スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

続・谷津の雑感⑥&目的論の排除

2024-07-13 19:03:53 | NOAH
 続・谷津の雑感⑤の最後でいった馳浩のエピソードというのは次のようなものです。
 あるとき,ジャパンプロレスの主催興行が佐賀でありました。そのときに馳のウェルカムパーティーが催されました。馳は,酒が入っていたこともあり,本当はプロレス界に入ってくるつもりはなかったと言ったそうです。これはプロレス界が馳には低能の社会にみえたからのようです。もともとは馳は高校の教師だったこともあり,プロレスラーが思っていたよりも低能だったために,そのような社会に入ってくるつもりではなかったという意味の発言でした。馳は実際にそのように口に出したので,それを聞いていたある先輩レスラーから怒られたと谷津は言っています。谷津は見ていただけのようですが,いくら酔った上でのこととはいえ,そんなことを先輩に聞こえるように口に出すので,大丈夫かなと思ったそうです。
 馳は実際に高校で教師をしていました。当然ながらそれは大学を卒業したということを意味します。また学生時代にはアマレスでオリンピックにも出場しています。ですから新弟子としてプロレス界に入った選手たちとは,かなり異なった考え方をもっていたというのは事実だと推測されます。ただし,アマレスに関する谷津の馳に対する評価はかなり低いです。オリンピックにも出た選手なのでどれくらい強いのかと思って実際にやってみたことがあるそうなので,これは体験として谷津にはそう感じられたのでしょう。アマレスを経てプロレスラーになった選手の中で,アマレスが最も強かったのは谷津であるという主旨の,アマレス界の重鎮のことばがありますから,プロレスラーの中でのアマレスの強さでは谷津は傑出していたかもしれません。ただかつて谷津は谷津の雑感④でいったように,三沢光晴川田利明を指導したことがあり,その頃はスパーリングもできないほどふたりとも小さかったと言ってはいますが,弱かったとは発言していません。もちろん三沢も川田もオリンピックに出るような選手ではありませんでしたから,強さに対する事前の思い込みは馳に対するものの方が大きかったのは間違いないと思いますが,それでも谷津からみると拍子抜けするほどのものだったようです。馳はグレコローマンの重量級でオリンピックに出場していますが,他にいい選手がいなかったから馳が出場することができたのだろうというのが,実際に馳と戦ってみての谷津の結論です。

 スピノザがいうDeusの本性の必然性とは,第一部公理三でいわれていることにほかなりません。すなわち,一定の原因causaが与えられるならそこから必然的にnecessario何らかの結果effectusが生じなければならず,一切の原因が与えられないのであれば結果が生じることはないということです。よって第一部定理一六でいわれていることは,神という原因が与えられれば,無限に多くのinfinita仕方で無限に多くのものが結果として生じるという意味です。そして神の本性の必然性necessitate divinae naturaeとして含まれているのはこのことだけであって,ほかに何かが含まれていることはありません。
                                   
 このことは,スピノザが目的論を排除することと関係します。神の本性の必然性には因果律だけが含まれているのであって,目的finisは含まれていないからです。このことは,自然Naturaを神と変わらないものとして考える,あるいは同じことですが神の本性の必然性を自然法則と同じものとして考えるスピノザの立場からは,当然の帰結といえます。第一部付録でいわれているように,自然が何かの目的を立てるということはあり得ません。同様に,自然法則が何かの目的を達成するために組まれる法則であることもあり得ないからです。そしてこのことが神にも適用されるのですから,神が何かの目的を立てて働くagereということもあり得ないのです。
 スピノザのこの考え方は,第一部定理三三備考二でいわれていることからより明瞭に理解することができます。そこではスピノザは,神が自由意志voluntas liberaによって働くというのは誤りerrorであるけれど,神が善意によって働くというほどには誤っていないという意味のことをいっています。何度もいっているように,これは哲学史の中では,デカルトRené DescartesはライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizほどには誤っていないということですが,このことは今は考慮しなくて構いません。現在の考察との関連で重要なのは,なぜデカルトはライプニッツほどには誤っていないといえるのかという点です。それは,デカルトの場合は神は自由意志によって何事をもなすので何か目的が含まれているわけではないけれども,ライプニッツの場合は神が善bonumという目的のために働くということになってしまい,神を善という目的に従属させてしまうからなのです。
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