『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,ロンドンでオルデンブルクHeinrich Ordenburgと面会したライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが,何通かの書簡を見せてもらったとされています。そのうちのひとつが書簡七十三です。これは書簡七十一の返信で,出された日付が確定できないのですが,1675年11月か12月。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
書簡七十一でオルデンブルクは3つの質問をスピノザにしています。これはその質問に対する解答です。ここでは質問は省略し,スピノザが何をいっているのかだけを示します。
まず,神Deusと自然Naturaに対する見解opinioは,近代のキリスト教徒たちが抱いているものと,スピノザ自身が抱いているものとで異なるということです。このことは,第一部定義六で神を絶対に無限なabsolute infinitum実体substantiamであるといっていうことおよび,第四部序言で神と自然とをそうは違わないものと規定していることから明らかですが,ここでスピノザが強調しているのは,第一部定理一八に関することです。すなわち近代のキリスト教徒たちは神を超越的原因causa transiensとみなすが,スピノザは神を内在的原因causa immanensとみなすということです。したがってスピノザの見解では,第一部定理二九備考にあるように,内在的原因としての能産的自然Natura Naturansとその結果effectusである所産的自然Natura Naturataに,自然が分類されることになります。
次に,神の啓示の確実性certitudoは,奇蹟miraculumの上には築かれないということです。これは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で詳しく分析されている事柄のひとつで,スピノザにとって奇蹟は無知を表すものなので,啓示の確実性を担保するのではありません。それを担保するのは教説の中にある叡智そのものであって,無知ではないのです。
最後に,我々の救いのためにキリストを肉に従って認識するcognoscereことは,絶対に必要であるというわけではないということです。ここで救いというのは,第五部定理四二の至福beatitudoと解していいだろうと僕は考えます。スピノザは,キリストを肉に従って認識することによっては救われないといっているのではなく,その方法でも救われることは是認しています。ただ救われる方法は,それだけではないというのがこの部分の主旨です。
契約pactumの二重化という考え方が示しているのは,スピノザが政治の秩序ordoに宗教religioが必要であると考えていることです。これはそれ自体でみれば時代的制約というほかないのであって,たとえば現代の日本の政治にこの理論をそのまま適用するのは難しいでしょう。しかし國分は,このように考えてスピノザの政治理論を捨ててしまうことは,スピノザの議論そのものがもっている構造を捉え損ねることになると指摘しています。スピノザが政治に宗教が必要であるというときに示されているのは,単純な法制度や理性的計算だけで政治の秩序は作出することができないということで,これは現代の政治論,というか現代に限らず政治論一般に適用できると國分は考えるのです。いい換えれば政治秩序のためには,法制度や計算には還元することができない何かが必要だと國分はいうのです。実際に僕たちが法lexを遵守するのは,処罰に不安metusを感じるからであるという場合もあるでしょうが,すべからくそこに還元することができるわけではないでしょう。不安による秩序形成も計算による秩序形成も,意味をなさないわけではないし,僕は大いに意味があると考えますが,しかし一方でそれだけに頼ることができないのも事実だと思いますし,それだけに頼ってしまうのは望ましくもないでしょう。なのでこの國分の指摘は,耳を傾ける価値が大いにあると思います。
神Deusとの契約というような要素をそのままの形で現代の世俗国家に適用することはできません。ではそうした国家Imperiumは,法制度と理性的計算だけで政治秩序を作り出しているのかといえば,そういうわけでもありません。現代の世俗国家も,ある価値の共有というのは必要としていたのだし,その価値を宗教以外の何かに求めてそれを実現しようとしたのだと國分はいいます。このゆえにその法規範は,神との契約がそうであったように,至高の政治権力を抑制することもできるし,暴走を防ぐこともできるのです。
國分がいうように,このような保証は完全なものではありません。それは神との契約が完全な保証になり得ないというのと同じです。ただ法や計算には還元できない何かがあることは,その通りではないでしょうか。
書簡七十一でオルデンブルクは3つの質問をスピノザにしています。これはその質問に対する解答です。ここでは質問は省略し,スピノザが何をいっているのかだけを示します。
まず,神Deusと自然Naturaに対する見解opinioは,近代のキリスト教徒たちが抱いているものと,スピノザ自身が抱いているものとで異なるということです。このことは,第一部定義六で神を絶対に無限なabsolute infinitum実体substantiamであるといっていうことおよび,第四部序言で神と自然とをそうは違わないものと規定していることから明らかですが,ここでスピノザが強調しているのは,第一部定理一八に関することです。すなわち近代のキリスト教徒たちは神を超越的原因causa transiensとみなすが,スピノザは神を内在的原因causa immanensとみなすということです。したがってスピノザの見解では,第一部定理二九備考にあるように,内在的原因としての能産的自然Natura Naturansとその結果effectusである所産的自然Natura Naturataに,自然が分類されることになります。
次に,神の啓示の確実性certitudoは,奇蹟miraculumの上には築かれないということです。これは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で詳しく分析されている事柄のひとつで,スピノザにとって奇蹟は無知を表すものなので,啓示の確実性を担保するのではありません。それを担保するのは教説の中にある叡智そのものであって,無知ではないのです。
最後に,我々の救いのためにキリストを肉に従って認識するcognoscereことは,絶対に必要であるというわけではないということです。ここで救いというのは,第五部定理四二の至福beatitudoと解していいだろうと僕は考えます。スピノザは,キリストを肉に従って認識することによっては救われないといっているのではなく,その方法でも救われることは是認しています。ただ救われる方法は,それだけではないというのがこの部分の主旨です。
契約pactumの二重化という考え方が示しているのは,スピノザが政治の秩序ordoに宗教religioが必要であると考えていることです。これはそれ自体でみれば時代的制約というほかないのであって,たとえば現代の日本の政治にこの理論をそのまま適用するのは難しいでしょう。しかし國分は,このように考えてスピノザの政治理論を捨ててしまうことは,スピノザの議論そのものがもっている構造を捉え損ねることになると指摘しています。スピノザが政治に宗教が必要であるというときに示されているのは,単純な法制度や理性的計算だけで政治の秩序は作出することができないということで,これは現代の政治論,というか現代に限らず政治論一般に適用できると國分は考えるのです。いい換えれば政治秩序のためには,法制度や計算には還元することができない何かが必要だと國分はいうのです。実際に僕たちが法lexを遵守するのは,処罰に不安metusを感じるからであるという場合もあるでしょうが,すべからくそこに還元することができるわけではないでしょう。不安による秩序形成も計算による秩序形成も,意味をなさないわけではないし,僕は大いに意味があると考えますが,しかし一方でそれだけに頼ることができないのも事実だと思いますし,それだけに頼ってしまうのは望ましくもないでしょう。なのでこの國分の指摘は,耳を傾ける価値が大いにあると思います。
神Deusとの契約というような要素をそのままの形で現代の世俗国家に適用することはできません。ではそうした国家Imperiumは,法制度と理性的計算だけで政治秩序を作り出しているのかといえば,そういうわけでもありません。現代の世俗国家も,ある価値の共有というのは必要としていたのだし,その価値を宗教以外の何かに求めてそれを実現しようとしたのだと國分はいいます。このゆえにその法規範は,神との契約がそうであったように,至高の政治権力を抑制することもできるし,暴走を防ぐこともできるのです。
國分がいうように,このような保証は完全なものではありません。それは神との契約が完全な保証になり得ないというのと同じです。ただ法や計算には還元できない何かがあることは,その通りではないでしょうか。