津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

江戸城西之丸 - 地震之間

2012-08-31 08:45:24 | 史料

江戸城内に地震之間があることは、研究者により語られてきたことであるが詳細を知りえないでいた。
幸い江戸城に関わる多くの図面がWEB上で公開されており、今般これをたよりに調べたところ西の丸に二箇所の地震之間が確認された。

               http://metro.tokyo.opac.jp/tml/tpic/resprint_d/all/isbn001_0_30/isbn001_002_001.html
  
一つは西にある建物で「地震之間」とはっきり書き込まれている。二箇所在ると伝えられているのでよく観察すると、書き込みはないものの、まったく間取りや大きさが同じの建物が南面中央に存在することがわかる。表と奥に一つずつということだろうか・・・ 

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家臣消息・狩野是齋

2012-08-31 08:39:31 | 史料

寛永十一年二月二日牧野信成宛書状(2392)

     一筆申入候 我等女共(忠利室・千代姫)ニ付置候狩野是齋と申者 數年爰元ニ召置候付
     替を國元へ遣申候 彼者妻子女八人之内 乗物壹丁にて御座候 道中御関所御手形被遣
     可被下候 松平大隅(重則)殿へ従貴様被仰入可被下候 猶此者可申入候 恐惶謹言
          二月二日

          牧内匠様
              人々御中

私事で恐縮だが、狩野家は祖母の実家である。
是齋(源右衛門)は日向高橋家に仕え、高橋家改易の後牢人。柳生宗矩の推挙により豊前にて忠利に召抱えらる。

妻子女八人とは・・・・道中も大変なことであったろう。 
二代目は男子が亡くなったため、外孫(女婿・松山次郎太夫の嫡男)を迎えた。 細川家家臣・松山氏 と 狩野氏

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1、太郎右衛門(是斎) 高橋左近家老職--後浪人
               切米人数 百石二十五人 (於豊前小倉御侍帳)
       
狩野是斎消息(細川家文書・御印之物)
          狩野是斎相果し候段立御耳候所ニ娘之儀縁ニ付候迄ハ是斎ニ被遣御扶持方も其儘
          娘ニ被遣候通仰出候条可被得其意候、已上
             寛永拾六年正月十八日        浅山修理(花押)
                  河喜多五郎左衛門殿
                  椋梨半兵衛殿
                  堀江勘兵衛殿

          狩野是斎女松山次郎太夫女房二遣候間今迄娘ニ遣置候扶持方当十月中は可遣候事
          知行百石右女房為養次郎太夫ニ遣候間、当秋ヨリ所務仕候様割可相渡候、物成四ッニ
          不足之所ニ候ハヽ何時も替可遣旨次郎太夫二申聞候間可得其意候事
          是斎家屋敷次郎太夫ニ可相渡候、是斎残候小娘弐人并娘之母下女壱人留守中ニ城へ
          可差上候事
                  寛永拾六年二月十九日 (忠利ローマ字印)tadatoxi

    2、太郎右衛門(養子=外孫 実・松山次郎太夫男)   
               藤堂大学(高次)ニ仕・・・後浪人
               延宝二年御中小姓召出、同六年新知二百石
                細川綱利公御書出

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