津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■寛永13年1月8日江戸城総郭の造営始まる

2016-01-08 17:04:57 | 歴史

 寛永13年1月8日江戸城総郭の造営始まった。細川藩受け持ち丁場は銭亀橋・御成橋見付枡形164間余、総奉行・長岡佐渡(興長)、役人衆4,376人鉄砲衆1,000人。
銭亀橋とは細川家上屋敷(龍之口邸)の前にあった道三堀の道三橋の上流程近い場所である。昭和35年に発刊された「江戸城とその付近」をみると、銭瓶橋としている。初めて橋が架けられたのは慶長期のようで「慶長見聞集」には、この場所から銭瓶が発掘されたと記されているという。小さな橋だが切絵図でも確認できる。
一方の御成橋見付の枡形は延べ164間に及ぶ大工事であった。幸門とも呼ばれ将軍家の増上寺参詣の道筋に当っている。溜池につづく外堀に虎の門・新橋・幸御門(御成橋門)・土橋・難波橋・芝口橋と続いていた。現在は新橋駅から有楽町よりの高架の下となっているらしい。櫓門は津軽家が担当した。  

                        

そしてこの普請に関し前年忠利は妹・万姫(烏丸氏廉中)に、借金の申し入れをしている。
                      
                   わさとひきゃくを以申入候、来年御普請のため、金子ならハ五千両、銀子ならハ三百貫目かり申たく候、
                   壱年三歩之利息にて来年中に元利すまし可申候、はやく銀子とゝのひ候ハゝ、その月にしたかひ右之
                   りぶんのさん用にすまし可申候、しゃく状あて所ハそもしあて候ましく候、くはしき事ハ 三齋さまより御
                   申候へくそうろう、かしこ

                       (寛永十二年)八月十二日
                              あら川殿
                   (御自筆)
                   尚々、わけ見へ申様ニ人にかゝせ申候、金子ハ五千両にてハこれなく候、くハしくはしゃく状にかき申候
                   事ニ候、已上 

あら川とは万姫付の老女で、細川家から付けられた人であろう。
本文は祐筆が書き、尚々書は忠利に自筆である。祐筆には五千両と書かせたが、本当の処はまだ大きな金額なのであろう。
祐筆の手前ちょっと見栄をはったか?天下普請は多くの大名の経済的負担となって苦しめる事に成る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■松寿庵先生・第174講

2016-01-08 08:55:18 | 歴史
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする