その前に佐多稲子について語らなければならない。
佐多稲子 (1904~1998)
小学校を中退してキャラメル工場で働く。この体験が
後にデビュー作となった(24歳)。
なかなかの苦労人で、料亭の女中や丸善の店員なども
やり、一度結婚に失敗している。
その後、カフェの女給となり、そこは「驢馬」という
同人誌の溜まり場で、窪川鶴次郎や中野重治、堀辰雄
らが出入りしていた。
稲子は彼ら文学青年たちによって文学の深淵に触れ、
創作をはじめる。
もちろん彼らのマドンナだったのだ。
稲子のハートを射止めたのは窪川で鶴次郎で、結婚後
は夫の非合法活動を支えるために、稲子が働いた。
なのに、たびたびの窪川の不倫で離婚。
なんと佐多稲子というペンネームを使うようになった
のは離婚後のことだとか。
(それまでは窪川稲子という本名で書いていた)
私が彼女の作品で一番好きなのは「水」という短編。
東京に働きに出た幾代という少女が、突然の母親の訃報
に上野駅のホームで泣き崩れるシーンである。
「グリーンのセーターに灰色のスカートをはいて、その
背をこごめ、幾代は自分の膝の上で泣いていた。
…………
すぐ頭の上の列車の窓から、けげんな顔で人ののぞく
のも知っていたが、どうしても涙がとまらず、そこよ
りほかの場所に行きようもなかった」
稲子58歳のときの作品である。
文庫本でわずか数ページの短いものだが、これによって
私は短編の妙味を知った。素晴らしい小説である。
(写真は手元にある文庫本。この中に「水」が入っている)