スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯棋聖戦&観念の形相的本性

2019-04-27 19:22:20 | 将棋
 昨日の第90期棋聖戦挑戦者決定戦。対戦成績は渡辺明二冠が23勝,郷田真隆九段が14勝。
 振駒で渡辺二冠の先手となり角換り相腰掛銀。先手から攻めていく将棋になりましたが,少し心細いところがあり,後手も反撃に転じました。
                                     
 後手が☖6七歩と王手で叩いて☗同金に桂馬を打った局面。ここで☗6六金と逃げるのは絶対手だったようです。
 目につくのは☖6四香ですがこれは☗同銀☖同銀☗3三香で先手が勝つそうです。また☖8一飛と回るのも有力そうですが,これも☗6四歩と打たれると攻め合いでは負けとのこと。なので☖8八角と打ちました。これには☗6七歩の一手。
                                     
 これにも☖8一飛が有力そうですが☗7七桂と打たれると先手が有利だそうです。なので飛車を回ることを前提するなら☖6六角成☗同歩☖8一飛だったのでしょう。そこで☗7八金と受けるのは後手が勝ちのようです。
 実戦は第2図から☖4五銀☗同歩☖6六角成☗同歩☖6七金☗5九王☖4六香で一気に寄せにいきました。ですがこれは☗5六銀と受けられて続かず,先手の勝ちになっています。
 渡辺二冠が挑戦者に。棋聖戦五番勝負は2013年以来となる6年ぶり3度目。第一局は6月4日です。

 客観的有esse objectivumである観念ideaにも形相的本性essentia formalisがあるというのはどういうことかといえば,形相的本性は観念の対象ideatumになるという点から説明することができます。つまりある観念というのはそれ自体が観念の対象になるのです。これが観念の観念idea ideaeといわれるものです。いい換えれば,観念の観念とは,観念の形相的本性と一致している観念であることになります。
 第二部定理四三は,たとえばXの観念がある人間の精神mens humanaのうちにある場合には,この同じ人間の精神のうちにXの観念の観念もあるということを前提しています。これは僕たちは経験的に知っているので,前提として構いません。すなわち僕たちはある事柄を知っているなら,自分がそれを知っているということを知ることができるのであり,こうした関係は無限に続けていくことが,現実的にはそうでなくても,論理的には可能になっているからです。このために,Xの観念がXの真の観念idea veraである場合には,僕たちは自分がXの真の観念を有しているということを知ることができるのです。あるいは知ることになるのです。このために僕たちは,そのXの観念が真の観念であるか否かを懐疑することすらできないのです。
 これでみれば分かるように,自分が真の観念を有しているということを知るのは,観念の働きであるというよりは観念の観念による働きであるといわなければなりません。そして真理veritas一般というのは,個々の真の観念の集積であるのですから,真理一般を僕たちは観念の働きとして知るというよりは観念の観念の働きによって知るというべきだと僕は考えます。したがってこの点を重視するなら,真理は知られるものとしてある,他面からいえば自分が知っているということを知っているものとしてあるということになります。よって真理は客観的有としてあるのであって,形相的有esse formaleとしてあるわけではないということになるでしょう。いい換えれば,真理は知性intellectusのうちに存するものであり,知性を離れて知性の外部に真理はないというべきでしょう。
 現時点で僕は真理が客観的有としてのみあるという見解を採用しますが,これについては論争はしません。事物の形相的本性を真理とみなしても構わないです。

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