津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■本能寺からお玉が池へ ~その⑭~

2023-03-10 07:17:36 | 先祖附

   吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2023:1:31日発行 第70号          
     本能寺からお玉が池へ ~その⑭~           医師・西岡  曉


      あたらしき命がもとに 白雪の
           ふぶくがなかに 年をむかふる   
(斎藤茂吉)

 「じんだい」読者の皆様、あけましておめでとうございます。この「本能寺からお玉ヶ池へ」の道行も、お陰様で早や4度目の正月を迎えることが出来ました。読者の皆々様には、この年が麗しく稔り豊かな年になります!

 [16] 巣鴨

 明智光秀末裔にして「お玉ヶ池種痘所」の発起人である三宅艮斎の長男・三宅秀(ひいず)が、「お玉ヶ池種痘所」が源流の東京大学医学部の学部長に就いた1881年(明治14年)に送り出した卒業生は30名です。その中には中浜東一郎(=ジョン万次郎の長男)や森林太郎(=鴎外)、緒方収二郎(緒方洪庵の六男、鴎外の「鴈」の「岡田」のモデル。)等がいます。
 森、中浜に比べれば知名度は劣るかもしれませんが、同級生には佐藤佐(たすく;1857~1919)もいます。佐倉藩士の三男・井上虎三が、東大医学部に入学して佐藤尚中(順天堂第二代堂主;1827~1882)の婿養子になっ(たので三宅秀の義弟になります。)て貰ったのが「佐藤佐」の名前です。佐の妻になったのは尚中の三女・楽で、佐は、実子を入れると尚中の五男にあたります。尚中は、1869年大学東校(とうこう)の校長に就任しますが、大学東校は後に「東京大学医学部」になりますので、東大医学部公式サイトは尚中を「第7代東大医学部長」(三宅秀は、第14代)に挙げています。
(虎三改め)佐は東大を卒業すると直ぐにドイツ・オーストリアに留学し、帰国後は養父・佐藤尚中が東京・下谷練塀小路(現・千代田区練塀町)に開いた順天堂医院の副院長になりました。その順天堂は開院2年目で本郷の現在地に移転します。
 ところで、佐藤尚中には佐に先んじて婿養子にした人がいます。常陸国太田村(現・茨城県常陸太田市)出身の高和東之助は、ヨネビシ醤油という商家の長男でしたが、佐倉順天堂で学んで医師になり、1867年に尚中の長女・志津と結婚して尚中の婿養子・佐藤進(1845~1921)になったのです。戊辰戦争にあっては、佐藤進は官軍病院の頭取(=院長)として参戦しますが、養父尚中の義弟松本良順は幕府軍軍医でしたから(義理とは言え)叔父甥が敵同士になるという過酷な運命が待っていたのです。佐藤進は、1869年に明治政府の「旅券第一号」を得てドイツのベルリン大学に留学し、アジア陣として初めて同大学を卒業すると、帰国後に3代目の順天堂堂主となりました。
 佐藤尚中の次女・藤は、三宅秀の妻になりました。1868年に父・三宅艮斎が死去した時、長男・秀は加賀藩に奉職して金沢に居ましたので、秀の母・遊亀は「家は女ばかりで物騒なので、娘(=秀の妹・峯)を嫁に貰って三宅家に入り、艮斎の診療を引き継いで欲しい。」と、(妻を亡くしたばかりの)佐々木東洋(1839~1918)に頼み込んで事実上の婿入りをして貰いました。江戸・本所の医師・佐々木震沢の長男・佐々木東洋は、佐倉順天堂で学んだ後長崎で佐藤尚中と共にポンぺに学び、「医は仁術」を体現する蘭方医です。後に當きょぷふ病院副院長、東京医学校病院長、脚気病院医長を経て神田駿河台に杏雲堂医院(現・杏雲堂病院)を開院します。
 三宅秀の長男・鑛一(1876~1954)は、東京帝国大学医学部を卒業してウイーン大学・ミユンヘン大学に留学し、エミール・クレペリン(1856~1926)とアロネス・アルツハイマー(1864~1915)の下で学び、帰国後巣鴨病院副院長を経て1925年(大正14年)からは呉秀三の次(第3代)の東京帝国大学医学部精神学教授になり、1936年(昭和11年)には「東京帝国大学脳研究室」(現・大学院医学系研究科脳神経医学専攻)を開設しました。
正岡子規(1877~1902)の従弟(母の妹の子)・藤野古白(本名・藤野潔。俳人&作家。1871~1895)は、18歳の時精神疾患を患って開院したばかりの(東京府癲狂院改め)巣鴨病院に入院したことがあります。
 三宅鑛一の長男・仁(1908~1969)は、東大医学部病理学科教授になり、肝硬変の「三宅分類」や、(唯一の被爆国なので当然ではありますが。)世界初の原爆症患者の病理解剖、といった業績を遺しています。三宅仁は艮斎の曽孫ですから、休庵に始まる医家・三宅家の7代目にあたります。ところで[8]で紹介した「艮斎は、東京大学医学部開基の大功労者」という金子順二の言葉には続きがあります。「三宅家は、・・・しばしば模範的優良血統として紹介されたが、・・・直系三代が、東大教授、それも同学部の教授になったは、三宅家以外にはいまだない。」このことは、(「本能寺の変」に続く「山崎の戦」で滅ぼされた後、生きのびた者も400年の永きに亘苦難の歴史を背負ってきた)明智一族にとってどんなに喜ばしいか、計り知れないものがあります。

    かが                            あけび
    屈まりて 脳の切片を染めながら 通草のはなをおもふなりけり   (斎藤茂吉)

 この歌の作者・斎藤茂吉は、エッセイ「作歌四十年」にこう書いています。「これは東京府巣鴨病院研究室(東京帝国大学医学部精神病学教室)内の歌で、指導者は呉秀三、助教授三宅鉱一の二先生で、その他に数人の先輩がいた。医員として用務を済ませ、暇があれば病脳を切片にし、それをいろいろな方法で染色して、その標本をば顕微鏡でのぞくのであった。・・・『通草のはなをおもふなりけり』は、少年の頃に親しんだ、黒味が勝った紫色の通花をふと思い出す、聯想するというのである・・・」茂吉が巣鴨病院の研究室で「病脳を切片にし、それをいろいろの方法で染色」した物の中、呉修三がドイツ留学中に発案者のフランツ・ニッスル(1860~1919)から直接学んだ「ニッスル染色法」を使って紫色に染められたニューロンを見て、「少年の頃に親しんだ」故郷・金瓶村(現・山形県上山市金瓶)のアケビの花を懐かしく想い出して詠ったというのがこの歌です。茂吉は後に「呉先生が来られて手づからニッスル染色法を教えられた」と書いていますが、この染色法は、発明から120年以上経った今でも立派に使われています。ニッスルは、エミール・クレペリンの次々代のハイデルブルグ大学医学部精神医学部教授ですが、医学生時代はミユンヘン大学の精神医学部教授は、教授時代の業績よりも(ノイシュバンシュタイン城の)バイエルン国王ルードヴィッヒ2世と心中(?他殺説もあり)したことで有名なベルンハルト・フォン・グッデンです。そして、アロイス・アルツハイマー(ミュンヘン大学ではなく、ヴェルッブルグ大学卒業。)はニッスルの親友でした。

                               東京府巣鴨病院(兼 東京帝国大学精神病学教室)

 斎藤茂吉は、1910年(明治43年)に東京帝国大学医科大学(現・東大医学部)を卒業すると巣鴨(現・文京区本駒込2丁目)の東京府巣鴨病院(現・都立松沢病院)の医員になりました。茂吉が「東京府巣鴨病院研究室(東京帝国大学精神病学教室)内の歌で、指導者は呉秀三、助教授三宅鉱一の二先生」と書いたその医局の「指導者は呉秀三」なのでしたが、呉秀三は「お玉ヶ池種痘所」の発起人(の一人)で広島藩医の呉黄石の三男としてえど・青山の広島藩下屋敷(現在表参道ヒルズの建つ処)で生まれました。
「助教授三宅鉱一」とは、同じくお玉が池種痘所の発起人(の一人)・三宅艮斎の孫・鑛一のことです。また「巣鴨病院研究室(東京帝国大学精神病学教室)」とあるのは、東京帝国大学医学部精神病学教室の発足当時帝大病院の中に精神科病室は設けられず、東京府巣鴨病院が東京帝国大学附属病院の精神科病室を兼ねていたからです。1879年(明治5年)開院の東京府癲狂院が1881年に本郷・向ヶ丘に、1886年には巣鴨駕籠町に移転した後、1889年(明治22年)に改名して「東京府巣鴨病院」となったのです が、今述べたように巣鴨病院は東京帝国大学付属病院精神科の役も担いましたので、初代院長は東京帝国大学精神病学初代教授・榊俶(さかきはじめ;1857~1897)が兼任しました。
 斎藤茂吉の巣鴨病院での「数人の先輩」の一人に石田昇(1875~1940)がいます。東京帝国大学卒業の石田昇は、長崎医学専門学校(現・長崎大学医学部)精神学初代教授ですが、エミール・クレペリンの「早発性痴呆」をオイゲン・ブロイラー(1857~1939)がアップデートしてSchizophrenieとしたのを「精神分裂症(現・統合失調症)と翻訳して日本に導入した人(皮肉にも(?)自身も留学中に発症し、同僚医師を殺害してアメリカで服役後強制入院、日本に送還され(巣鴨病院の後身)松沢病院に転入院した後退院できないまま死亡。)です。石田がジョンズ・ポプキンス大学に留学した後、長崎医専の第二代精神病学教授に就いたのは、後輩・斎藤茂吉です。茂吉は赴任する前の1917年11月、長崎を訪れて石田から引継ぎを受けました。長崎医専教授を4年間勤めた後、ウイーン大学・ミユンヘン大学に留学した茂吉は、帰国後1926年(昭和元年)からは(養父・斎藤紀一が1907年に開院した)青山脳病院の院長を務め、戦後の1953年に心臓喘息のため逝去しました。享年71。その死の翌日、茂吉の病理解剖を執刀したのは、東京大学の病理学教授だった三宅仁です。
解剖の後茂吉の脳は、医学部標本室に(切片ではなく、丸ごと)保存され、今でもその場所に鎮座しています。
 三宅仁の父・鑛一が東大医学部を退官して脳研究室を開設した頃、巣鴨病院時代の後輩・斎藤茂吉について語った次の言葉を、甥(妹の次男)の三浦義彰(当時東大医学部学生、後に千葉大学医学部生化学教授。1915~2010)が聞いています。
「私たちの名前はじきに世間から忘れられるが、茂吉の歌は世に残るよ。」
その「茂吉の歌」をもう一首。これも精神科医療とアケビを詠んだ歌です。どんな花にも(三宅鑛一の先祖・明智岸の妹・ガラシャが辞世に詠んだ)「散りぬべき時」があるとは言え、「散らふかなしみ」もまた降り止むことはないのでしょう。
            も             あけび
    としわかき狂人守りのかなしみは 通草の花の散らふかなしみ   (斎藤茂吉)

             三宅鉱一            三宅仁

 

 【訂正】前回の地名・西岡の読みは「にしのおか」です。「にしおか」ではありません。

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