■出田作左衛門は「出田策馬(南東2-8)家」の9代だと思われる。
初代・城十次郎(城久基弟 出田宮内少輔・武房 加藤家ニ属ス二千石、忠広改易後柳川ニ住す
寛永十年忠利ヨリ先知ヲ賜ワル、同十一年正月十五日没)(新撰事蹟通考)
その召し出しについては綿考輯録・巻三十五に次のように記されている
寛永十年三月十九日付 榊原飛騨守書状(忠利様・人々御中)
庄林隼人・出田宮内両人御かゝへ被成候由、可然人之様ニ承及候
さて家紋は上が「二つ釘抜き紋」、「二つ琴柱」?、乞うご教示
下は出田家が菊池の一族であるため「隅切り角に違い鷹の羽」の家紋を使用している。
■出田三郎大夫は本家7代が弟に分知した分家「出田範五(南東2-9)家」の3代目である。
家紋は二つとも本家に同じである。
■出良伴之允は「細川家家臣略歴」に名前が見当たらず「先祖附」見当たらないが、個人として「文政三年正月士籍以上名録」「肥後御 家中新旧御知行附」
「弘化二年写・御家中御知行高附」「文久二年・肥後世襲士籍」などに名前が確認される。寸志蔵米取百石と記されている。
家紋は「隅切り角・剣酢漿草地抜き紋」とでもいうか?
■稲津次郎兵衛は「稲津多仲(南東1-2)家」の7代、次郎兵衛・頼英(養子 実・薮弥次右衛門末子 初・小文治・角之允)650石。
初代因幡守(九郎兵衛・重房)は、
日向シハス崎居城 伊藤家立退、慶長十年加藤家清正に仕、五十人扶持・現米五百石
其後加増都合千石余、忠広改易後寛永九年細川忠利に仕千石・鉄炮頭
正保元年九月致仕
家紋は「釘抜きに梃子」である。 「薬研紋」である。(2020・5・6ご教示により訂正)
■稲津嘉久馬は「稲津大九郎(南東1-3)」家の6代・頼久である。この家は「多仲家」と祖を同じくする別家である。
4代弥右衛門は、球磨川の改修などで功績を上げその名は宝暦名臣中第一と称せらる。
家紋は「多仲家」と同じである。
■磯野左兵衛は「磯野八十郎(東南3-7)家」(七百石)の五代目。
家紋は「鞠寄せに六曜紋」?
■磯谷新左衛門は「磯谷新半多(南東2-3)家」の9代目で「江戸御留守居・御中老支配」を勤め、七百石内四百石御足
初代太左衛門には悲しい事件が起きた。
寛永五年七月廿八日・日帳
磯貝太左衛門被申候ハ、女房衆のと(咽喉)ニ四月よりはれ物出来申候ヲ、
此比はりをたて申候へハ、たてそこない、よの所ニたて、其上ふかくたて申
候ゆへ、血とまり不申、相果申ニきわまり申候つる、就夫、せかれもめしつれ
不罷出候、跡にて相果可申も不存候由、被申候事
(福岡県史・近世史料編--細川小倉藩二p69)
家紋は「 ? 」
■磯田吉左衛門は青龍寺以来の御馬方「磯田潜蔵(南東59-10 茶・鷹・馬)家」の六代目ではないかと考えるが、
同名を名乗る人が4・5・6代と続き確定できない。
家紋は二つ、上は「 1 」、下は「 2 」判りません。ご存知の方はご教示ください。
また「肥陽諸士鑑」にも「1」これとは別に二つの家紋「3」「4」が紹介されているが「3」は「隅立て角」に十字が描かれているが
名称不明。「4」は図が鮮明ではないが「2」と同じなのかもしれない?。
■井上新之允については「肥陽諸士鑑」に、新之允正廻(正昶)と新之允正寛の父子二代のみの記録が残る。
後者がこの「家紋帖」にある新之允だと思われる。その後の事はよくわからない。
家紋は「五つ割り左万字に丸」下はその変形
■井上要人は「井上治部丞(南東1-11)」家の6代目・御昇副頭 三百石、7代目は井上加左衛門「名は政房、加左衛門と称す。
世禄三百石、少時窮乏因苦し人の書を借りて誦讀せり。後擢でられて奉行職となる。明治九年六月十四日歿す、墓は高麗門禅定寺。
家紋は一つは「藤巴紋」か、下は「 ? 」
■井上次郎助は「細川家家臣略歴」に名前が見えない。
家紋は「丸に矢筈」今一つは「井桁」である。
■井上五郎兵衛は「井上儀左衛門(南東1-8)」家の初代の召し出しが遅いので3代目か。
家紋は「井桁に上の字」今一つ「「丸に五つ柏陰紋」?
■井上平左衛門の名前も「細川家家臣略歴」に名前が見えない。
家紋は「六角に柏紋」今一つは「三角に三つ鱗」
■井上弥一郎の名前も「細川家家臣略歴」には名前が見えないが、「文政三年・士席以上名録」には、江戸御留守居・御近習御次支配頭
之支配として四百石(内三百石御足)御側御取次とある。ここでは百石とあるが御足が三百石であればこの人物であろう。
家紋は「隅入り平角」の中になにやらあるが詳細が知れない。
■井上文太の名前も「細川家家臣略歴」には名前が見えない。
家紋は「子持ち六角に梅鉢紋」?
■井口庄大夫は「井口忠三郎(南東2-1)」家の7代・庄左衛門(庄太夫・傳助)か。
5代庄左衛門は重賢公の側近であったが、宝暦十二年五月江戸御留守居詰として番府中自裁した。
原因は於江戸・松井主水(営之)と爭論、「主水御前に庄左衛門拝領を申上られど有無なし、其夜御盃被下返杯被仰付」とある。
引き渡すわけにはいかず、重賢公は別れの盃を与えて御返杯を受けられた。永の別れを意味している。
9代呈助は、正は徳、字は子馨、通称呈吉、初呈助岱陽と号す。世禄二百五十石。時習館助教より奉行兼用人となり、後少参事に転ず。
家紋は「二重丸に井桁」?である。
■井関源大夫は「井関熊次郎(南東3-6)」家の5代目である。
家紋は「隅立て切り角に日(●)」今一つは「蔦紋」である。「肥陽諸士鑑」では別に「丸に日足紋」が紹介されている。
自分の苗字のルーツについて調べていたところ、こちらのブログを拝見させていただきました。
資料に記載のある稲津の家紋と、私の家系の稲津では、かなり似てはいるものの、微妙に違っており興味深いと思いました。
このような資料を拝見したいと存じますが、どのようなところに行けば閲覧が可能なのでしょうか。
お忙しいところ恐れ入りますが、ご教示いただければ幸いです。
嫡家がどこなのかということは判りかねますが、家紋は全く同じということはなく、嫡家を慮ってとか、独自に変化させたりされますから、御家の家紋とここにご紹介した家紋が相違していることは当然でしょうが、却って類似していることが一族であることを証明していると思います。
熊本藩に於ける家紋はここに表示しました「侍帳(家紋入り)」や「肥陽諸士鑑」に掲載されています。共に「熊本藩侍帳集成」という本に所収されています。
知人の従兄さんが熊本稲津家だそうですので、正式な名前を調べたいと思います。
本の名称もご教示いただき、大変感謝いたします。
私の一族ですが、元々は、福岡県の現小郡市の小郡村(初代の村長だったようです)にいたそうです。
ただ、戦後に、一族ごと関東に移動してしまい、その際に、九州にあったお墓も一緒に関東に持ってきたため、なかなか調べが進まずに困っておりました。
家紋の件ですが、資料の稲津さんは、中の矢のような物が1本ですが、私の家は3本あります。(ちなみに、なぜか女紋もあります。)
家紋の正式な名称は、私の家の方でも伝わってきていないため、お役に立てず大変申し訳ございません。
素人調なもので、なかなか専門的なことまではわかりかねましたので、こちらのブログを拝見でき、大変勉強になりました。
家紋の名称ですが、父から連絡が来ておりました。
ミツヤゲン(漢字が不明)という名称だそうです。
女紋に関しては、女稲穂と伝わってきており、早稲田大学とほぼ同じ見た目をしております。
何かご参考になれば幸いです。
ミツヤゲンとは「三つ薬研」かと思われます。
熊本稲津氏は「薬研紋」でしょうが、是とて「家紋帳」では見受けることが出来ず、ご教示によって氷解しました。当記事も訂正させていただきます。
御礼申し上げます。
家紋の名前も漢字になると、だいぶイメージが変わりますね。大変勉強になります、誠に有難うございました。
(先程のコメントに小郡村と書いたのですが、正確には松崎村にいたとのことでした。)
今後も、ブログを楽しみに拝見させていただきます。
この度は、ご親切にしていただき、本当にありがとうございました!!