津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川藩における殉死者

2014-09-10 07:01:43 | 歴史

 次回の史談会では「阿部茶事談をよむ」の最終回となる。
御承知のようにこの著をもとに森鴎外は「阿部一族」を上梓した。阿部茶事談にいささかのいい加減さがあったものが、そのまま鴎外の作品に反映された。
阿部弥一右衛門同様周囲から殉死を噂された加賀山權左衛門は、「陰口をたたかず直接申せ」と言い放ちこれを拒んだという。こういった話は鴎外の耳には達していなかったらしい。
史実に反することが多々あり、読者諸氏にはあくまでも小説である事をご理解いただきたい。 

この殉死や阿部一族の誅伐に係るいろいろな話を付足してお話しようと思っている。
      ・阿部家の家来の処分
      ・妙解寺における忠利廟前の十九士の墓碑の順序
      ・加賀山權左衛門ほか殉死の噂の人達
      ・寛文三年「武家諸法度」による殉死の禁止令        等などである。


ついでにと思い細川藩における殉死者を調べて見た。(ほかにもあるかも知れないが、手元の資料では以上である)


             慶長17年   松井康之          2人
             寛永18年   細川忠利         19人
             正保 2年   細川立孝          4人
               同      細川忠興          5人
               同      有吉英貴          2人
             正保 4年   細川光尚         11人
             慶安 3年   沢村大學          1人
             万治 3年   小笠原長光         1人
             寛文 元年   松井興長          9人
             寛文 2年   有吉英安          1人  

             寛文 3年   武家諸法度による「殉死の禁止令」が出る。 

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