大垣記念の決勝。並びは平原‐久木原の埼玉,山口‐岡本の中部,岩谷‐井上の九州で坂本と古性と犬伏は単騎。
久木原がスタートを取ったのですが,平原は他の選手たちをかなり気にしての道中となり,誘導の後ろに入ったのは残り3周のバックに入ってからでした。3番手に山口,5番手に古性,6番手に坂本,7番手に犬伏,8番手に岩谷という隊列になりました。隊列が決まった直後のコーナーに入るところから岩谷が上昇を開始。ホームでは山口も合わせて出て,残り2周の1コーナーでは平原,山口,岩谷の3人が横一列に。ここから平原が一旦は引き,バックに入るところで岩谷が前に。打鐘では3番手に山口で5番手に古性,6番手が平原と坂本でその後ろに久木原。ただペースがさほど上がりませんでした。ホームに入ると最後尾にいた犬伏が発進。バックの入口で岩谷をかますとあとは離す一方で,最終コーナー付近ではセーフティーリード。そのまま後続を千切って犬伏が優勝。バックから捲った古性が5車身差で2着。古性の後からの発進になった山口が2車身差の3着。
優勝した徳島の犬伏湧也選手は昨年8月に小倉でFⅠを完全優勝して以来の優勝。グレードレースはこれが初優勝。このレースは抑えて前に出た岩谷がペースを落とし過ぎました。このために犬伏のかましが最後尾からのものだったために,かました時点でのほかの選手とのスピードに差がありすぎ,あっけなく決着。このレースのようにラインが少なく単騎の選手が多くなると,このようなかましが決まるケースがありますが,それにしてもものの見事に決まった感じです。最後尾になったので腹を括ったということはあるでしょうが,かましにいった犬伏の勝負度胸が光るレースでした。
スピノザは第四部序言の中で,神あるいは自然Deus sive Naturaといういい方をしています。これはスピノザが神と自然を,通常に思われているほどには異なっていないと考えていることの端的な証拠といえます。すでに説明したように,スピノザが神の本性の必然性とか神の本性の法則というとき,それは僕たちが慣れ親しんでいる語句でいえば自然法則と置き換えてそう大きな間違いは起きないのですから,確かにスピノザは,僕たちが普通に考えているほどには,あるいは『はじめてのスピノザ』に合わせていえば,スピノザの哲学の入門者が抱いているほどには,神と自然を異なったものとは考えていないのです。自然のうちに起こることはすべて神の本性の必然性あるいは自然法則に従って生じるのであって,それは別に僕たちが自然現象として理解するような,諸々の物体的現象だけを含んでいるのではありません。僕たちがあるものを認識し,またあることを意志し,またある感情affectusに捉われるといったようなことも,すべて神の本性の必然性あるいは自然法則によって生じているのです。そしてこのような意味で,スピノザがいっている神は自然科学的な神なのであり,何ら宗教的な神ではありません。僕がよくいういい方でいえば,スピノザがいっている神は,信仰fidesの対象ではなく,認識cognitioの対象です。いい換えれば,僕はスピノザがいっている神,すなわち絶対に無限な実体substantiaが存在するということを知っている,十全に認識しているのであって,そのことを信じているのではないのです。
それでは汎神論と関係する部分の考察はここまでにして次に移ります。
『はじめてのスピノザ』の第二章の二節で,事物の本性essentiaと力potentiaの関係が,人間の現実的本性actualis essentiaとしての欲望cupiditasと絡めて説明されています。その中で國分は,普通は不変の本性というものがあって,その上で欲望という移り気なものが働くと理解されているけれども,スピノザの哲学では力としての本性は変化するのであり,その変化して辿り着いた各々の状態が欲望として作用するのだという主旨のことをいっています。これはたぶんスピノザの哲学についてきわめて重要なことをいっていますので,僕も詳しく探求していくことにします。
久木原がスタートを取ったのですが,平原は他の選手たちをかなり気にしての道中となり,誘導の後ろに入ったのは残り3周のバックに入ってからでした。3番手に山口,5番手に古性,6番手に坂本,7番手に犬伏,8番手に岩谷という隊列になりました。隊列が決まった直後のコーナーに入るところから岩谷が上昇を開始。ホームでは山口も合わせて出て,残り2周の1コーナーでは平原,山口,岩谷の3人が横一列に。ここから平原が一旦は引き,バックに入るところで岩谷が前に。打鐘では3番手に山口で5番手に古性,6番手が平原と坂本でその後ろに久木原。ただペースがさほど上がりませんでした。ホームに入ると最後尾にいた犬伏が発進。バックの入口で岩谷をかますとあとは離す一方で,最終コーナー付近ではセーフティーリード。そのまま後続を千切って犬伏が優勝。バックから捲った古性が5車身差で2着。古性の後からの発進になった山口が2車身差の3着。
優勝した徳島の犬伏湧也選手は昨年8月に小倉でFⅠを完全優勝して以来の優勝。グレードレースはこれが初優勝。このレースは抑えて前に出た岩谷がペースを落とし過ぎました。このために犬伏のかましが最後尾からのものだったために,かました時点でのほかの選手とのスピードに差がありすぎ,あっけなく決着。このレースのようにラインが少なく単騎の選手が多くなると,このようなかましが決まるケースがありますが,それにしてもものの見事に決まった感じです。最後尾になったので腹を括ったということはあるでしょうが,かましにいった犬伏の勝負度胸が光るレースでした。
スピノザは第四部序言の中で,神あるいは自然Deus sive Naturaといういい方をしています。これはスピノザが神と自然を,通常に思われているほどには異なっていないと考えていることの端的な証拠といえます。すでに説明したように,スピノザが神の本性の必然性とか神の本性の法則というとき,それは僕たちが慣れ親しんでいる語句でいえば自然法則と置き換えてそう大きな間違いは起きないのですから,確かにスピノザは,僕たちが普通に考えているほどには,あるいは『はじめてのスピノザ』に合わせていえば,スピノザの哲学の入門者が抱いているほどには,神と自然を異なったものとは考えていないのです。自然のうちに起こることはすべて神の本性の必然性あるいは自然法則に従って生じるのであって,それは別に僕たちが自然現象として理解するような,諸々の物体的現象だけを含んでいるのではありません。僕たちがあるものを認識し,またあることを意志し,またある感情affectusに捉われるといったようなことも,すべて神の本性の必然性あるいは自然法則によって生じているのです。そしてこのような意味で,スピノザがいっている神は自然科学的な神なのであり,何ら宗教的な神ではありません。僕がよくいういい方でいえば,スピノザがいっている神は,信仰fidesの対象ではなく,認識cognitioの対象です。いい換えれば,僕はスピノザがいっている神,すなわち絶対に無限な実体substantiaが存在するということを知っている,十全に認識しているのであって,そのことを信じているのではないのです。
それでは汎神論と関係する部分の考察はここまでにして次に移ります。
『はじめてのスピノザ』の第二章の二節で,事物の本性essentiaと力potentiaの関係が,人間の現実的本性actualis essentiaとしての欲望cupiditasと絡めて説明されています。その中で國分は,普通は不変の本性というものがあって,その上で欲望という移り気なものが働くと理解されているけれども,スピノザの哲学では力としての本性は変化するのであり,その変化して辿り着いた各々の状態が欲望として作用するのだという主旨のことをいっています。これはたぶんスピノザの哲学についてきわめて重要なことをいっていますので,僕も詳しく探求していくことにします。