津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

隣同士

2011-01-13 13:49:12 | 徒然

 京都大徳寺の細川家墓所・高桐院の隣に、玉林院がある。
     http://www.rinnou.net/cont_03/07daitoku/img/map.pdf      
     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E6%9E%97%E9%99%A2
 ここは豪商・鴻池家の菩提寺だそうだ。細川重賢の代、破産寸前の細川家は大奉行堀平太左衛門が、鴻池家に借金の申し入れをしているが、無碍もなく断られている。そのことが宝暦の改革の発端と考えても良いのかもしれない。
金利の安い代わりの金主を得て、改革は急速に進んでいく。鴻池の借金も、更なる申し入れを断ったことにより返されていくという、皮肉な結果となった。

 こんな逸話が在る。
遊んで暮すってのは出来ることじゃーないよ。昔大阪の鴻池の若旦那が無駄づかいをたしなめられた。その時のセリフがいい。「若旦那、そんなにお金をつかつてしまうと、今に、三井や住友のように商売しなきゃならなくなるよ。 (永六輔著・明治からの伝言)

 笑わせてくれる話だが、細川家も随分お手伝いをしたということになる。
この玉林院には、忠利の子にして妙解寺住職から大徳寺に入院した、不白大和尚宗玄が葬られている。いろいろ因縁めいたことではある。

 

 

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有吉家文書「年中行事抜粋」から花畑館を考察する-(3)

2011-01-13 11:59:37 | 歴史

【披雲閣召出】

披雲閣は「官職制度考」では藩主の常之間だとする。表御殿の一番奥まったところに在る、八畳ほどの部屋である。この文書の冒頭部分に書かれているが、臨時に使われることがあったようだ。ごく限られた人たちが召しだされたのだろう。第二項から検討する。

  ■御用人より案内有之例之通歌仙御間江座着猶案内之節披雲閣被為知
    有之候脱劒等諸事例之通ニて御取次第坐着之八畳敷東之杉戸より
    入帳臺之御間を 陽春之北之御間之事也 通罷出候事
                控えの間は歌仙之御間とある。これにはいささか疑問がある。
         歌仙之御間と披雲閣の間には、鹿之御間・竹之御間(次之御間)
         陽春之御間などが在るためである。歌仙之御間だとすると、一度
         北側の中廊下を経て「坐着之八畳敷」に至ることになる。そうしな
         いと次の説明につながってこない。
         「坐着之八畳敷」とは竹之御間の北側の部屋ではないのか。
         この部屋は中廊下の延長とも言える部屋である。
         これが上記説明の「入長臺之御間」と思われる部屋につながって
         いる。これは次の項の説明で確実なものになる。
  ■夫より披雲閣御次之間 帳臺御間之東陽春御間之御床之後なり 御屏風之
   角ニ罷出御三拝儀仕御居間御境ニ御障子建居候 節ハ今少進出御辞儀
   仕候、右手江添御敷居際まて罷出候、尤御意ニ応御敷居内へ罷出候事
     但大勢之節ハ御間狭有之候間御同間ヘハ難入候、其節ハ右之方坐上ニ
   罷出候事
          披雲閣の御次之間の詳しい説明は間取図と十分に適合する。
         いかにも狭い部屋である。
  ■此召出之節ハ御用人并御取次已下落間まてハ下り不申、鹿之御間北之
      御入側まて下居候間退去之節も致会尺候事
         退去についての「鹿之御間北之御入側まて下」の記述は、行き
          も同様のルートを経たものと思われ、当初の私の疑問の回答と
         考えている。        

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