スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

桜花賞・海老澤清杯&思惟する力

2017-04-12 19:25:01 | 競輪
 被災地支援競輪として行われた昨晩の川崎記念の決勝。並びは菅田‐永沢の北日本,渡辺‐郡司‐小原の南関東,浅井に中川,稲垣‐椎木尾の近畿。
 浅井が飛び出して前受け。3番手に稲垣,5番手に渡辺,8番手に菅田で周回。残り3周のバックを出るあたりから菅田が上昇。途中で止まらなかったので渡辺はそのラインの外に自転車を出し,永沢の後ろには稲垣が切り替え,ホームでは横3列に。ホームの出口で菅田が浅井を叩くのを見届けて渡辺がコーナーから発進。そのまま全開で駆けていき打鐘。4番手に菅田,6番手に稲垣,8番手に浅井の一列棒状でホームを通過。郡司が早くも渡辺との車間を開け始めました。バックから稲垣が発進。これはいいスピードでしたが前で待ち構えていた郡司が合わせるように出て牽制。コーナーで外に浮いてしまった稲垣は失速。そのまま踏み込んだ郡司が優勝。マークの小原が半車身差の2着に続いて地元のワンツー。郡司は牽制のためかなり外に膨れたのですが小原は内を閉め続けたので踏むところがなく,小原追走のまま流れ込むような形で菅田が1車身差の3着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は前回出走のウィナーズカップから連続優勝。記念競輪は昨年の小田原記念以来の3勝目。このレースは郡司は自力でも優勝候補の一角。それが渡辺という援軍を得て,渡辺も何をすればいいのかはよく心得ているでしょうから相当に有利だろうと考えていました。菅田が浅井をきちんと抑えた後で駆けていったタイミングもばっちりで,渡辺もいい仕事をしたと思います。郡司も安易に番手捲りを放つのではなく,車間を開けて稲垣を牽制する走行をしたので,渡辺も直線入口は先頭で回ってきました。結果的には9着だったのですが,二段駆けでありがちな大差の9着ではなく,着順争いにはなっての9着だったので,レース全体としても見事なものであったと思います。

 原因と結果の間には共通点がなければなりません。共通点を構成するのは属性attributumです。したがって原因と結果は同じ属性に含まれます。このことを一般的な形として示したのが第二部定理六です。そしてこれをとくに観念ideaについて示しているのが第二部定理五になります。とくにこの定理Propositioでいわれているように,観念は観念されたものideatumを起成原因causa efficiensと認めないという点が,現在の考察においては重要です。
                                     
 次に,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにある観念があるというとき,その観念の起成原因が何であるのかということを具体的に示しているのが第二部定理九になります。つまり第二部定理九で示されているような様式の下に人間の精神のうちに観念が発生してくるのです。精神が自動機械automa spiritualeであるといわれるのは,この様式の下に観念が自動的に発生してくるからにほかなりません。同じように,認識が純粋な受動passioといわれる場合にも,それはこの様式の下に自動的に観念が発生するということを意味しているのです。観念されるものが起成原因となって自動的に発生してくるのではありませんから,この点を間違えてはならないのです。
 第二部定理四九備考は,人間の精神のうちに観念があるというとき,それが真の観念idea veraであろうと誤った観念であろうと,同じようにそれは思惟する力potentiaとみなされなければならないという解釈を必要としていると僕は考えます。第二部定理九の様式は,それが人間の精神のうちにある場合には,真の観念とだけ関連するのではなく,誤った観念とも関連します。なぜなら誤った観念というのはその人間の精神とだけ関連付けられる限りにおいて誤った観念なのであって,第二部定理三二に示されている通り,それは神と関連付けられればDeum referuntur真の観念であるからです。よって,思惟する力とみなされる観念の起成原因は,同様に思惟する力とみなされなければならない観念そのものです。要するに思惟する力の源泉は思惟する力そのものなのです。
 第二部定義三は,スピノザが定義Definitioの条件のひとつとして掲げる,定義されるもの,この定義でいえば観念の発生を含んでいるということを僕は以前に考察しました。そのこととこれは関係します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする