スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

万博協賛ミリオンナイトカップ&第四部定理二五

2024-06-10 19:23:05 | 競輪
 函館競輪場で行われた昨晩のミリオンナイトカップの決勝。並びは大川‐坂本‐菊地‐竹村の北日本A,酒井‐桜井の北日本B,菊池‐杉本の関東で阿部は単騎。
 菊地と菊池がスタートを取りにいきました。内の菊地が誘導の後ろに入って大川の前受け。5番手に阿部,6番手に酒井,8番手に菊池で周回。残り3周のホームの出口から菊池が上昇。バックで大川の外に並びました。残り2周のホームまで併走のまま周回し,誘導が退避するタイミングで大川が突っ張ると菊池は引き,周回中と同じ隊列に戻って打鐘。残り1周のホームを通過してから菊池が巻き返しにいきましたが,単騎の阿部がバックで先捲り。これで菊池は不発。坂本が番手捲りを敢行して阿部に対抗しましたが,直線で阿部が抜け出して優勝。坂本が4分の3車身差で2着。阿部を追走するようなレースになった酒井が4分の1車輪差で3着。
 優勝した大分の阿部将大選手は前回出走の別府のFⅠを完全優勝していて連続優勝。4月の高知記念以来となるGⅢ3勝目。このメンバーでは脚力は圧倒的に上位。単騎の戦いになりましたので位置取りが鍵でしたが,大川が先行するとみてそのラインの後ろに。大川の突っ張り先行になりましたので,その判断も確かでした。坂本の番手捲りの上をさらに捲って勝ったのですから,確かに力を見せつけての優勝だったといっていいでしょう。

 理性ratioから生じる自己満足acquiescentia in se ipsoは最高の満足ですが,表象imaginatioから生じる自己満足は,狂気ともなり得るのです。これは,自己満足が,自己の能力potentiaを観想するcontemplariことによって生じる喜びlaetitiaであるといわれるとき,観想するということが,自分自身だけを見つめるということも意味し得るし,自分自身を他と比較して表象するimaginariということも意味し得るからこそ生じるのです。いい換えれば自己満足は,自分自身だけを見つめたときには最高の満足であり,他と比較したときにもその当人にとっての最高の満足であるのですが,前者は他からみても何も問題のない満足であるのに対し,後者は他からみた場合には狂気ともいえるような,迷惑を及ぼす満足であるということになるのです。
                                   
 こうしたことが生じる事情というのを一般的にいえば,第四部定理二五でいわれていることが基になると僕は考えます。
 「何びとも他の物のために自己の有を維持しようと努めない」。
 これはコナトゥスconatusが各々の個物res singularisの現実的本性actualis essentiaであるという第三部定理七から明白です。つまり各々の現実的本性が与えられれば,そのものはそのもの自身の有esseを維持しようと努めるconariという第三部定理六でいわれていることが必然的にnecessario帰結するのであって,これを帰結させるためにほかの事柄に訴求する必要はありません。いい換えれば他のものの本性に訴求する必要はないのです。よって現実的に存在する人間が自己の有を維持しようとする傾向conatusを有するのは,それ自身の本性のためであり,ほかのものの本性のためではありません。そしてこれは,現実的に存在する人間はほかのもののために自己の有の維持に努めるわけではないといっているのと同じです。
 しかしこのことはスピノザが論証Demonstratioでいっている通り,第四部定理二二系からもっと簡単に証明することができます。もしも現実的に存在する人間がほかのもののために自己の有の維持に努めるとすれば,virtusの第一の基礎はそのほかのものであるといわなければなりません。しかしそれはこの系Corollariumに反します。ゆえにそのようにいうことはできないのであって,現実的に存在する人間が自己の有の維持に努めるのは,それ自身のためであるといわなければならないのです。
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