お城と桜はよく似合う。
ここから電車一本で行けるせいか、小田原城には
何度か足を運んだことがある。
城郭を埋め尽くすような桜並木、樹齢〇百年といわ
れる見事な藤棚、お堀に群がる太った鯉……申し訳
程度に史跡をたずね、気がついたら干物や蒲鉾を手
に……という物見遊山がほとんどだった。
しかし、こんなのどかな花見が嘘のような戦乱期が
あったのだ。
戦国の梟雄(きょうゆう)といわれる北条早雲が伊豆に
進出し、小田原城を奪ったのは明応4(1495)。
(ただし早雲は韮山城を拠点としていたので、小田原城
を根城としたのは二代目の氏綱から)。
そのあと氏康、氏政、氏直と五代目まで甲斐の武田や
越後の上杉、駿河の今川と死闘をつづけ、ときには
「政略結婚」という懐柔策に出て城を守った。
なかで見事というべきなのは、北条家に身内同士の
争いや紛争がなかったこと。
血の気の多い兄弟が多かったにも関わらず、常に
当主を立てて、一致団結した。
それが戦国時代100年を守り抜いた大きな要因
でもあろう。
しかし、こんな結束も時代の変化にはついていけ
なかった。
秀吉の全国統一がはじまったのだ。
九州を平定した秀吉は、残すは関東と奥羽(伊達)と
ばかりに兵を出した。
当時、五代目・氏直は伊達(だて)と同盟を結び、
家康の娘を妻にしていたから安心もしていた。
だが伊達は秀吉に屈し、時勢をよんだ家康も秀吉側に
ついてしまった。
かくして小田原城は秀吉の手によって落城し、ここに
戦国時代は終わりを告げた。
天正18(1590)年のことだ。
(氏直の妻・督姫は家康のところにもどされ、のちに
姫路の池田氏に嫁いでいる)。
春うらら、のどかな光景のなかにいると、こんな生臭い
ことがあったことなどおよそ信じられない。
今年も花見客でにぎわうだろう。
(小田原北条は鎌倉北条とは関係ありません)