ライプニッツGottfried Wilhelm LeibnizがオルデンブルクHeinrich Ordenburgから見せてもらった書簡として,書簡七十三のほかにあげられているのが書簡七十五です。
これは書簡七十四への返信。1675年12月となっていますが,書簡七十四が1675年12月16日付となっていますから,その書簡がスピノザの手許に届くまでの期間を考慮すれば,1675年もかなり押し詰まった時期に書かれたものと思われます。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。この書簡はライプニッツが筆写したものが現在も残されていますので,ライプニッツがオルデンブルクから見せてもらったことは確定できます。
まずスピノザがいっているのは,すべてが神Deusの本性naturaの必然性necessitasから生じるということは,神を運命に従属させることとは異なるということです。
次に,あらゆることが神の本性の必然性から発生するとしても,神の法や人間の法を廃棄する,いい換えれば無意味に帰することにはならないということです。これは善悪と関連しているのであって,すべてが必然的にnecessario生じるとしても,善bonumや悪malumはなくならないという意味です。
書簡七十三において奇蹟miraculumと無知を同意語とみなしたのは,神や宗教religioを奇蹟の下に築こうとする宗教家は,自身に不明瞭な事柄をさらに不明瞭な事柄で説明しようとしているにすぎないからです。これはすべてを自身の無知に帰するという意味で帰無知法というべき方法論であって,この方法論を採用すること自体がその宗教家の無知の証明Demonstratioだとスピノザはいっています。
キリストが死者たちの間から復活したというのは,精神的なものであり,信者の把握力に応じて示されました。要するにこれは寓話で,知的能力が低い信者がキリストを信仰することを目指して物語られたとスピノザはいっています。これは書簡七十八に続いていくことになります。
最後に,オルデンブルクがスピノザの主張に矛盾を感じるのは,東方言語の表現をヨーロッパ話法の尺度で解そうとするからだという指摘があります。これは聖書の文章を研究する際にはだれにでも適用できそうな興味深い指摘だといえそうです。
良心の呵責conscientiae morsusを感情affectusとしてみたとき,基本感情affectus primariiのうちのどれに該当するかといえば,悲しみtristitiaであるということはいうまでもないでしょう。僕たちがいう良心の呵責は,僕たちがなした事柄に対して発生する感情ですから,ここでは良心の呵責を,自分がなした事柄の観念ideaを伴った悲しみと規定しておきます。
第四部定理八がいっているのは,僕たちの悪malumの認識cognitioは,意識化された悲しみであるということです。したがって僕たちは,悪である事柄をなしたから良心の呵責を意識するのではありません。むしろ良心の呵責を意識するがゆえに,自分がなしたことを悪と認識するcognoscereのです。悪の認識が前もってあるがゆえにそれに良心の呵責を感じるというように思っているかもしれませんが,それは思い込み,あるいは同じことですが錯覚なのであって,良心の呵責を意識することによって,自分のなしたことを悪であると認識するのです。
基本感情は喜びlaetitiaと悲しみ,そして欲望cupiditasの三種類に分類されるのですが,欲望というのは第三部諸感情の定義一にあるように,僕たちの現実的本性actualis essentiaを構成します。僕たちの現実的本性は喜びを希求し悲しみを忌避するのですから,欲望というのは喜びを希求する欲望と悲しみを忌避する欲望の二種類に大別することができます。よってあらゆる感情は,喜びというベクトルをもつか,悲しみというベクトルをもつかのどちらかであるということができます。しかるに僕たちは喜びを意識するならそれを善と認識し,悲しみを意識するならそれを悪と認識するのです。このことから理解できるように,僕たちは自身に生じる感情を意識するなら,その途端にそれを善と認識するか,そうでないならそれを悪と認識するのです。前もっていっておいたように,僕たちが意識するのは感情だけではないのですが,少なくとも僕たちの感情を意識する限り,僕たちはすでに善と悪の判断を下してしまっているのですから,善悪の判断にその感情の意識とは別の,いわば中立的な意識が介在する余地はありません。このことからも,中立的な良心が前もってあって.その良心が善なり悪なりを判断するということが,僕たちの錯覚にすぎないことが理解できるでしょう。
これは書簡七十四への返信。1675年12月となっていますが,書簡七十四が1675年12月16日付となっていますから,その書簡がスピノザの手許に届くまでの期間を考慮すれば,1675年もかなり押し詰まった時期に書かれたものと思われます。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。この書簡はライプニッツが筆写したものが現在も残されていますので,ライプニッツがオルデンブルクから見せてもらったことは確定できます。
まずスピノザがいっているのは,すべてが神Deusの本性naturaの必然性necessitasから生じるということは,神を運命に従属させることとは異なるということです。
次に,あらゆることが神の本性の必然性から発生するとしても,神の法や人間の法を廃棄する,いい換えれば無意味に帰することにはならないということです。これは善悪と関連しているのであって,すべてが必然的にnecessario生じるとしても,善bonumや悪malumはなくならないという意味です。
書簡七十三において奇蹟miraculumと無知を同意語とみなしたのは,神や宗教religioを奇蹟の下に築こうとする宗教家は,自身に不明瞭な事柄をさらに不明瞭な事柄で説明しようとしているにすぎないからです。これはすべてを自身の無知に帰するという意味で帰無知法というべき方法論であって,この方法論を採用すること自体がその宗教家の無知の証明Demonstratioだとスピノザはいっています。
キリストが死者たちの間から復活したというのは,精神的なものであり,信者の把握力に応じて示されました。要するにこれは寓話で,知的能力が低い信者がキリストを信仰することを目指して物語られたとスピノザはいっています。これは書簡七十八に続いていくことになります。
最後に,オルデンブルクがスピノザの主張に矛盾を感じるのは,東方言語の表現をヨーロッパ話法の尺度で解そうとするからだという指摘があります。これは聖書の文章を研究する際にはだれにでも適用できそうな興味深い指摘だといえそうです。
良心の呵責conscientiae morsusを感情affectusとしてみたとき,基本感情affectus primariiのうちのどれに該当するかといえば,悲しみtristitiaであるということはいうまでもないでしょう。僕たちがいう良心の呵責は,僕たちがなした事柄に対して発生する感情ですから,ここでは良心の呵責を,自分がなした事柄の観念ideaを伴った悲しみと規定しておきます。
第四部定理八がいっているのは,僕たちの悪malumの認識cognitioは,意識化された悲しみであるということです。したがって僕たちは,悪である事柄をなしたから良心の呵責を意識するのではありません。むしろ良心の呵責を意識するがゆえに,自分がなしたことを悪と認識するcognoscereのです。悪の認識が前もってあるがゆえにそれに良心の呵責を感じるというように思っているかもしれませんが,それは思い込み,あるいは同じことですが錯覚なのであって,良心の呵責を意識することによって,自分のなしたことを悪であると認識するのです。
基本感情は喜びlaetitiaと悲しみ,そして欲望cupiditasの三種類に分類されるのですが,欲望というのは第三部諸感情の定義一にあるように,僕たちの現実的本性actualis essentiaを構成します。僕たちの現実的本性は喜びを希求し悲しみを忌避するのですから,欲望というのは喜びを希求する欲望と悲しみを忌避する欲望の二種類に大別することができます。よってあらゆる感情は,喜びというベクトルをもつか,悲しみというベクトルをもつかのどちらかであるということができます。しかるに僕たちは喜びを意識するならそれを善と認識し,悲しみを意識するならそれを悪と認識するのです。このことから理解できるように,僕たちは自身に生じる感情を意識するなら,その途端にそれを善と認識するか,そうでないならそれを悪と認識するのです。前もっていっておいたように,僕たちが意識するのは感情だけではないのですが,少なくとも僕たちの感情を意識する限り,僕たちはすでに善と悪の判断を下してしまっているのですから,善悪の判断にその感情の意識とは別の,いわば中立的な意識が介在する余地はありません。このことからも,中立的な良心が前もってあって.その良心が善なり悪なりを判断するということが,僕たちの錯覚にすぎないことが理解できるでしょう。
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