一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

反省

2013-05-30 16:35:00 | 雑記


     前回のブログの末尾にラッキークローバーのことを
     「小さな幸せ」なんて書いて、アホ!って感じだった。

     「小さな幸せ」って何?
     そんなことで幸せなの?

     
     自分で書いたくせに、そういって突っ込みたくなる。
     このこじんまりとした根性が気にくわない。
     小さく(綺麗ごとに)まとめようとしたことが、自分
     でも気色わるいのである。

     これからは婉曲にやさしく書かないで、核心をつく
     はっきりとした物言いをしよう。

     猫のことだって、遠まわしに表現しないで、ハイセツが
     いやだ、臭くていやだとはっきり云うことにしよう。
     (今朝だって、2回もウ○○を片づけた)

     そう反省した。

     そこで、工事現場のオッサンのような顔(謝っている
     恰好)を出すわけにはいかないので、
     スミレに代わってもらって、「反省」ポーズ。
     (やっぱり可愛らしく終わろうとしているかッ)

     

小さな幸せ、重い内容

2013-05-26 14:05:12 | 人生



     一週間ほど前に見た新聞の投稿がずっと重く胸に
     のしかかっている。(毎日新聞2013,5,20)

     それは「父」という題で、こう始まる。
     「父がまた海外旅行に行ったらしい」
     要約すると、以下のように。

     「離婚して家を出てから、父はよく海外旅行に行くよ
      うになった。
      父に付き添っているのが、再婚相手であることを
      (自分は)知っている。
      それが福島から避難してきた女性であることも」

     この「福島から避難してきた」というところに引っか
     かって、私はもう一度読みなおした。
     それから次に目を走らせた。

    
     「父は小さな診療所で多くの人を助ける仕事をしてい
      て、自慢の父であった。
      小さい頃、のどに魚の骨を詰まらせ泣いたときも
      助けてくれた。
      また、いろいろな所に連れていってくれたり、たく
      さんのことを教えてくれた」

     診療所ということはお医者さん?
     やさしいお父さんだったのだろうな。
     さらに続く。

     「そんな美しい記憶も、父が愛人をつくり家を出ていっ
      たところで途切れてしまった。
      父はいま、海外にいって日本にいては見えないものを
      たくさん見ているのだろう。
      きっとそれは素晴らしいにちがいない」

     このくだりを私は、目を凝らして読んだ。
     そして最後にこう結んでいる。

     「父は、もっと小さいけど大切なものを見ていないよう
      な気がする。
      せめて(自分は)小さいけど大事なものを見つめなが
      ら生きていきたい」

     投稿者は「匿名希望 21歳」とあった。

     う~ん。多分この方は、とても素直で感受性のつよい、
     いいお嬢さんなのだろう。
     父が母以外に好きな女性ができて家を出たことも許せ
     ないし、新しい彼女と再婚したことでさらに深く傷つ
     いたのだろう。
 
     そして、父は遠くの大きな幸福をつかんだが、足元の
     小さな幸せを踏みにじったのではないか。
     そう告発しているようにも聞こえる。

     もしも身近にこういうケースがあったとしても、現在
     の私にアドヴァイスする力はない。
     だが、この父なる男性の立場に立ってみると、これを
     是とする自分がいることにも気づく。

     21歳の娘さんを持つ父親なら、おそらく50歳前後、
     または半ばであろう。
     この年齢になると、自分の行く末、来し方を考えるも
     のだ。
     まして、3・11の震災のこともあった。

     だからといって、何をしてもいいというわけではない。
     子を持つ親なら、いくら好きな人ができたからといって
     子供を傷つけていいということはないはずだ。
     身うちだったら、私もそういってカンカンに怒るに決ま
     っている!

     だが一方で、とうてい信じられない理不尽がときどき
     起こるのが大人であり、
     そもそも、社会全般が不合理なこと、不条理に満ちて
     いるのも現実なのだという思いもある。

     せめて出来ることは、
     このお嬢さんがこの苦悩を乗り越えて、いつかお父さん
     の年齢になったときに、いくらか父親の気持ちも分かる
     なあ、ぐらいの大人になってほしいと祈るばかりです。
     ゆめゆめ、
     潔癖感のあまり、堅い鎧(よろい)を身につけないこと
     を。

     いやいや、このお嬢さんは投稿をした時点ですでに一歩
     踏み出していることでしょう。
     結局は自分で乗り越えなければならないのですから。

     ※ 写真はスーパーの店頭で230円で買ったラッキー
       クローバー。どんどん増える。
      (私にとっての小さな幸せ)     
     
     
     

お人好し

2013-05-25 18:01:50 | 雑記
  
     
     新聞にこんな川柳が載っていた。

       長所かな短所なのかな 人の良さ 

     
     思わず笑ってしまったのだが、つい2~3日前発表
     になったサラリーマン川柳とはちがうのである。

     本当にあまり人の良い人物にあうと、悪気ではない
     だけに、かえって困ることもないではない。
     (つまり、ある)

     さて、今日は人間ではなく、野鳥のはなし。
     昨年の今頃もブログに載せたと思うけど、どうして
     も黙っておれない。

     わが家の近所ではまだウグイスが鳴いていて、近頃
     めっきりけたたましくなったのはホトトギスの声!
     「テッペンカケタカ」か、
     「トッキョキョカキョク」(特許許可局)か知らない
     けれど、賑やかに嬉しそうに鳴いているのだ。

     そのはしゃいでいる鳴き声を聞くと、育児放棄して
     遊びまわっているギャル風の若い女性を思い出して、
     (全部が全部ではない、ごく一部)
     どうにも気になって仕方がないのである。

     しかし、托卵するのはホトトギスだけではなく、
     カッコウもするらしい。
     ホトトギスは主にウグイスだが、カッコウはモズや
     ホオジロの巣と決まっている。

     いずれにしても、托卵の相手が卵を産みはじめると、
     その巣から1つ落して、自分の卵を産んでおくという
     のだからタチが悪い。
     うまくした(?)もので、その他人(鳥)の成長が
     はやく、育ての親は自分より大きくなったヒナにせっ
     せとエサを運ぶというのである。

     いくらなんでも、育ての親は途中で気づかないのだ
     ろうか。お人好し過ぎはしないか。


     そんなことを思うこと自体、ニンゲンのエゴ、
     お節介というものかもしれない。
     それで自然界のバランスはとれているのだから。

     巣にある卵を抱くのも、口を開けているヒナにエサ
     を与える給餌も、動物の本能らしいのである。

     しかし、預ける方(ホトトギス&カッコウ)にも、
     それなりの苦労はあるそうです。
     野鳥博士はいっていました。
     「ホトトギスやカッコウはずるい、というのは人間的
     な発想で、あんなに苦労するくらいなら自分で子育て
     した方が楽ですよ」

     ああ、そうですかと一旦は納得したが、  
     いつもぼんやりしているくせに、時々お節介になる私
     は明朝、またホトトギスの声を聞いたら腹を立てるに
     違いありません。
     

     ※ 写真は先日通った「鎌倉・朝比奈切り通し」。
      ここでもウグイスとホトトギスがしきりと鳴いて
      いました。     
      
     
     
     

     

「けむり」OR「かすみ」

2013-05-22 15:28:48 | 雑記


    引っ越すときに持ってきた観葉植物が元気がなく  
    なったので、引きさがってもらうことに。
    (処分するには可哀そうで庭に下ろして水やりを
     しているのだが、全体的に生彩がない。
     多分、土を入れ替えるか肥料をやり直すか、
     別の手立てが必要なのだろうが、薄情な私は
     そこまでやる気はないのです)

    それで折りあるごとに花屋や植木屋をのぞいていた。
    家人について葉山のお店にいったのも、そのためだ
    ったのです。

    ところがいざ探すとなると、欲しい物がない。
    花より緑の葉っぱもの、机の横に置くので高からず、
    低からず。値段もほどほど。手間いらずで常緑の方
    が好ましい……。
  
    となると、案外ないものです。

    ま、いずれ、と思って先日、通りがかりに、近くの
    造園業の庭を見たらありました。
    「けむりの木」というやつ。

    桃と紅を混ぜた色のボワーッとした花(糸状)が咲い
    ていて、正式には「スモークツリー」というのだとか。
    葉はまだ小さいが、花が終わると大きくなるのだそう
    です。もちろん常緑樹。

    
    家に帰って調べたら、「けむりの木」は「かすみの木」
    ともいうとあって、笑ってしまいました。
    「けむり」または「かすみ」。
    まるで私の頭そのものじゃないですか。

    目下、植木屋の庭に植わっていた白と紫のも買うか
    どうか、迷っています。
    こちらはまだ花が咲いていなかった。今度通ってみて
    開花していたら、買いたくなるだろうな、きっと。
    そしたら、頭のボワーッ度にも磨きがかかって、いよ
    いよMAXになるかも。
    そしたら戻るしかないから、いいかッ。

    (机付近があまり散らかっているので布で隠して
     撮りました)
    
    
    

    

東海の小島の磯の……

2013-05-19 17:03:12 | 読書


     先日、人を案内がてら七里ヶ浜から由比ヶ浜まで歩
     いたのだが、ちょっとの間にこんなにたくさん貝を
     拾った。
     (この日は休日で天気もよく、家族連れやカップル
      でにぎわっていた)

     砂は白く、ところどころに打ち寄せた貝がかたまって
     いる。中にはマッチ棒の先っぽ位の小さな巻貝もある。
     
     白砂といえば、これ。

      東海の小島の磯の白砂に
             われ泣きぬれて 蟹とたはむる
                         石川啄木

     啄木は1886年(明治19)岩手県生まれ。
     小学校時代は神童と呼ばれた。
     旧制中学のときに『明星』を愛読して、与謝野晶子の
     『みだれ髪』にのめりこむ。
     当時、晶子は鉄幹と結婚して全盛期であった。

     やがて文学に心酔するあまり学業が身に入らなくなった
     啄木は、学校を中退し、上京した。
     この頃であったろうか、与謝野家に出入りして、晶子か
     ら夫婦喧嘩の愚痴を聞かされたりしている。

     啄木は19歳で詩集を出すなど名声は上がったが、生活
     は苦しい。
     いったん帰郷して代用教員となり、堀合節子と結婚、
     生活の安定のために北海道に渡ったりする。

     再び上京して朝日新聞の校正係の職を得て、家族を呼
     びよせるが、妻と姑の仲がわるく、家庭はトラブル続
     き、啄木自身の生活も乱れた。

     『一握の砂』を出したのは24歳のときである。

       ふるさとの訛(なまり)なつかし停車場の
               人ごみのなかに そを聴きにゆく 

    
       たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに
                      三歩あゆまず

       はたらけどはたらけど猶(なお)わが生活(くらし)
               楽にならざり ぢっと手をみる

     1912年(明治45)肺結核で死去。29歳であった。

     明治に生まれ、明治に死んだ詩人。
     天才は早死にである。
     しかし、いまでも国語の教科書に出てくるように、
     啄木の歌はちっとも古くない。

     啄木死して、今年で101年になる。      

          
     

     
 

どこを見る、何を見る

2013-05-18 18:52:31 | 雑記


    前回の写真、あどけない猫がそんな悪さをするのか
    と思う。

    これ(前回の写真)は家族がちょっと前に撮ったも
    ので、私には見せないショットである。
    私が近づくと(猫嫌いを知ってか)警戒してぐっと
    睨むか、さっと逃げるのだ。

    猫が猫なら、私も私。

    朝早い私はコーヒー片手にパソコンに向かうが、
    すぐ仕事にはならない。
    ボーっとして窓ごしに外をながめていると、猫も
    ベランダの間から顔を出してじーっと外を見ている。
    やや顔を上げて雲の動きに目をやったり、ときどき
    脱走する雑木林の方だったり……。

    猫よ、どこを見る、何を見る。

    自由になりたいのか、飼われていた方がラクだと
    思うのか。

    このときだけは少しだけ猫に同情するのだが、
    そんな感傷はたちまち裏切られる。

    
    前回、脱走したときは3日目にご帰還。
    もーッ(怒!!)と腹を立てた。それでも仕方ない。
    急いでエサを多めにやっておいたのだが、
    しばらくして二階にあがってみたら、
   (エサの入っている)袋ごとかじって床いっぱいに
    撒き散らしていた。
    トイレ用の砂(おがくずで作ってある)袋も同様に。
    

    おまけに、最近はしっかり閉めた網戸まで(手で)
    あけて、ベランダに出てしまうようになった。
    最初は、あれ? (自分が)閉め忘れたのかなと
    思っていたのだが、何回目かに、やっと猫の仕業
    であることが分かったのだ。

    ああ、いつまでこの半家猫、半野良と付き合うの
    だろう。

    ※ 写真は逆光でよく見えないが、矢印がベランダ
    から顔を出した猫。
    カメラにおさめようと窓を開けるものなら、気配で
    察してすぐ姿を消す。
    やっと撮れたのがこれ、真っ黒の写真。
    
    

    

またも猫

2013-05-15 17:55:30 | 雑記
   

     二階をまるで要塞のように網をはりめぐらせ、鼠一匹
     くぐれないようにした。
     そのお陰で例のチビ猫(ソラ)が階下に降りることは
     なくなったが、その代わりといってはナニだが……。

     昨日、お向かいの奥さまから声をかけられた。
     「お宅、猫を飼ってらっしゃるのですか」
     「は、はい」
     日々、猫の悪行に困っている私は何をいわれるかと
     戦々恐々……。
     「この前、猫ちゃんがお二階のシェードに乗っていて、
     どうするかと見ていたら、ちゃんと戻るんですね」
     「はあ、出ていましたか」

     実は、(猫の)気分転換と日光浴のためにベランダの
     扉を(天気のいい日には)開けておく。
     空気の入れ替えのためでもあるが。
     さらに先日のように暑い日はサンデッキのオー二ング
     (日よけ)も広げておくのだが、猫はどうやら、その
     日よけに乗っていたらしい。
     (私は知らなかった)

     ほっ! ソラが悪さをして苦情をいわれるのではない
     かと一瞬、身がまえた私は胸をなでおろした。
     それから彼らの悪行をぶちまけましたとも。
     いかに猫に苦労しているかを分かってもらうために。

     奥さまはホホホと笑われて、こういわれた。
     「ウチにも猫4匹いるんです」
     「えっ」
     奥さまの手元にはラブラドールの手綱。
     「これ(犬のこと)は最近ウチに来たばかりなんですけど、
     猫も犬も好きなんです」

     そのお宅が(盲導犬にもなる)賢そうなラブラドールを飼
     ったことは、毎朝散歩に行かれるので知っている。
     でも、猫が4匹もいるとは……。
 
     「(動物が)お好きなんですか」
     「ええ、家族みんな大好きなんです」

     はあ、私は恥ずかしくなって、早々に退散した。
     こんなお宅に飼われたら猫も犬も幸せであろう。
     ソラがわが家に来たのも運のつき。   
     
  
     
           
 

もどきの樹

2013-05-12 18:19:01 | 自然


     途中、用事があって2時間ほど出かけて帰ったら、
     まだやっていた。

     見たとき何と大げさなと思ったのだが、
     キリンの首のようなショベルカー(?)でトラックか
     ら樹を庭に下ろし、2人がかりで支えたり土を埋めたり。

     植樹したのは2種類で、ロドレイヤとブラシノキ。

     現地(造園屋)でみるとさほどではないが、こうして
     庭に持ってくると、思ったより大きい。

     それにしても、馴染みのない名前である。
     仕事の邪魔をしてわるいとは思ったが、あれこれ
     聞かずにはいられない。

     ロドレイヤは東南アジアや中国南部に分布する常緑樹
     で、(今年は終わってしまったが)春先に紅い花を
     咲かせる。
     今でも5mくらいあるのだが、もっと大きくなるらしい。     

     ブラシノキは オーストラリアに多く生え、森林火災
     の際に割れて種子を放出するのだとか。
           

     う~ん、いま一つつかみどころがない。

     釈然としない私の顔をみてか、こんな説明をしてくれた。

     ロドレイヤは樹性が日本のシャクナゲに似ているので、 
     「シャクナゲモドキ」とも。
     ブラシノキは春先に咲く紅い花が(瓶を洗う大きめの)
     ブラシに似ているので「ブラシの木」ともいわれる。

     ああ、「もどき」でようやく今回の珍種も私の腑に
     落ちたのだった。

     
     ※ 写真は雨の中の作業。「シャクナゲモドキ」を
       植えているところ。
       横にあるのは「ブラシの木」で、ブルーの長い
       のはショベルカーの一部。
    

     

庭師がやってきた

2013-05-12 17:19:43 | 自然


     昨日の日曜日、雨のなか庭師がやってきた。
     頼んでいた樹木を植えるために。

     職人の仕事は朝早い。来る早々9時には穴を掘り
     はじめてご覧のとおり。

     昔は植木屋といっていたが、現在(いま)は庭師
     というらしい。
     植木屋というと、年寄りの職人さんというイメージ
     しかないのだが、現在は高齢者を採用しないのか、
     若手のカッコいいお兄ちゃんばかり、それもこれも、
     単にこちらが年とっただけのことかもしれないが。

     黙々と作業をつづける2人の庭師をみて、思い出した
     ことがある。

     毎年必ず一度、さらに祝儀、不祝儀などの人寄せ
     (昔は結婚式も葬式も家でやった)
     には必ず植木屋が入った。

     子供の私は、(植木職人が)しょっちゅう手を休め
     ては煙草を吸ったり、お茶を飲んでばかりいるのが
     不思議でならなかったのである。
     

     いつ頃だろう。あれは怠けているのではなく、
     庭全体のバランスや、剪定の具合をみているのだと
     分かったのは。

     そして、現在、
     私は小説も同じではないかと思いはじめた。

     夢中になって書きすすめればいいというのではない。
     (才能のある人は別です)
     目をはなして遠景、近景をながめては構成を練りな
     おし、プロットを考える。

     宇野千代さんだったか、
    「筆がすすむときほど気をつけなければならない」と
     いっていたが、そういうことなのだろう。
     
     何のことはない、植木屋も小説家も同じ職人では
     ないか、と思ったことだ。
     
      
     
     

メタ認識

2013-05-11 16:59:56 | 健康


     前回、お墓参りのことを書いたら、その翌朝の新聞に
     こんな川柳が載っていた。

       墓参り いずれされる身 なるんだね
           
         
     実感である。

      ∞  ∞  ∞  ∞  ∞

     お母様を病院に連れていった知人から聞いた話。
     それは認知症検査で、私もなんと10項目のうち
     4つくらい当てはまってしまった。

     私は「今日は何日ですか」と聞かれて、咄嗟にいえ
     たことがない。
    「100から7をどんどん引いていく」のもダメだし、
    「3-5-2-9を逆からいって下さい」なんていわれ
     たらドギマギして間違える。

    アブナイアブナイ!
    それに最近こんなことがあった。

    出かけようとして車を発車させたのはいいが、一瞬、自分
    がどこに向かっているのか分からなくなった。
    すぐに病院に行くことを思い出したのだが、今度はどの道
    を走ればいいのか、理解するまでに数分かかった
   (ような気がする)。
    実際には1~2分だったのかもしれないが。

    そして今日、
    春から花粉症およびアレルギー予防に漢方薬を処方して
    もらっていることは過去にこのブログでも触れたが、
    薬局に処方箋を預けたまま4日も取りにいかず、電話をも
    らって、やっと思い出した。

    これには訳がある。
    漢方医のいる院内の薬局はいつも混んで50~60分待ち。
    それがイヤで外の薬局(店舗)に行くのだが、漢方が特殊
    なのか常備してなく、取り寄せてもらうのだ。
    (それでも翌日には届く)

    アブナイ、アブナイ!
    しかし考えてみると、こんなことは今にはじまったことで
    はないのだ。

    日にちはもともと気にしないし(曜日で動いている)、
    数字もこれまた小学生のときから弱いのです。
    スーパーでの買物も計算など最初からする気がなく、
    多めに出してお釣りをもらうので小銭ばかり溜ってしまう。

    でも本当にアブナイのは、こんな風に開き直ってしまうこと
    なのかもしれない。
    気をつけなくちゃ!

    ところで最近聞く「メタ認識」ということば。
    メタボと認識が組み合わさったのかと思ったら、そうでも
    ないようだ。

    自分で自分のことを知り、コントロールできる力をいうら
    しい。
    自己モリタリング力とでもいうのか、この能力がある人は
    認知症にもかからないということなのだろうか。

    節句には邪気を払うという菖蒲湯に入ったが、頭の方の
    邪気はどうすればいいのか。

    ※ 写真は外出先でみた菖蒲の花