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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■松井章之・今日の参府日記 江戸2日目

2025-04-26 19:14:31 | 展覧会

(安政三年)四月二十六日
 一昨日蓮性院様御機嫌奉伺候処、猶今日出方いたし候様被仰付候ニ付、四つ半比より出仕いたし候処、被召出、御吸物・御酒・酒肴三種
  頂戴いたし、左候て大崎御殿鳳台院様へ罷出候処、右同断ニて八ツ半比引取候、左候て夜ニ入機密間根取小山太左衛門・坂本彦兵衛
  出方いたし候ニ付、酒杯出し寛々咄いたし候

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■松井章之参府日記 番外編=細川家夫人たちのお屋敷

2025-04-26 07:18:38 | 歴史

 松井章之の江戸到着の記事により、細川家の代々の御夫人のお住いの御屋敷が明らかになった。
太守・斉護の室・浅野益姫、先代の斉樹の未亡人・蓮性院、斉護の嫡男・慶前の未亡人鳳台院、斉護の二男・護順の新婚ほやほやの一条峯姫などである。

斉護の斉室・益姫(顕光院)は当然のことながら上屋敷である辰の口邸にお住まいである。
斉樹の未亡人・蓮性院はこの時期寡婦となられて30年が経過しているが、お住まいはずっと白金邸だと伝えられる。
 一橋大納言治済女・紀姫だが、実の兄は将軍家斉だから、細川家としてもその扱いには相当気を使ったと思われる。
 過ぎる10年前の弘化2年には白金邸は類焼しているが、蓮性院が一時的に住まわれたのが目白邸(現在の永青文庫一帯)である。

 ここは一橋家の所有地であり、これがきっかけに成ったのか蓮性院の所有するところとなった。
■その白金邸には新婚ほやほやながら帰国した護順のちの韶邦夫人・一条峯姫がお住まいである。章之は部屋が狭いことを指摘している。
 姉・美子は明治天皇の后となられた。そういう意味でも扱いは仇や疎かには出来ぬ。
 義祖母と同居は、少々気を使われたかもしれないことが察せられる。

■斉護の嫡男・慶前の未亡人鳳臺院(細川利用女・茂姫)は、嘉永元年に慶前が死去したのち、二年十一月大崎屋敷に転居しているが
 細川家記によると万延元年九月白金に移ったと記録されている。
 しかし章之の記録によると、廿六日「大崎御殿鳳台院様へ罷出」とあり、家記の記述の食い違いが伺える。
 大崎屋敷とは現在では「雅叙園」の名前で知られるが「目黒行人坂下抱屋敷」のことである。
 「藩邸沿革」によると、細川越中守夫人所有とあるが、これはたぶん蓮性院の事だと思われる。

嘉永になると、夫人たちの江戸定住が解禁され顕光院・鳳臺院が二つ駕籠でご一緒に帰国、当時の太守護順(韶邦)夫人・峯姫はやや遅れて帰国された。
夫々が初めてのお国入りの不安の中、その道筋で大歓迎された様子が「恕斎日録」に記されている。
韶邦夫人は韶邦の隠居にあたり共に上洛、そのまま東京定住の連絡を受けて上京した。
顕光院は、現在の県立図書館にあった細川家下屋敷で過ごし、最晩年には娘である松平春嶽夫人・峯姫の見舞いを受けたのち明治8年熊本で死去された。
鳳臺院も明治7年熊本で死去された。

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