津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

安國寺蔵「土岐系圖」から

2012-04-25 10:58:23 | 歴史

熊本の古刹「安國寺」に「土岐系圖」が残されている。随分以前許可をいただき写真撮影したものを所持している。
全文の紹介は現況出来る状況にはない。(安國寺の許可を必要とする)

安國寺にはこのほかに「明智系図」「喜多村系図」が残されており、「土岐系図」と共に明智氏にかかわる三つの系図がそろっている。
開山梵徹和尚が明智氏だとされることから、一族三宅家などから収められたものであるらしい。

この「土岐系圖」によると、明智光秀は土岐系山岸氏の山岸信周の四男だとされる。母が明智光隆の姉である。

    山岸信周       嫡男・山岸総領
                     進士美作守晴舎      嫡男・進士主女首輝舎
                                      一 ・進士作左衛門貞連
                                      一 ・進士六郎大夫貞則
                                      一 ・安田作兵衛国継
                 二男・山岸勘解由信舎
                 三男・進士九郎三郎賢光
                 四男・明智光秀
                     以下 略 

三つの系図共に登場するのが、光秀の子・僧玄琳である。この玄琳の項に次のように記されている。          

▲ 晴光 本名光舎
    童名山岸熊太郎 或ハ山熊太郎共云 明智作十
    郎 又 揖斐作之進共云 後改山岸勘解由 又後
    大■付ト成テ桂軒宗山共云 晩年出家シ法名
    玄琳僧都ト云 或ハ玄琳和尚共云 京都妙心寺
    塔頭ニ住ス

    弘治三年九月五日生於濃州可児郡伊河山岸ノ館或不破郡
    多羅ニ於テ生ル共云々母ハ於牧ノ方也父光秀ハ流浪ノ身
    也信周子多クアリ嫡子進士美作守晴舎ト云部屋住ニテ将軍
    家ニ直勤ス 次男岸勘解由信舎ト云 三男進士九郎三郎賢
    光ト云ウ 四男乃チ明智光秀也 以下ノ子略之 右各母ハ明智光
    隆ノ姉也 又信周ノ嫡子進士晴舎是ヲ山岸ノ総領トス 始終在洛
    セリ 数子アリ嫡子ヲ進士主女首輝舎ト云 次男を進士作左衛門貞
    連ト云 三ツ同六郎大夫貞則ト云 四ハ養子ト成テ安田作兵衛国
    継ト云ナリ 右各母ハ伊勢兵庫頭貞教女也 然ルニ晴舎嫡子主女首
    輝舎ハ総領職ト成テ而モ弘治元年二月濃州大野郡揖斐城主揖
    斐周防守光親ノ女ヲ娶リテ妻トス 其名桂女ト云無程生一子普賢
    共云ウ 曾テ光秀ノ妻牧ノ方ハ夫ノ留守中山岸ノ家ニ寓居ス
    常ニ輝光ノ妻桂女ト同舎ニ暮シテ其中互ニ和順也 而ル所牧ノ方ハ晴光
    ヲ生シテ后假初ニ病ニ臥シ故ニ乳汁止テ更ニ不出小児ヲ育スル事不能時
    ニ桂女ハ其以前ニ一子普賢丸ヲ生シテ幸ニ乳汁アリ因テ是ヲ晴光
    ニ分與ヘテ以撫育ス 牧ノ方ハ其御沢ヲ深ク悦ヒ漸ク快方ニ趣ク折節
    桂女ノ子普賢丸又病付永禄元年戌午三月五日年二歳而早世ス 因テ輝
    舎桂女夫婦共愛子ヲ失ヒ大ニ愁歎シ心中更ニ不楽因茲祖父信周ノ命
    とテ牧ノ方ニ談シテ晴光ヲ請受テ以テ輝舎ノ猶子トナサシメ桂女ノ乳ヲ用
    テ養育サセ右夫妻ノ為ニ実子ト称シテ是ヲ成長サセ遂ニ山岸ノ家
    嫡ニ相立畢永禄八年五月十九日進士晴舎輝舎父子於京都討
    死ノ後ハ晴光ハ曽祖父信周ニ養育セラレ濃州大野郡桂ノ山林ニ
    蟄居シ乱ヲ嫌ヒ常ニ風月ノ情ニ心ヲ寄セ安■ノ逸ヲ楽 畢光
    秀子共数多有トイへ共天正十年六月大乱ニ遇テ一人モ不残死亡ス
    然処唯■晴光一人幸而其乱ヲ避ケ死ヲ遁シ■子孫長久ノ基ヲ因
    茲明智山岸両家共ニ此晴光一人ヲ以テ嫡傳ト令ムル者也 実父日
    向守山崎ノ軍破レテ落命ノ砌ハ濃州ニ在テ是ヲ聞順死セント欲ス
    ル処曽祖父信周入道ノ諌ニ因テ死ヲ止リ暫ク閑居而曽祖父ニ仕リ
    文禄二年五月信周死去後直ニ出家ヲ遂テ法名ヲ玄琳ト号シ賀茂
    郡伊深村ノ正■寺ニ入ル 其後上京而下立賣ノ妙心寺ノ塔頭ニ住シ
    一門ノ人々ヘ菩提ヲ吊ヒ畢寛永八年六月十三日亡父日向守及ヒ
    其外天正十年ニ戦死ノ人々五十回忌ニ付追福ノ為於妙心寺自ラ大
    法事ヲ執行シ右努畢テ而后同月十五日遂ニ大往生ヲ致畢行年
    七十五歳

 

世に「土岐系図」と呼ばれるものがあるがその詳細を知らない。いろいろ議論されている明智氏だが、熊本安國寺の三つの系図を詳細に検討する必要があるのではないかと思っている。
写真の映りが余りよくなかったので読み下しもままならずにいたが、某氏の請いにより再び解読作業に入った。未だ50%と云ったところである。
 

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明智氏一族宮城家相伝系図書 (mino阿弥)
2012-08-31 13:27:25
「明智氏一族宮城家相伝系図書」(東大史料編纂所蔵)
と内容が酷似しているということは、知っていましたが実際に見たことはありません。
宮城系図には、「光秀」は享禄元年八月十七日生。進士山岸信周の次男也。光秀実母は光綱の妹。・・・天正十年六月十三日夜城伏見小栗栖に於いて生害。年五十五歳
「明智氏一族宮城家相伝系図書」は、偽書という烙印を押されていますが、他に見られないような記述もあり一概に偽書として扱うことは疑問だと思います。
明智光綱の弟明智光安の子に宮城兵内、光俊などがいて、光俊が(三宅弥平次、明智左馬助光俊、本名光春)とされています。
明智光綱、光安の妹は、永正元年生、享禄二年正月二十日卒二十六歳。進士山岸勘解由信周先之室であって進士光賢、明智光秀等の実母とされています。
明智光秀は享禄元年八月十七日生とされていますから産後の肥立ちが悪く卒去されたということも考えられます。また、永正七年生のもう一人の妹も享禄二年十一月に進士山岸信周に嫁ぎ、進士貞連、安田国継等の実母とされています。
明智光俊(三宅弥平次)の子宗俊(三宅弥惣次後改め宮城弥十郎)・・・
山岸氏には、明智氏から養子が入っており、明智氏と山岸氏は代々重縁であり、全くの同族とも言えるのではないかと考えられます。
ご紹介の熊本安国寺蔵「土岐系図」と「明智氏一族宮城家相伝系図書」を詳細に比較検討することができれば、明智氏について、より一層の解明ができるのではないかと思います。
玄琳が一時居た賀茂郡伊深村の正○寺とは、妙心寺開山の関山慧玄の居た岐阜県美濃加茂市の正眼寺と考えます。京都妙心寺は美濃守護代斎藤利国の妻利貞尼が莫大な寄進をして妙心寺中興の祖とされていますから、妙心寺の住持は代々美濃出身者が多くいて、美濃とは関わりの深い寺院です。
「土岐系図」の公開 (津々堂)
2012-09-04 11:06:25
美濃源氏フォーラムのmino阿弥様と存じます。コメント有難うございます。熊本の安國寺は光秀の末子・梵徹を開祖とする細川家ゆかりのお寺で、「土岐系図」も明智一族の三宅藤兵衛のご子孫から明治の頃写本が入ったものと思われます。現在読み下しの作業を行っていますが、写真が不鮮明で作業がなかなか進みません。今一度撮影のお許しを得て確かなものにしたいと思っています。また公開の許可を得るべくお上人様とのコンタクトも続けておりますので、今しばらくの猶予をいただきたいと思います。
Unknown (mino阿弥)
2012-09-05 17:55:50
美濃源氏フォーラムを、ご存じとは驚きました。
三宅系図と宮城系図を詳しく比較検討できれば、明智氏について何らかの新しい発見があるのではないかと思います。
山岸氏と明智氏との重縁関係は、見落とされがちですが光秀の子玄琳が山岸氏と称していることも一つのヒントではないかと思います。
よろしくお願いします。
安国禅寺 (mino阿弥)
2014-02-24 17:04:22
「明智氏一族宮城家相伝系図書」を東大史料編纂所の許可を得て簡約資料として出版された方に、津々堂様の「安国寺蔵土岐系図」について話しましたところ、熊本の安国寺まで電話をして確認されたそうですが、「土岐系図」「明智系図」は所蔵せずとのご返事だったそうです。
熊本にあると思われる明智氏の系図と「明智氏一族宮城家相伝系図書」を比較検討したいという趣旨だと思いますので、何らかのアドバイスを頂ければ幸甚に存じます。
mino阿弥さま (津々堂)
2014-02-26 12:10:21
この欄でのコメントは憚られますので宜しければメールアドレスをお教えいただけないでしょうか。
当方は
      shinshindoh@gmail.com です。

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