前の年10月末に勃発した天草島原の乱は、幕府の府内目付けの初期の対応が悪く、本格的な戦いへと移行していった。
細川藩主・忠利の世子・光利(光尚)は12月6日に熊本着、翌日宇土に出陣、14日に帰陣した。18歳の初陣である。
正月一日に原城総攻撃が始まり、板倉重政が戦死するという結果を招いた。
正月4日光利(光尚)は、三斎の陣代・細川立允とともに兵数8,000人を従え川尻を発して渡海、5日に有馬に着陣する。
2月27日の原城落城まで、寒い中での悲惨な戦いが始まった。
前の年10月末に勃発した天草島原の乱は、幕府の府内目付けの初期の対応が悪く、本格的な戦いへと移行していった。
細川藩主・忠利の世子・光利(光尚)は12月6日に熊本着、翌日宇土に出陣、14日に帰陣した。18歳の初陣である。
正月一日に原城総攻撃が始まり、板倉重政が戦死するという結果を招いた。
正月4日光利(光尚)は、三斎の陣代・細川立允とともに兵数8,000人を従え川尻を発して渡海、5日に有馬に着陣する。
2月27日の原城落城まで、寒い中での悲惨な戦いが始まった。
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