細川忠利には四人の男子が在る。嫡男が光尚、二男は僧宗玄、三男は別禄壱万石・尚房、末子が南条元信(室・細川興秋女)の養嗣子となった元知である。
末子・元知は寛文九年(1669)、甥にあたる時の藩主・綱利による、陽明学徒の追放事件に諫言をして永蟄居の処分を受けた。
元禄十年(1697)なんとなく処分が解かれたが、永蟄居の期間は28年の長きにわたった。
奥方は三卿家老の長岡(米田)監物是長女・吟である。
熊本藩年表稿を見ると「延宝五年(1677)11月23日、長岡監物の外孫三渕勝千代(実は長岡左近元知の嫡子)を監物の養子とし、監物を隠居させ、勝千代を米田監物是庸と称させ家老に列す」とある。この記述によると勝千代は三渕家に入っていたことが伺える。三渕家は細川藤孝(幽齋)の実家である。
是庸は正徳元年(1715)十二月に52歳で亡くなっているから、延宝五年養子となったのは14歳であり、実父南条元知が蟄居して18年後の事である。
そして蟄居4年後に生まれたことになる。
綱利にしてみれば元知の処分は心ならずものことで有ったのだろう。
14歳の勝千代(是庸)を生母の父・米田是長の養子となし、是長を隠居せしめて是庸を家老にしたというのだから、綱利の心遣いが垣間見える。
不思議なのは三渕家の系図に勝千代の名前を見いだせないことで有る。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます