津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■明暦の大火

2016-01-20 07:57:49 | 歴史

 明暦3年(1657)1月18日に江戸におきた火事は20日まで燃えつづけ死者は3万とも10万人に達したともいわれる。10万とするのは瓦版(写真)によるものだろうが、信憑性はどうだろうか。鎮火しては発火を繰り返し三次に亘った。大名小路の細川藩上屋敷(辰口邸)も多くの大名屋敷と共に類焼してしまった。
「振袖火事」とも呼ばれるが、これは後世の作り話だとされる。火元だとされる本妙寺は責任をとらされるでもなくその後大いに発展している。
隣に老中・阿部忠秋の屋敷があり、実はここが火元なのだが本妙寺を火元としたという節がある。つまり罪を被ったと言う訳だが有りうる咄ではある。

慢性的金欠状態にあった藩は藩邸の再建のために、知行の一分(1%)の拠出を命じている。
江戸の大火事は数度に亘っているが、十二月・一月~三月に集中している。住民の難儀の程がしのばれる。「火の要鎮をいたしましょう・・・」

    浅井了意が記した「むさしあぶみ」が詳しい。(早稲田大学蔵書)
 

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■恙なく

2016-01-19 07:34:14 | 徒然

 零下には至らなかったが随分寒い朝を迎えた。昼間も4度ほどというから今冬一番の寒さに成るようだ。寒がりの私には大いに堪える。
(未明には強い風が吹き荒れ、8時頃からは雪が降り始めました。) 

今日はかくいう私の誕生日なのだが、74年前の東京も随分寒かったらしい。
二年ほどの東京くらしをして熊本に帰郷したのだが、唯一の自慢は健康優良児で東京市長から表彰をうけたことである。
七つ上の姉(故人)にいわせると「単なるぶた」だったからだと容赦ない。食料にも難儀する戦時中のことだから、非国民と云われなかっただけでも良としなければならない。
写真をみると随分の大頭で、肥後狂句の「大頭(ううあたま)井戸をのぞいてかやり(返り)こみ」状態である。

この一年を無事に過し来年の誕生日を迎えると、「後期高齢者」ということになる。
これまでの一年なんとか健康に過したが、随分足が弱ってきたのを実感している。

今年の書き始めには「恙」という文字を書き「七四爺」と添えた。ただただ恙無い一年であって欲しいとの願いを込めて・・・・・

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■荻 昌国故ありて自殺す

2016-01-18 08:44:51 | 書籍・読書

 文久二年正月十八日郡代・荻昌国は任地である小国で自殺した。

荻氏については2009年12月に 細川家家臣・荻氏 を書いた。ダンディーな映画評論家として知られた荻昌弘氏がそのご子孫である。
河津武俊氏の著「肥後細川藩幕末秘聞」はその昌国を取り上げているが、臼内切地区の住民がキリシタンであるが故に隠密裏に殺害されたという事件(?)と結びつけて氏の夢想の作品としている。傍証のない強引な筋書きと成っている様に思えるが、それは昌国の原因が判らぬ不可解な死の故でもある。
                     1388
現在では弦書房の発行となっているが、私が持っている本は其の前に発刊された講談社版(1993初版)である。
久しぶりに書棚から取り出して眺めているが、改めて昌国の死の原因は何故なのだろうかと首を傾げるばかりである。
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■忠利病む

2016-01-17 18:04:04 | 歴史

 寛永十八年一月十八日、八代に父・三斎を見舞った忠利は宇土に至り右足にしびれを感じて、言語不明瞭となった。
もともと病弱であった忠利は、寛永十五年の天草島原の乱に出陣し陣頭で指揮をとるなどして、過労が重なっていた。
しかし年末には息・光尚に対し「我等息災十年此かた覚不申候」と体調の良さを申し送っていた矢先の事である。
ちょうど参勤の時期に当たり、忠利はなんとか出発を願っていたがこれが叶うことはなかった。
江戸の奥方や息・光尚に想いを寄せながら病と闘う姿を考えると痛々しい限りである。 

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■細川家ゆかり「松聲閣」開所 文京の大正建築 改修終わる

2016-01-17 08:23:21 | 徒然

改修を終え開所式が行われた「松聲閣」=文京区で

写真

 文京区立新江戸川公園(目白台一)内にある、元熊本藩主細川家ゆかりの大正期の建物「松聲閣(しょうせいかく)」の改修が終わり十六日、開所式典が行われた。
成沢広修区長や、この建物で幼いころ暮らした細川護熙元首相らが出席。「東京の新たなパワースポットとして人気を集められればうれしい」(細川氏)などと祝った。

 新江戸川公園は、江戸時代にあった細川家の下屋敷の庭園を生かした公園。一九六一年に都立公園となり七五年に区に移管された。

 松聲閣は細川家の学問所で大正期の建築。区の公園となってからは区民の集会所だったが、老朽化で閉鎖され、改修工事が行われていた。
木造一部二階建て延べ床面積五百平方メートルで、総工費は三億六千七百万円。大正期の木材を活用しながら、新築部分もある。

 式典には、区と文化などの分野で連携の覚書を結んでいる熊本県の蒲島郁夫知事や、熊本市の大西一史市長、新宿区の吉住健一区長も出席。
熊本の人気キャラクター「くまモン」も登場して、細川氏の筆による「松聲閣」の銘板を除幕した。

 細川元首相は「この辺は武蔵野の面影が残り、庭にはオシドリやカモ、キジ、タヌキが生息していた」と思い出を交えて祝った。

 成沢区長は松聲閣など公園の改修を機に、公園名を変更する方針を表明。
隣接する美術館で、細川家の名品を収蔵する「永青文庫」など、近くに集まる文化資源を生かし「松聲閣を拠点として緑と歴史を生かした街づくりを進める」とした。
  
東京新聞記事を全文引用

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■御恵贈御礼「長宗我部 復活篇」

2016-01-16 18:03:17 | 書籍・読書

          文春文庫<br> 長宗我部―復活篇  文春文庫 http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167905408

先に発刊された長宗我部友親氏著の「長宗我部」の続編とも云うべきこの著が1月10日に発刊された。
お贈り頂いたY様は遠戚に当たる方だが、氏のおばあ様と私の母が従姉妹の間柄である。
そしてお母上が長宗我部氏から別れたH氏のご出身、我が家の五代目の奥方がH家から嫁いで来ておられると言う関係でもある。
氏と私は随分遠い遠戚ともいえる関係だが、おばあ様、お母上様、ご本人と代々親しくさせていただいている。
著者の長宗我部様とは大変お親しい間柄とお聞きしている。お心遣いをいただきご恵贈をいただいた、厚く御礼申し上げる。

細川家の関係資料の中に、立石某が記した長元記(長宗我部元親記)というものがある。
写本が上妻文庫に収められており読み下しに挑戦しているが、何せ長文であり難儀して頓挫している。
これを機会に再度チャレンジせねばなるまいと考えている。 

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■矢部誠一郎著書 二件

2016-01-15 17:47:45 | オークション

淡交社 矢部誠一郎著 「細川三斎 茶の湯の世界」  淡交社 矢部誠一郎著 「細川三斎 茶の湯の世界」

 

利休随一の弟子三斎 細川忠興/矢部誠一郎(著者)  利休随一の弟子三斎 細川忠興/矢部誠一郎(著者)

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■史談会の準備

2016-01-15 17:05:49 | 熊本史談会

 明日の史談会を前にして、資料の準備と内容の再チェックに大わらわの状態です。
いまから150枚ほどのコピーと仕分けで2時間ほどかかるでしょうか。少々取り掛かりが遅れて自業自得なのですが・・・・・
 

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■松寿庵先生・第175講

2016-01-14 10:09:07 | 史料

                            牛馬の守護神 -厩猿信仰

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■明智一族・三宅家の史料

2016-01-13 15:32:24 | 書籍・読書
         明智一族 三宅家の史料
 
            清文堂出版

先に熊本日々新聞で紹介されたところだが、これまで門外不出とされてきた三宅家の貴重な史料が今般刊行された。
詳細については、清文堂出版のサイトをご覧いただきたい。25,920円といささか値段がはるが、読み応えのある史料である。
明智氏研究者には必見といえる。 

お読みになった方々からそろそろ読後感など出てくる頃である。

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■正月十三日生まれの二人

2016-01-13 08:42:21 | 歴史

 元和三年(1617)正月十三日、豊前において生母が異なる二人の男子が誕生した。五男・天千代(刑部家初代・興孝)と六男・巌千あ代(松井家三代・寄之)である。
巌千代・松井寄之については昨日書いたので略する。
天千代は宇土細川家の初代・立允と同腹の兄弟であり、生母は清田主計鎮乗入道素閑女・幾知である。

立允は三斎に溺愛されたが、興孝は疎んじられた。元和五年から證人として江戸に送られ、天草島原の乱に当たっては出陣を希望したがこれも聞き入れられず、寛永十七年(1640)正月にゆるされて江戸出立、途中剃髪して三月廿一日熊本に入った。
扶持についても三斎の管理するところとなり、不満は増幅して父子の関係は険悪なものであった。
21年間も證人として江戸にあった人にたいする扱いとしては、三斎の晩年の老耄ぶりを差し引いてもいささか首を傾げさせる。

 

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■松井寄之の遺書

2016-01-12 16:34:00 | 歴史

 宮村典太の書写史料「雑撰録」に、「興長殿へ寄之殿遺書」という一文が所載されている。
副題として「江戸江罷越候付書置申候」とあり、最後に正月九日とある。宛名は「佐渡様・吉松殿」とあり署名は長岡式部少輔である。

慶安三年(1650)十二月二十六日藩主光尚が江戸上屋敷で死去する(31歳)。嫡子六丸(綱利)はまだ七歳であり、幕府に対し光尚は領土の返上を申し出ている。
年が変わって二日、在府の家老・長岡(沼田)勘解由が幕府の意向その他を託して熊本へ密使を発した。
光尚死去後の急使の報により、江戸へ発つ予定をしていた松井興長の元へ九日密使が到着する。
即刻重臣の密議の結果、長岡式部(寄之)・都甲太兵衛・梅原九兵衛の三人が出府することに決定した。そしてその日の夜に三人は出発するのである。
そんな切迫したわずかの時間に、寄之が認めた遺書である。養父・興長への感謝と、息・吉松の行く末、また実父・忠興の元を離れて長岡(沼田)勘解由へ再嫁した実母を案じるまさに藩の存続をかけて江戸へ赴く寄之の想いが認められている。
 
三人は二月七日に江戸着、幕閣を相手に江戸家老長岡勘解由らと共に走り回り、遂に四月十八日若干七歳の六丸(綱利)への遺領相続を勝ち取ったのである。寄之は忠興の末子として、元和三年(1617)正月十三日に豊前で生まれている。生母は一色義有の家臣・真下元重女「才」である。

この時期35歳、家老見習い(若年寄)である。寛文元年(1661)綱利が成長して初入国した年に養父・興長が八十歳で死去すると、家督相続(45歳)した。
室は長岡右馬之助重政(細川幽齋末弟・好重の嫡子)女・古宇である。

現在この遺書を精読しているが、釈文をご紹介するにはいささか時間を要しそうである。

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■無題

2016-01-12 09:40:22 | オークション

   熊本県指定重要文化財 旧細川刑部邸移築工事報告書 H8   只今4,000円

   熊本県 指定重要文化財 旧細川刑部邸 移築工事報告書 平8 44010   只今800円


    まったく同じ品物なんですけど・・・・・・・・・・

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■又々資料の流出

2016-01-11 10:19:16 | オークション

又オークションで大量の史料が分散しようとしている。内容を見てみると熊日新聞の関係者のご所蔵であったように感じられる。
石川清喜氏の名前も伺える。
富重写真館の貴重な写真が多く見受けられる。
大量の貴重な史料がこのように分散されてしまうことは誠に残念の極みである。無力感を感じてしまう。

 

kv53_熊本等細川関係 研究資料写真2/古写真古地図手紙美術館
kv53_熊本等細川関係 研究資料写真2/古写真古地図手紙美術館

kv54_熊本等細川関係 研究資料写真3/古写真古地図手紙美術館

kv55_熊本等細川関係 研究資料写真4/古写真古地図手紙美術館

kv56_熊本等細川関係 研究資料写真5/古写真古地図手紙美術館

kv57_熊本等細川関係 研究資料1徳富蘇峰/古文書古写真古地図手紙

kv58_熊本等細川関係 研究資料2重要文化財奈良家工事報告書

kv59_熊本等細川関係 研究資料3/古文書古写真古地図手紙美術館

kv60_熊本等細川関係 研究資料4/古文書古写真古地図手紙美術館

kv61_熊本等細川関係 研究資料5/古文書古写真古地図手紙美術館

kv62_熊本等細川関係 研究資料6/古文書古写真古地図手紙美術館

kv63_熊本等細川関係 研究資料7/古文書古写真古地図手紙美術館

kv64_熊本等細川関係 研究資料8 貴重ネガフィルム大量/手紙

kv65_熊本等細川関係 研究資料9/古文書古写真古地図手紙美術館

kv66_熊本等細川関係 研究資料10/古文書古写真古地図手紙美術館

kv67_熊本等細川関係 阿蘇 研究資料ノート11冊/古写真古地図手紙

 


 


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■池田校区史跡分布図

2016-01-10 16:38:33 | 熊本

 池田校区周辺は史跡の宝庫なのだが、場所がなかなか判りずらく私自身まだ訪ねていない場所が沢山ある。
「平成肥後国誌」にあるこの図であらかたの見当を付けて出かけて見ても、行きつかなかったことが度々あった。
ゼンリンの地図と首っぴきでの前準備が必要である。 

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