津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■生田又助覺書(4)

2024-04-16 11:52:13 | 史料

一、御駕参り候ニ付両人ニ而奉抱候而御駕ニ召せ奉り候 又助此手御顔ニ付候血を御単物之御袖ニてぬくい申候事 御脇差御柄鞘共ニ
  血のりニ染居申候間古拵之様ニ相見候間分り兼漸ク見分ヶ申御鞘ニも返り角下ニ打はつし疵一ヶ所有之御拪糸も刃之方目貫之邊
  筋糸切有之候 御相手之脇差を御柄ニ而御請被成候やと存申候事 左候而猖参湯を差上候得共一向御通り不被成候 其上ニ而御脇差
  之儀相尋候得は御預置候由ニ而拭板之縁側ゟ刀箱を御役人持参仕候 忠右衛門・又助御脇差御出シ是ニテ候哉と御渡候ニ付忠右
  衛門得江も得見せ候而請取申候而御駕ニ入申候 左候而引取申度由を御目附様江相達勝手次第可仕旨被仰聞候ニ付御駕舁ハ御間
  内ハ陸尺外ハ黒鍬大勢ニ而舁中ノ口ゟ平川御門江御出被成彼方橋際より御手人ニ請取舁せ申候 山田嘉右衛門ハ御刀を持村山傳
  左衛門一所中ノ口蘇鉄ノ間江罷在其前より御供仕候様■御側之儀は忠左衛門・又助両人ニ而仕上候  御途中は叔安老・玄哲老外
  二御番醫四人御付添御徒目附三人御小人目附弐人外ニ御薬■共ニ途中御役人持参仕候 忠左衛門・又助御側ニ不参以前御湯漬少シ
  被召上候由叔安老被仰聞候 右之茶碗焼き塩等傍江有之候事

一、御駕は両人御呼被成候跡ニ而御徒目附衆此方様之御城使を召連下乗橋ゟ表御門通り中之口江通候由之事
一、御脇差入居申候箱之内ニ壱尺六七寸程之脇差入居申候 御相手之脇差ニ而可有之を出せ付候処■樋有り反り高キ脇差ニ而身ハ不残
  血のり付候而鞘ハ相見へ不申抜身ニ而有之候
一、両人脇差ハ銘々名札ニいたし中之口江御役人持参候事 但刀も御城使持参居候事
一、御途中御付添被成候御醫師衆左之通
      御奥本道           武田叔安老
      同外科            西 玄哲老
      表御醫師本道         田代宗仙老
      外科             古田休甫老
      同              菅谷伯安老
      同              増山養甫老
  右之通六人御付添被成候事
一、村山傳左衛門は為御注進 刑部卿様御門前ゟ御先江参候事
一、惣御供ハ西ノ御丸下馬江廻り居候ニ付平川江廻り候事難成漸刑部卿さま御屋敷前二而馳付候事
      御迎ニ罷出候面々       松野亀右衛門
      酒井左衛門様御屋敷      中川郡兵衛
      松平兵部大輔様との御境迄   堀 平左衛門
      松平兵部大輔様        佐野左太夫
      御屋敷辻番之邊迄       郡 織衛
      公儀御作事所之邊迄      竹原清太夫
                     小林半右衛門
  右之面々御屋敷外ニ罷出候と覚申候 其外は御屋敷内追々罷出候事
一、川岸御門ゟ御入裏御玄関ゟ御居間迄御駕ニ而被為入候 御駕ハ歩御使番歩御小姓等舁候而御■ハ参候事
      以上

                  (つづく)

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Unknown (ツツミ)
2024-04-21 17:24:12
津々堂様
記事の最初の条にある、本丸御殿からの退出のくだりには、当事者でしか知り得ない江戸城内に於ける作法が示されており、『生田又助覚書』が、信憑性の高い一次史料である事を証明しています。
前にも一度紹介しておりますが、大和郡山藩柳沢家に残る、江戸城内での作法にまつわる事例を書き留めた「(仮題)御例集」という書物に載る、若狭小浜藩主酒井遠江守忠与の、平川門よりの退出場面に、その作法が記されていますので、再掲いたします。酒井遠江守は、月次登城の際、殿中で具合が悪くなり、駕籠を呼び入れての退出でした。
「御坊主部屋より中ノ口迠、公儀御陸尺、御駕籠ヲ持出し、夫より御手前陸尺江相渡、平川口御門外迠、御陸尺、駕籠之棒へ手を(掛)罷出申候。〔以下補注但書〕但、御城内は、御駕籠、手前人ニ而ハ為舁不申御作法之由。依之、右之通、手ヲ掛申候由。」
この時は、中ノ口から酒井家の陸尺が、乗物を舁いていますが、この例外的な出来事のおかげで、本来は、江戸城内は公儀陸尺など幕府側の者達が乗物を舁く、という作法が有ったという事が、書き残される事となりました。そしてそのおかげで、宗孝公を乗せた乗物が、城内を公儀の黒鍬者によって運ばれ、平川橋の橋際で細川家の陸尺へと渡されたのも、この作法に則っての事だったと判ります。これは、実際に体験した生田又助にしか書けない内容です。

ところで、この平川口からの退出は、平川門が「不浄門」という扱いだったから、ではなかった可能性が出てきました。
宗孝公の遭難事件から27年後に、若年寄田沼意知が佐野政言に斬りつけられるという有名な殿中刃傷事件が発生しますが、大田南畝の『一話一言』や昌平坂学問所旧蔵の『寛永以来刃傷記』など同時代の記録には、この時被害者、加害者のどちらも、「大手門」から退出した、と記されています。平川門を使った事が記された史料は、今の所見当たりませんので、実際に大手門から退出したと考えてよさそうです。
この事件は、平川門から被害者加害者が退出した事がはっきりしている他の刃傷事件や、病気退出例と異なり、江戸城での日常の職務での登城の際に発生しています。式日などで大名が登城した際の出来事であれば、下馬周辺は供回りで混雑しており、『隱見細倉記』にあるように、退出の際の混乱が予想されます。案外、混乱回避というシンプルな理由で、式日には、平川門から退出させるようにしていたのかも知れません。

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