スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ゴールド・ウイング賞&行程

2024-04-23 19:00:46 | 競輪
 西武園記念の決勝。並びは真杉‐坂井の栃木,黒沢‐森田‐平原‐武藤‐一戸の埼玉,深谷に稲川。
 スタートを取りに出たのは深谷と坂井。深谷が誘導の後ろに入って前受け。3番手に真杉,5番手に黒沢で周回。残り3周のバックの半ばから黒沢がゆっくりと上昇を開始。ホームで外の方から深谷を叩き,バックでは埼玉の5人が前に出て,打鐘前から黒沢が全力で駆けていきました。叩かれた深谷が6番手で真杉が8番手の一列棒状。ホームに入って車間を開けていた森田がホームの出口から早くも番手から発進。バックで深谷が発進すると武藤が牽制しさらに平原も牽制。稲川は両者の内に潜り込みました。直線に入って平原が森田を抜きにかかりましたが,立て直した深谷と後方からの捲り追い込みになった真杉も強襲。大外の真杉が差し切って優勝。深谷が1車輪差の2着で平原は半車身差の3着。
 優勝した栃木の真杉匠選手は競輪祭以来の優勝。記念競輪は昨年の宇都宮記念以来となる4勝目。西武園記念は初優勝ですが,昨年のオールスター競輪を当地で制しています。このレースはラインの構成が歪になったので,さすがに脚力で上位の深谷や真杉よりも埼玉勢の方が有利ではないかと思っていました。黒沢がわりと楽に前を叩き,邪魔をされずに5人が前に出たのですから,展開としては絶好だった筈です。ただこれは結果論かもしれませんが,森田が番手から発進していくタイミングが早すぎたのではないでしょうか。また,平原も深谷の牽制は武藤に任せ,そのまま発進してしまった方がよかったように思います。こうしたことが積み重なって,道中はまったく脚を使わずに後方からの捲り追い込みになった真杉が届いたということでしょう。

 『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の記述は,アムステルダムAmsterdamに滞在していた1ヶ月の間にライプニッツデルフトDelftまで行ってレーウェンフックAntoni von Leeuwenhookと面会し,その後にハーグDen Haagのスピノザを訪問したというように読めます。この場合はライプニッツはアムステルダムからデルフトに向かい,またアムステルダムに戻ってからハーグに行ったということになります。ただ,デルフトというのはアムステルダムよりハーグに近い場所です。だから『フェルメールとスピノザBréviaire de l'éternité -Entre Vermeer et Spinoza』では,デルフトをこよなく愛したフェルメールJohannes Vermeerと,ハーグ近郊のフォールブルフVoorburgに住んでいたスピノザとを結びつける要素のひとつとなっています。なので,当時の移動の労力を考慮すれば,このライプニッツの行程は著しく不合理に感じられます。アムステルダムを離れてデルフトへ行ったのなら,そのままハーグに向かう方が自然だからです。
                                        
 書評で指摘したように,『ある哲学者の人生』は原文のほぼ直訳なので,直訳するとこのようになるのですが,ライプニッツが僕の示したような自然な行程で移動したということを,否定するような文章になっているわけではありません。なので実際は,レーウェンフックを訪問してそのままアムステルダムには戻らずにスピノザを訪問したのかもしれません。また,マルタンJean-Clet Martinは,ライプニッツは先にスピノザと会って後にレーウェンフックと会ったと記述していますが,ナドラーSteven Nadlerの記述はそれをも否定する文章であるわけではありません。レーウェンフックに会ったことが確定的に書かれていて,その後にスピノザを訪問したときのことが書かれていますから,素直に文章を解すれば,デルフトが先でハーグは後になります。ナドラーがそのような意図で記述しているのなら,『フェルメールとスピノザ』は歴史的事実を明らかにしようとしているわけではなく,マルタンの推理を展開している書籍ですから,たぶんマルタンがいっていることよりナドラーがいっていることの方が事実であったと僕は判断します。
 なお,ライプニッツは観光をしていたわけではなく,レーウェンフックおよびスピノザと面会することを目的としていました。ですから行程が非合理的で不自然になってしまう場合もあり得ます。
コメント
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