津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

白井太左衛門宛書状

2012-08-26 09:39:37 | 史料

細川家家臣に白井太左衛門という人物がある。「勤談跡覧-肥後藩之切支丹」によると転切支丹だとされ、「寛永十三年七月十三日 法華宗に罷成り・・」との記述があり、子孫は数代に亘り監視を受けることになる。この系図が其のことを物語っている。 

寛永十年九月五日白井太左衛門宛書状(2329)がある。贈物に対する忠利の礼状であるが、文の末尾は「謹言」で〆られている。
これは家臣だなと思い、上記のことに気づかないまま細川家家臣略系譜をめくると白井家の初代であった。

         就近日出船飛脚 殊南蛮菓子あるへる曲物壹到来 令祝着候 其方疱瘡煩之由
         能々可有養生候 尚長岡佐渡守所より可申候 謹言
                九月五日
                     白井太左衛門殿

 先祖附を見ると、白井家初代・太左衛門尉は薩摩島津家々老喜入摂津守忠續の伯母聟とある。忠續より依頼あり長岡佐渡取次にて寛永十年忠利に召出され、知行三百石、小性組に属せられた。

喜入(島津)忠續とは鹿籠(現・鹿児島枕崎)の領主。季久四男として元亀二年生る。初名忠政。又長重。攝津守。元和頃より國家老。正保二年三月十八日歿。年七五。

先祖附と上記書状を付き合わせると、上記書状が細川家召出し直後頃のものではないかと推測される。召出しの御禮に「あるへる」という南蛮菓子を贈ったというわけであろう。 「南蛮菓子」 http://www.meikatanbou.com/chi_/chi_s/chi_s15.htm

そして太左衛門は、正保元年三月二日、江戸にて乱心者のため深手を負い、程なく歿した。(先祖附)
子孫は代々三百石をもって明治に至った。
長岡佐渡とは松井興長のことであるが、喜入忠續との関係がいかなるものであったのか興味深い。末尾にある「松井佐渡守所より・・・」という文言も納得できる。


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