津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

寛永八年の天変地異

2008-01-25 14:14:26 | 歴史
 寛永八年の天変地異や不思議な現象は、三月の浅間山の噴火をスタートとしている。此の年は豊臣秀頼の17回忌に当たると共に、「関ヶ原戦の時は大噴火」の時や「松平忠直の時は小噴火」があって、今回の噴火や、後のいろいろな不可思議な現象は忠長のご乱行のせいだとばかりに噂している。
  細川家史料から
4/24書状・・加藤義嘉領内で「鳥ニ三万集り、くい合、數もなく(無数)死申由」
4/28書状・・各地冷気、江戸旱天鐖饉たるべきか、有明の月・月蝕等
5/15書状・・遠江佐野郡に糖がふる
      4/8江戸雷雨、大霰、狐・狸・とひ・からす數もなく(無数)に死
           霰大きさ一尺五寸(45㎝)、怪我人も出る
      鎌倉沖で竜巻、舟十艘を巻き上げ
      鎌倉大霰、家を貫き死傷者でる
      木曽飛騨山火事・増上寺塔火事
5/24書状・・江戸にも砂糖様のもの降る
      信濃松本、山二つ分の大木のほとんどが捻じ切られる。雨が降ると百姓屋が
           青く燃える
      越後村上城下大火(300軒)、出羽山形城下大火(570~580)・出羽上山城
           下(4・500軒)、尾張名古屋城諸方より出火
      川中島あたりに大霰降る
6/8書状・・江戸寒冷
7/6書状・・中津にも甘き雨降る
10/2書状・・京都の大風、永荒廿七・八万石、死者一万ニ・三千人

 天変地異や息・忠長のご乱行が秀忠を苦しめた。翌寛永九年一月二四日死去。
忠長は新将軍・兄家光の沙汰により改易、高野に逼塞、翌十年自害した。
忠長は生母お江与の伯父・織田信長によく似ていたと伝えられ、それが故にお江与が溺愛したとも伝えられる。
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