津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

失火法

2012-08-25 17:05:38 | 史料

 寛永九年十二月廿九日、江戸の細川家上屋敷(竜ノ口邸)は、同じ大名小路の池田(松平光政)家屋敷の失火により類焼焼失してしまった。
                 火元は池田光政殿
現代では失火法により「燃やされ損」(?)となるが、この時代でも同様であったのだろうか・・・

翌年正月十一日、幕府から造作の費用として銀三百貫が下賜された。この火事による被害が大名屋敷などにどの様な被害をもたらしたのかはっきり判らないでいる。寛永十年二月十八日、親しい間柄である曾我古祐にあてた書状(2045)の文面に、火事ニ関した記述がある。

     一、火事ニ相申衆へ被遣候銀子之書立被下候 見申候
        扨々か様之忝儀も御座候哉と奉存計候事
     一、松新太郎殿ハ火本故 無拝領之由 御下候へ共 未
        神奈川ニ御入候由 承届候事

当然といえば当然だが、火元の池田家には銀子の下賜がなかったという一文には笑ってしまう。

又、四月十日付池田光政宛の書状(2118)が存在するが、これは「肥後入国祝儀」に対する返書で火事に関わる文言がまったくない。
処が同日付の日置忠俊宛書状(2119)があるが、これが火事に触れている。
 
       従新太郎殿被下御使者付而芳札 殊入國之為御祝
       儀失送給候 御懇志之段申盡候 遙々御使者別而
       忝候由 能々御心得頼入存候 如御帋面 舊冬新太郎
       殿御屋敷火事之儀 不慮之儀共候つる 委曲御使者
       へ申入候 恐々謹言
            卯月十日

             日置豊前守殿
                     御返報 

日置豊前守については細川家史料・索引には次のようにある。

       日置忠俊 池田光政家老。豊前守。一万六千石。元亀三年生る。寛永十八年隠居。五月十九日没。年七十。

その他WEBによると

              http://ashigarutai.com/shiro003_shikano.html
                http://matinami.o.oo7.jp/tyugoku1/sikanotyou.htm


 

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気になる書状

2012-08-25 08:33:55 | 史料

大日本近世史料・細川家史料にある二三の気になる書状を挙げる。

 ■三宅藤兵衛宛忠利書状(2069)

      爰元へ参候為祝儀 此者進之候 小袖・馬代黄金十両令進入候
      幾久と祝候而迄ニ候 恐々謹言
         (寛永十年)三月二日
                 三宅藤兵衛(重利)殿         
                            御宿所 

 三宅藤兵衛に宛てた珍しい書状である。肥後入国の祝儀の使者を送っている。
 過分の祝儀が親しい関係を物語っている。

 こちらは贈物に対する返礼の書状(2326)である

      近々罷上ニ付而遠路被差越使者 生毒漬一壺・鹽鰹三・同にとり一
      壺送給 令満足候 猶江戸より可申入候 恐々謹言
         (寛永十年)九月四日
                 三宅藤兵衛殿

        尚々 江戸ニ而萬事兵庫殿相談申候而可申承候 兵庫殿御入国
        迄萬かたく御申付候而尤候 九月十二日ニ罷上候 留守用之事
        長岡佐渡迄御申越尤候 以上

 尚々書の相談事が大変気にかかる。例えば藤兵衛の細川家召出し(?)などという話だと面白いのだが・・・・・
 気になる/\。 

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 ■齊藤利宗宛書状(1672-抜粋)

      松下市進殿之儀 則人を進候 爰元ニ御越候様ニと申遣候 宿以
      下申付置候間 可御心安候事
             (中略)
      尚々 市進殿より之御返事懸御目候 彌此方へ可有御越之由候
      間 可御心安候 以上 

 ■齊藤利宗宛書状(1689)

      貴様御使被上候間申入候 市進殿之儀 此朔日二日ニ熊本を出
      船にて此方へ可被廻之由候 先書ニも如申入 在郷ニ宿以下申
      付置候間 可御心安候  上使衆も肥後を當月八日ニ御立候而
      小倉より可有出船旨候 委可申入候へとも 丹州(稲葉正勝)頓
      而可為御下向候間 不具候 春日(局)殿も御上洛之由承及候
      漸々可為御上著と存候 恐惶
         (寛永九年)八月四日
                 齋伊豆様
                      人々御中 

 ■齊藤利宗宛書状(2093)

      二月六日之御状令拝見候 先途は遥々御使忝存候 卻而為御禮
      御念入候御書中共候 并松下一進へ前々家屋敷・本知なと申付
      候為御禮 是又被仰越候 御慇懃之儀候 猶重而可申承候
      恐惶謹言
         (寛永十年)三月廿五日
                 齊伊豆殿
                      御報 

 齊藤利宗は旧・加藤清正臣である。松下一進は利宗の女婿であり、彼もまた加藤清正に仕えていた。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E5%AE%97
松下一進の細川家召出しを忠利に頼んだのであろうか、その報告(1673)(1689)や、御禮に対する返書(2069)
である。齊藤利宗は春日局の兄、寛永11年3月5日春日局の息・稲葉正利(徳川大納言忠長・家臣)が肥後配流と
なり、一進は正利が亡くなる延宝3年までの約40年間を近くにあって見守ることとなる。
この時期二人にとっては予想だにしないことであったろう。 

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■榊原職直宛書状(2096-抜粋)

      其元ニ而申談候蘆十郎左衛門尉(蘆村家勝)事 五百石可遣由
      心得申候 御書中之通見申候而 知行すたり不申 満足仕候事
          (寛永十年)三月廿四日 

■榊原職直宛書状(2287-抜粋)

      蘆村十郎左衛門事 追而具被仰越候 未つかひ候て未不申候
      躰ニより江戸へ之供ニ召連可申かと存候へ共 それも身上之よ
      ハミと思案半ニ候事 

 榊原職直は長崎奉行を務め、はげしい切支丹弾圧で名を馳せた人物である。その肝煎りによる蘆村
十郎左衛門の召出しに関わる返書である。職直は天草嶋原乱における軍令違反(軍監を勤めた佐賀藩・
鍋島勝茂の抜け駆けに行動をともにした)で免職閉門となったが、後許されている。細川家とのかかわり
深い人物である。蘆(芦)村氏召出の経緯が判る貴重な書状である。

  芦村嘉左衛門  (南東44-6)
      芦田備前守     丹波赤井一族・・・・・・・・・・・・・・・・・(芦田とあるが間違いではない)
    1、十郎左衛門・家勝  
        原城にて武功之面々御褒美被下候 出丸一番乗廿挺頭
        寛永十五年九月朔日 本知五百石・五百石加増 (綿考輯録・巻四十九)

              御鉄砲頭衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
              千石  (真源院様御代御侍免撫帳)
              真源様代・二十挺頭 万治元年十月病死・鉄炮五十挺頭




 

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