津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■松井寄之の遺書

2016-01-12 16:34:00 | 歴史

 宮村典太の書写史料「雑撰録」に、「興長殿へ寄之殿遺書」という一文が所載されている。
副題として「江戸江罷越候付書置申候」とあり、最後に正月九日とある。宛名は「佐渡様・吉松殿」とあり署名は長岡式部少輔である。

慶安三年(1650)十二月二十六日藩主光尚が江戸上屋敷で死去する(31歳)。嫡子六丸(綱利)はまだ七歳であり、幕府に対し光尚は領土の返上を申し出ている。
年が変わって二日、在府の家老・長岡(沼田)勘解由が幕府の意向その他を託して熊本へ密使を発した。
光尚死去後の急使の報により、江戸へ発つ予定をしていた松井興長の元へ九日密使が到着する。
即刻重臣の密議の結果、長岡式部(寄之)・都甲太兵衛・梅原九兵衛の三人が出府することに決定した。そしてその日の夜に三人は出発するのである。
そんな切迫したわずかの時間に、寄之が認めた遺書である。養父・興長への感謝と、息・吉松の行く末、また実父・忠興の元を離れて長岡(沼田)勘解由へ再嫁した実母を案じるまさに藩の存続をかけて江戸へ赴く寄之の想いが認められている。
 
三人は二月七日に江戸着、幕閣を相手に江戸家老長岡勘解由らと共に走り回り、遂に四月十八日若干七歳の六丸(綱利)への遺領相続を勝ち取ったのである。寄之は忠興の末子として、元和三年(1617)正月十三日に豊前で生まれている。生母は一色義有の家臣・真下元重女「才」である。

この時期35歳、家老見習い(若年寄)である。寛文元年(1661)綱利が成長して初入国した年に養父・興長が八十歳で死去すると、家督相続(45歳)した。
室は長岡右馬之助重政(細川幽齋末弟・好重の嫡子)女・古宇である。

現在この遺書を精読しているが、釈文をご紹介するにはいささか時間を要しそうである。

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