を負いきれなくなるとロシアに頼り、そこから対ロシア戦争が誘発されかねないことを理解していた。ドイツは事態が深刻化することを望み、皇帝自身はオーストリアがどのような行動に出ても支持することを約束していた。そこでオーストリアは、セルビアに強く反発させるためにあえて厳しい要求を突き付け、戦争の口実をオーストリアに与えるように仕向けた。他の列強各国は、セルビアが抵抗し、さらにロシアがそれを支持するようになれば、大きな脅威になると見た。ロシア自身も含む列強各国は、なんとか戦争を回避する道を模索した。ドイツは、セルビアに対するオーストリアの厳しい要求とドイツは無関係であると訴え、さらに平和的解決のためのすべての試みは失敗した、と他国をあざむいた。ドイツの軍事指導者は、ロシアがオーストリアと戦争に入ることを望んでいた。ドイツはロシアの軍備強化計画が完成する前に、ロシアと戦いたかった。もしもロシアが強くなりすぎると、二正面作戦の勝利は不可能となる。皇帝は戦線の拡大した戦争を望んでいなかったが、首相と軍隊はもはや彼抜きで動き出していた。

ドイツ陸軍の参謀総長モルトケは、開戦は早ければ早いほど良いと考えていた。彼はロシアが軍備を整える前に、フランスを速攻で打ち倒そうとしていた。ロシアにしてみれば、ドイツが侵略者として自国を襲う前に、まず軍隊を動員することが最優先事項だった。ドイツの社会民主党は戦争に反対していた。彼らはセルビアに対するオーストリアの要求が過酷すぎると非難していたが、ロシアが侵略者となれば防衛戦を支持する態度を示していた。ロシアはオーストリア抑止のための動員を達成した。これを歓迎したのはドイツの軍人たちで、ことここに至り、ドイツはロシアに対する宣戦布告が可能になった。ドイツはロシアを戦争の侵略者であるという旨を表明した。これはベルリンの政府の企みにほかならなかった。フランスは自国防衛のため、ドイツに宣戦布告を行った。

フランスを六週間で征服する計画が実行に移された。ドイツ軍はベルギーを横断して、北部からフランスに侵入することになっていた。そこからドイツ軍はさらに南に展開して巨大な弧をつくってパリを包囲する。そこからさらに東に向かい、独仏国境を越えて攻撃していたフランス軍の背後に回る、という作戦だった。ドイツはベルギー国内をドイツの軍隊が通過することを認めるようにベルギー政府に求めたが、拒否された。それにもかかわらずドイツ軍はベルギー国内を行進し、これによってドイツも保証国のひとつだったベルギーの中立性が破られた。このドイツの冷酷無慈悲な行為はイギリスを憤慨させた。このベルギーにおけるドイツの違反行為は、戦争に対する態度をあいまいにしていたイギリスを参戦の方向に舵を切らせることになった。

ドイツの帝国議会における演説でヴィルヘルム二世は大きな嘘をつき、ドイツは戦争回避のためにできることすべてを行ったと宣言した。皇帝を信用していなかった社会民主党の議員たちも含め、会議員たちは戦費の最初の支出に満場一致で賛成した。彼らはロシアが戦争に勝利すればドイツの状況は悪化する、と信じ込んでいた。ヨーロッパの各国には社会主義者たちが国会に議席を持っていたが、彼らもみな戦争支持に回った。ナショナリズムの勝利である。結局、労働者たちは互いに戦い合うことになった。

ドイツのフランス侵攻作戦は失敗した。掃討作戦に投入された軍事力が十分とはいえなかったからである。ドイツ軍はバリを包囲することなく、北へ向かい、結果として、英仏二か国の軍隊によって自軍の側面に攻撃を受けることになった。両軍はすぐに膠着状態に陥った。ベルギーと北フランスを横断し、中立国のスイスにまで伸びる長い塹壕線ができ、敵対する両軍は向かい合った。それから三年間、両軍は数百万の尊い命を犠牲にして互いに押し合ったが、この塹壕の線が動くことはほとんどなかった。何よりも守る側が有利だったからである。塹壕から這い出て突進する兵士は、相手方の塹から発射される機関銃に撃たれ、上空には両軍の砲弾が飛び交う。両陣営の間には有刺鉄線の輪が張りめぐらされた。こうした状況での攻撃は自殺行為に等しい。やっと最後の年になってイギリス軍の発明した戦車が、身の安全を確保しながら攻撃することを可能にした。

この戦争は、兵士と武器を最後まで補給し続けられる側が勝利を得ることになる。戦争を支えるためにすべての経済活動が組織され、そしてこの大義を信じてすべての人々が戦い、また労働についた。これはまさに総力戦だった。

イギリス海軍は、海外からの物資を人国させないようにドイツの海域を封鎖した。これに対抗してドイツ海軍は潜水艦ロポートを海域に送り込み、イギリスへの物品(ことに最も重要な食糧品)の供給を断つために、船舶を沈めていった。この当時、まだアメリカ合衆国は中立を保っていたが、もしもドイツがアメリカの船舶を沈めれば戦争に新たな危険が生まれることは明らかだった。一九一七年二月、戦闘の膠着状況を打開するために必死だったドイツは、無制限の潜水艦攻撃を命じた。これによってアメリカが参戦してくることはドイツにとって想定内だった。実際、アメリカは同年四月に参戦したのだが、アメリカ軍がヨーロッパに到着する前にイギリスを飢えさせて、戦争に勝利するというのがドイツの作戦だった。皇帝や首相はこの作戦には懐疑的だったが、決定権は軍人に握られていた。ヒンデンブルクとルーデンドルフという二人の将軍が、もはやこの時のドイツ政府そのものとなっていた。彼らは後になって、ヒトラーに接近していくことになる。ルーデンドルフは一九二三年の未遂に終わったミュンヘン一揆の際にはヒトラーを支援し、ヒンデンブルクは一九三三年にヒトラーを首相に任命した。
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