津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■小西マンショ(Conisci Mancio)考

2024-02-25 08:58:39 | 論考

小倉在住の小川研次氏とのおつきあいは6年半ほど前にさかのぼる。「小倉藩葡萄酒事情」という冊子をお送りいただいて以来である。
氏はワインのソムリエとして著名な方だが、キリシタン史にご興味を持たれて多くの論考をものにされお送りいただき、当方サイトでもお許しをい
ただき掲載させていただいた。
今回も小西行長の娘・マリアを生母とするキリシタン・小西マンショをとりあげられた以下のような論考をお寄せいただいた。
お許しをいただきここにご紹介申し上げる。

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        小西マンショ(Conisci Mancio)考        北九州市・小川研次

■追放と帰国
関ケ原の戦い(1600)の敗者となった対馬藩主・宗義智は舅の小西行長が処刑され、その長男が処刑されるために京都へ送致されたことを知った。
そして、「(行長)の娘(マリア)を妻に持ったことからくる災難を大いに恐れ、彼女を救ってもらうために書状をしたため、彼女を幾人かの下女
とともに船に乗せて長崎の司祭たちのもとへ送った。」(「1599~1601年、日本諸国記」『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)のである。

マリアは1593年12月に対馬に滞在していたグレゴリオ・デ・セスペデス神父より洗礼を授かった。
セスペデスはここから、行長の要請であっ
た朝鮮へ向かったのである。(朴哲『グレゴリオ・デ・セ
スペデス』)帰国後は豊前中津の黒田如水に招聘され、活動していたが、細川ガラシャの
霊的指導者
だった関係で細川家入封後、小倉教会上長として勤めることになる。
さて、マリアには1歳となる子がいたが、のちの小西マンショとされる。有馬のセミナリオで学んでいたが、1614年の幕府のキリスト教禁教令のた
めに、マカオへ追放される。この時、15歳であった。(『キリシタン時代の日本人司祭』)

その後、マカオからペドロ岐部とともにローマを目指した。(岐部はゴアから踏破)
先に帰国となった岐部は1623年2月1日付のリスボンからローマのペンサ神父宛の書簡に「霊的なことにも世俗のことにも、マンショ小西をよろし
くお願い申し上げます。」と後輩のことを気遣っている。(『キリシタン人物の研究』)

1632年、小西は18年ぶりに帰国する。マカオ経由マニラ発で薩摩に上陸した。
「(イエズス会の) 斎藤神父と小西神父は、ドミニコ会員ディオゴ・デ・サンタ・マリアと同船していた。彼らの航海は夥しい事故のために、二十日
が五ヶ月に延びた。ディオゴ神父はこの間に一行の髪
が白くなったのを見た。
彼らは遂に薩摩に上陸し、そこに一六三三年三月まで留まった。」(『日本切
支丹宗門史』1632年の項)
小西一行はマニラから20日の航海で日本に到着予定だったが、遭難して5カ月も要したのである。
マニラから先行したセバスチャン・ビエイラと同時期の1632年7月あたりの出航で、薩摩には11月末から年末にかけて到着したと思われる。小西家
と島津家は縁戚関係になり、小西行長の妻の叔父は島津弾
正で、貴久の三男・歳久の養子・忠隣のことである。キリシタンであった。(『薩摩切支
丹史料集成』) また、藩主・家久の義母・竪野永俊尼(カタリナ)がおり、キリシタンを擁護してた。竪野も小西家
縁故(行長家臣・皆吉続能娘)
の人物であった。(同上)
神父不在の地に身内であるマンショ小西らが現れたことは、大変な喜びであっただろう。
マンショらが薩摩を離れて間もなく、島津家家臣の矢野主膳がキリシタン明石掃部(全登)の子・小三郎を堅野の家臣ジュアン又左衛門が匿ってい
ることを暴露したのである。(「9月19日付伊勢貞昌書状」『戦国・近世の島津一族と家臣』)

寛永10年(1633)12月7日付の各家老宛「島津家久條書」から、「一ヶ條之儀に付、内談可有之衆之事として「南蛮宗之事」「立野之事」「赤石掃
部子、定早々可召上候事」「志ゆあん又左衛門尉事」(一
部抜粋)とある。(『大日本古文書家わけ第十六島津家文書之四』)
義母立野(竪野)の対処に苦悩している家久の姿が浮かぶ。
小三郎発覚が堅野への処断のトリガーとなったのである。

■訴人
「ディオゴ・デ・サンタ・マリア」は大村出身の朝長五郎兵衛という日本人司祭であるが、1633年7月に長崎で捕縛され、8月17日に穴吊の刑により
落命した。(『信仰の血証し人
~日本ドミニコ会殉教録』)
朝長の居場所は拷問を受けたシモン喜兵衛の告白により、明
らかになった。(『日本切支丹宗門史』)
「斎藤神父」はパウロ斎藤小左衛門であるが、1614年11月、小西マンショらとともにマカオへ追放されれ、司祭叙階後にマニラから帰国となった。
しかし、薩摩を発ってから半年後
の9月に天草の志岐で捕縛され、10月2日に長崎で穴吊の刑となった。(『キリシタン時代の日本人司祭』)
小西らは薩摩におよそ3カ月の滞在後、旧暦寛永10年(1633)1~2月頃に発っているが、小西以外の二人の神父は帰国から半年以内に捕縛され
ている。この年の2月の幕府のキ
リシタン訴人褒賞制による伴天連(神父・司祭)訴人には「銀は百枚」が功を奏したのだろう。(「キリシタン訴人褒賞制について」『キリシタン研究』)
寛永11年(1634)7月には肥後では「切支丹の訴人百人余」も出たという。(『熊本藩年表稿』)
しかし、日本人最後の司祭となった小西は1644年に処刑されるまで、潜伏して活動を行っていた。(『キリシタン時代の日本人司祭』)
有力な庇護者がいなければ不可能である。

さて、日本側の史料をみてみよう。寛永10年(1633)5月から7月までの熊本藩主・細川忠利の書状(『大日本近世史料編細川家史料』(書状
番号))に3人の司祭が記されている

まず、寛永10年(1633)5月12日付(西暦6月18日)の長崎奉行・今村正長宛書状(2181)である。
「其元伴天連いまた居申候にて御つかまへ候由、扨々妙なる宗体にて御座候」(長崎にいまだに伴天連(司祭)がおり、捕まえたとのこと、さて
さて奇妙なる宗教である)とある

この「伴天連」は上述の時期から長崎で捕縛された「ディオゴ朝長五郎兵衛」と思われる
興味深いのはキリシタンを擁護していた忠利の言葉「驚き申し候」である。この時、松
野半斎(大友宗麟三男)や加賀山主馬など多くのキリシタン
家臣を召し抱えていたからで
ある。(『肥後切支丹史』上巻)
さらに伴天連の捕縛が続く。同年6月13日(7月18日)付・曾我古祐宛書状(2260)に、「於天草彼伴天連小左衛門尉つかまへ由候由」(天草に
於いてかの伴天連小左衛門を捕
まえたとのこと)とあり、パウロ斎藤小左衛門のことである。
『日本切支丹宗門史』には「天草志岐」にて捕縛とあり、朝長と同じく場所は合致しているが、西暦9月としている。
この書状から斎藤が捕縛されたのは7月18日以前となる。朝長
や斎藤の処刑月(8月、10月)のひと月前である。おそらく捕縛時期が不明であったためにひと月前とした可能性はある。
同状に「九右衛門と申伴天連は長崎薬屋五郎左衛門所へ天草之もの送届申候由、承候」(九右衛門という伴天連は長崎の薬屋五郎左衛門の所へ天草
の者が送り届けたとのことを承
知しました)とあり、九右衛門を長崎へ送った「七郎兵衛」は天草で捕まり、もう一人の「半六は筑後之者と申候由」
のために、柳川藩主・立花忠茂へ捜索を依頼したとのことで
ある。
この書状は7月7日に家臣が受け取ったとしているが、忠利がホールドしていたと思われる
追伸で「九右衛門」も既に「熊本を罷り出でた」として行方不明としているところから
、次の事件後に追記したと推測される。忠利は何らかの手を
打っていたのであろう。


■発覚
寛永10年(1633)6月29日(8月3日)今村・曾我古祐宛書状(2242)に「先度我等国へ伴天連参候刻、宿をかし申候我等内嶋村三郎兵衛儀」(せん
だって私の国(肥後)へ伴天連
が参った時、宿を貸した私の家臣・嶋村三郎兵衛の件)とあり、忠利にとって、いや、細川家においての重大事件が
発覚する。
宿主は小姓組衆の三郎兵衛である。(「肥後御入国宿割帳」)忠利のお気に入りであったようで、小倉藩時代から「供之者」であった。
(「於豊前小倉御侍帳」)弟は留守居組だ
った嶋村善助と思われる。(同上)
三郎兵衛一家はキリシタンであったが、家中共々と転宗の証文を提出した。ところが、奉公人にキリシタンがいたことが発覚し、妻、子供、弟とも
に「成敗」したとある。

果たしてそうだろうか。この頃、キリシタン宿主は死罪であるが、忠利は温情により、転宗証文で決着しようとしている。忠利の指示により、「伴
天連」を匿っていたのではなか
ろうか。
昨年末、忠利の庇護のもとで小倉に潜伏していた中浦ジュリアンが捕縛されてい
たことも一因と考えられる。母ガラシャの追悼ミサにも「伴天連」
が必要であった。

さて、「伴天連九右衛門」こそ、小西マンショではなかろうか。そうであれば、実名は「小西九右衛門」となる。
「長崎薬屋五郎左衛門」は「ミカエル薬屋」(ミゼリコルディア組頭・慈悲会)で間違いないだろう。7月28日(旧6月3日)に処刑されていること
から(『日本切支丹宗門史
』)、5月までにはすでに捕まっていたと考えられ、九右衛門はそれ以前には長崎に入っていたことになる。
おそらく、小西ら3人は薩摩から天草・島原経由、長崎へ向かったと思われる。
そのキーマンが「薬屋五郎左衛門」であった。4月頃であろう。ここでビエイラや伏見に潜伏していた管区長マテウス・デ・コーロスのことを聞い
て、斎藤は天草へ、小西は長崎
から筑後へ、そして熊本へ入ったと推測される。
この直後、五郎左衛門は捕縛されたので
ある。おそらく、報奨金目当ての訴人がいたのであろう。

■白井太左衛門
薩摩キリシタン騒動の最中、細川家に薩摩から「白井太左衛門」という人物が現れる。
太左衛門は島津家家老・喜入忠続(忠政)の家臣(叔母聟)であったが、忠続は細川家家老・松井興長に細川家への仕官を依頼したのである。
寛永10年(1633)の月日は明確では
ないが、忠利は「御小姓組」300石で召し出している。(「先祖附」『新・肥後細川藩侍帳』)
忠続の義母は堅野であり、妻妙身(竪野娘)もキリシタンであった。このような状況から家老職を辞したのであろう。驚くことに太左衛門もキリシ
タンであった。転宗したのは3
年後であるから、細川家召し抱えの時は現役であったことになる。(「勤談跡覧」『肥後切支丹史』)
当時、御法度であったキリシタン家臣の召し抱えを忠利は承知の上で実行し
たことになる。

さて、前年(1632)末、忠利は他国の「奉公人」を抱きかかえようとしていたが、幕府の許可などで苦労していたようである。喜入忠続宛の書状か
ら太左衛門のことであろう
。(「十二月晦日喜入忠続宛書状」(1885))
豊前から肥後への転封直前のおびただしい時であったが、重要案件だったとみえる。
しかし、翌年(1633)正月の忠続宛書状には「牢人之儀預申候」とあり、忠利は一旦、浪人として預かっていたのである。
(「正月十八日喜入忠続宛書状」(1984))

奇しくも小西マンショらが薩摩を離れた時期と一致する。推測だが、同行した可能性はある。
同年9月5日付太左衛門宛忠利書状(2329)
に太左衛門から「南蛮菓子あるへる」を頂き、
謝意を記している。「あるへる」は有平糖のことである。長崎からのお土産だろうか。
の頃、すでに細川家に仕官していたと思われる。正保元年(1644)3月2日、太左衛門は江戸にて乱心者によって殺されたという。
(「先祖
附」)小西の没年と同じである。

■喜入忠続
喜入家と細川家の関係は幽斎(藤孝)時代に始まる。忠続の兄久道の嗣子の死、又、男子が早世していたのであった。仏門に入っていた長重(忠続)
だったが、天正17年(1589)
に幽斎が薩摩にいた時、盟友島津義久に喜入家を継がせるように推挙したのである。
「幽斎は媒酌の労をとり、長重に伊集院抱節の娘を娶らせた。長重は還俗して喜入家を継ぎ、名を忠政と改め、摂津守と称した。
時に年、十九歳であった。」(『枕崎市誌』上巻

伊集院久治(抱節)の娘の死後に、後妻として入ったのが妙身である。慶長19年(1614)、忠続(忠政)は幕府の命により島原へキリシタン取
締りのために逗留
していた。(「本藩人物誌」)この時の様子を『日本切支丹宗門史』(1614年の項)に記されている。
「薩摩の人達は、海岸を伝って東に向かい、三会、島原、並びにその他の村々へ行った。
戦争に出て、血を流すことにしか馴れていなかったこれらの人達が、キリシタンに先ずしばらく退くように忠告した。そこで、大部分の信者は、山
中に逃れた。薩摩の人達は、命
令を実行した風にして、最早この地方には、キリシタンは一人もおらないと宣言した。」何と、忠続はキリシタンを保護していたのだ。これらのことから、忠続もキリシタンだった可能性は十分にある。
細川忠利は肥後国転封前(1632)に忠続へ薩摩と隣国になることの喜びを表していることからもかなり親密であった。
(「十二月晦日喜入忠続宛書状」(1885))

寛永11年(1634)10月の書状には忠利が島津家久から忠続が無事であったことを聞いて安堵している。(「十月四日喜入忠続宛書状」(2633))

義母堅野の種子島配流、妻妙身、娘於鶴のキリシタン発覚で幕府より忠続にも嫌疑がかかっていたと思われる。又、忠利が特に案じたことは召し抱
えた忠続の叔母聟であるキリシ
タン白井太左衛門の暴露であることは容易に想像できる。

■奇説
喜入忠続の前妻の死後に後妻として入ったのが妙身であったが、奇説が存在する。
妙身が小西行長の遺児で、前夫は有馬直純だったという。つまり、母堅野は「肥後の士皆吉久右衛門続能」の娘で「小西摂津守行長の室」であり
「行長と生める女子は喜入摂津守忠政の室となれり」とある。(「鹿児島県史料旧記雑
録後編」『戦国・近世の島津一族と家臣』)
前夫有馬直純との間に「於満津」がおり、島津久茂(喜多村久智)に嫁いでいるという。(「枕崎市史」同上)ところが、『寛政重修諸家譜1520巻』
によると、有馬直純の段に嗣子康純(母・国姫)の
前に「女子」がおり、「母は皆吉氏」とし、「家臣有馬長兵衛純親の妻」とある。
また、「有馬家九流一門人数」として「康純公御姉聟 有馬長兵衛殿」(「佐々木系図」『薩摩と延岡藩(有馬家)との関係』)とあることから、
康純には「皆吉氏」の姉がい
たことに違いない。
直純は慶長15年(1610)に国姫(徳川家康曾孫)と再婚しているので、前妻との子の生誕はこれ以前と考えられる。なお、康純は1613年生まれで
ある。
「於満津」だが、生誕は1612年(1706年没)であるから、直純の子とは考えにくい。
直純は「正室ドンナ・マルタを離婚して憚
らなかった」(『日本切支丹宗門史』1610年の
項)とあり、前妻の洗礼名は「マルタ」であった。
「有馬殿の正室マルタは、千々和の附近に住んでいた。彼女は再婚を勧められたが、拒絶した。彼女は、長崎の山間に追放され、藁葺の小屋に監禁された。」(同1612年の項)
再婚を命じたのは国姫である。「それでも嫁がせようとしたので、彼女はもっと遠くに行く覚悟でいた。まだ二十歳で、いとも上品に育てられたにもかかわ
らず、デウスを傷つけ
るよりは、日本から脱出し極度の貧困にも耐える決意であいた。そして栄ある死の準備をしていた。」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第2期第1巻)
その後は消息不明である。典拠は未見だが、盛山隆行氏の直純の正室は「有馬家家臣皆吉久兵衛絡純の娘マルタ」とし「一女を儲けた」という論考が
ある。(「有馬氏三代の閨閥」『歴史読本』2009年4月
号)
むしろ、こちらの方に整合性がある。但し、妙身は行長の娘の可能性は否定できない。
そうであれば、小西マンショの叔母となる。1634年、堅野は種子島に流刑となるが、その後、忠政の妻妙身、その娘(於鶴)、妙身の前夫との娘
(於満津・島津久茂室)もキリシタンとして母を追うことになった。


■将軍上洛
寛永11年(1634)、将軍・徳川家光の上洛の折、不可解な事が起きる。
7月19日(9月11日)付の忠利の長崎奉行・榊原職直宛書状(2507)に「九州・中国・四国、何も閏七月十八日に御暇被下候」と将軍より帰国の許
可が下りたが、忠利には許可が
下りなかったのである。忠利の他には「京極丹後(高広)・京極修理(高三)・伊藤修理(伊東祐慶)・松倉長門
(勝家)・宗対馬(義成)・黒田(忠之)」が残された。黒田は将軍と江戸へ同行を望んでいたからである。
さて、忠利と黒田を除く他の5名との共通点は明らかに「キリシタン」である。
京極高広・高三兄弟はキリシタン高知を父に持つ。祖父母(高吉・マリア)の代からであり、叔父の高次(若狭守)、叔母のマグダレナ(朽木宣綱室)
とキリシタンファミリーで
あった。(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)細川家と京極家とは足利義輝・義昭将軍時代に共に仕えていた。
兄弟は受洗の記録はないが、「内密」にされていたのかも知れ
ない。幕府は忠利との関係から情報を得ていたのだろう。
伊東祐慶は細川小倉藩時代に小倉教会でグレゴリオ・デ・セスペデスの助手として活動していた天正遣欧使節の伊東マンショの従兄弟である。
祐慶はキリシタンを擁護していた。
松倉勝家は先述の通り、キリシタンの取締りの立場であった。特に島原には多くのキリシタンがおり、司祭らが
潜伏して活動していた。前年(1633)9月15日(10月17日)の忠利
書状に「松倉内之者なと内々に申分御座候にて三五、六人立退由候由」(2346)
とあり、
家臣35、6人が何らかの理由で立ち退いたとある。キリシタン絡みの可能性もある。
寛永12年(1635)末には47人も退去している。その中に「相津玄察・松島半之丞」など島原・天草の一揆の策謀者が含まれていたとされる。
(吉村豊雄『天草四郎の正体』)

転宗を強制したのが理由かもしれない。なお、忠利は寛永13年(1636)7月に27名の家臣から「転び証文」を提出させている。
(「勤談跡覧」『肥後切支丹史』上巻)

さて、宗義成だが、小西マンショの異母兄弟である。ここに忠利が帰国の許可が下りなかった最大の理由である。
忠利が匿った「伴天連・九右衛門」こそ、小西マンショであったと考えられるからである
家光は「九州之内には未だ伴天連」(2508)がおり、捜索を十分にすることと直に伝えた。
家光にはかなりの情報が入っており、母ガラシャの魂はキリスト教でなければ救われないと信じている忠利の気持ちは理解しているが、立場上、言わざるを得なかったのである。
「自分の治世の間に母親ガラシャ夫人の葬儀(追悼ミサ)を行いたいと考えていた」(「1609、1610年度年報」『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)ことを貫いていたのである。
元和9年(1623)10月16日付忠利書状(138)に「秀林院様御弔之僧衆為迎、来二一日早舟差上申候」(秀林院様の弔いの僧たちを迎えに、来る二十一日に早船を差し上げるように)ただし、江戸へ使いの者がいるならば、この舟には乗せないようにと警戒している。
秀林院(ガラシャ)の命日は7月17日であるが、10月21日(12月12日)に迎えに行くという。なぜだろう。キリストの降誕祭の前であるが、意図はあったのだろうか。
「その父とは大いに違い、宣教師に対して非常に心を寄せ、母ガラシャの思い出を忘れないでいることを示した」(『日本切支丹宗門史』1624年の項)
「秀林院様」専属の僧は仏教僧に仮装した「中浦ジュリアン」ではなかろうか。

さて、忠利と三斎(忠興)の帰国の暇が下りたのは7月29日(9月21日)であった。(『熊本藩年表稿』)
帰国後、忠利はキリシタン捜索に力を注ぐことになるが、同年12月に河喜多五郎右衛門を国惣奉行に指名している。(同上)五郎右衛門はキリシタンであった。(1636年転宗・『肥後切支丹史』上巻)
忠利の盟友・有馬直純と島津家久との書状がある。同年9月26日付有馬直純宛書状(2621)に直純の領地において、キリシタンに宿を提供した百姓の処遇についての意見を述べている。平キリシタン(伴天連など宣教師ではない)であれば、「構いなし」と長崎奉行から聞いているとし、キリシタンと知っていたならば「成敗」ありとしている。
同年10月29日付島津家久宛書状(2660)には、長崎奉行所で島津領内にキリシタンがいるとの申し出があったことについても、今回の「御改」(定)は「伴天連・入満(いるまん・修道士)・同宿(助手)」ことで、キリシタンではないので、余計なことは言わないように、もし、キリシタンがいたならば、「内緒」で知らせてほしいとアドバイスしている
直純も父・晴信とともにキリシタンであり、家久は先述の通り、義母・堅野がキリシタンであった。彼らは忠利との親しい関係だったが、キリシタン問題となると、真っ先に相談する相手であった。
特に長崎奉行・榊原職直は忠利の「親友」であったことも起因してい
るのだろう。

■小西マンショの行方
その後の「小西九右衛門」こと「小西マンショ」の行方が気になるところだが、寛永11年(1634)9月16日(11月6日)に忠利の領地で長崎奉行の上使によりキリシタンの穿鑿を受けている。(『熊本藩年表稿』)
事件の詳細は上妻博之編著『肥後切支丹史』から引用する。
「寛永十一年九月十六日玉名郡湯倉村(現・玉名市伊倉)というところに、切支丹がいると長崎奉行に訴人が出たので、逮捕のため二人の使者を差し遣わすとの通知が来た。九月二十日の午の刻二人の使者は湯倉村に来たので、郡奉行は早速罷り出、在所を二重に取り巻き、使者は心当たりの家を捜索したが、何物もない。この報が二十日の夜の丑の下刻に奉行所に届いたので、早速馬上侍を急派し、家老長岡佐渡は熊本から夜中馬を飛ばして湯倉村に馳せつけ、藩内の港は舟留めを命じ、街道の□は人留めをして検挙に手を尽くしたが、遂に犯人不明に終わった。」
筆頭家老・松井興長まで登場する大捕り物が繰り広げられたのだが、ただの「切支丹」の対応ではない。明らかに「大物」である。まず考えられるのが、昨年から指名手配となっている伴天連「九右衛門」である。
訴えから4日後に長崎奉行から捜索が入るという知らせがきたという。ある意味、この間に逃避しなさいともとれる。結果、もぬけの殻だったのである。
昨年の忠利書状(2260)にある「筑後の半六」が有明海を渡り、筑後から国堺の高瀬(玉名)近くに送り届けたことは十分に考えられる。伊倉唐人町には多くのキリシタンがいたとされ、「バテレン坂」や「吉利支丹墓碑」が現存している。(玉名市)隣接する山鹿郡には忠利の身内である小笠原玄也家族が住んでいたが、寛永12年(1635)10月、庄村の訴人によりキリシタン発覚となった。(『山鹿市史』)

島原、筑後国、豊後国への移動が容易であるこれらの地域には多くのキリシタンが潜伏していた。
翌年10月、忠利は寵臣阿部弥一右衛門を飽田・山本・玉名・山鹿の「御代官頭」に任命している。弥一右衛門は森鴎外『阿部一族』の主人公である。(同上)
寛永14年(1637)10月に勃発した島原・天草一揆での忠利は陣中に熊本から葡萄酒を取寄せている。(「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」『永青文庫研究』創刊号)
多くのキリシタンの死を目前として、「ゆるしの秘跡」を行ったのだろうか。そうであれば、そこには「伴天連・九右衛門」がいたはずである。

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