一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

ヘビについて

2015-06-28 11:07:28 | 雑記


     ついでにといっては何だが、
     ヘビについて。

     チビが学校の図書室で絵本を
     借りてきた。
     『へび のみこんだ
      なに のみこんだ』である。

     ヘビが次々に飲み込んでいく
     のだが、その発想が面白い。

     お腹がすいてアイスやリンゴ、
     ぺろぺろキャンディを飲み込む。
     次に「うるさい」から
     鶏(オンドリ)を飲む。
     「気味がわるくて」タコを飲み、
     「つよくなりたくて」ライオンを
     飲み、
     「早く走りたくて」車を飲み、
     「大きくなりたくて」山を飲み、
     途中、「大好きだから」
     女の子のヘビ(メスヘビ)を飲む。
     (この頁の絵が可愛いらしい)

     最後に、
     「光がほしくて」
     とうとうお陽さまを飲み込んで
     しまった。

     その都度、飲み込んだヘビが
     オンドリの形になったり、タコに
     なったり、車になったり、山の
     形になったり……。

     最後の太陽のところで
     絵本に収まりきれないヘビの姿。

     この絵本は「ヘビ」になぞらえて
     細長く作ってあるので、できれば
     前頁載せたいところだが、
     スキャンができない。
     
     ふつうなら避けたいところのヘビ
     がこんな風に愛らしく作ってあり、
     意外な展開が意表を突く。

     ※ つぺらつぺら作で
       絵本の社発行

猫の場合

2015-06-28 09:55:08 | 雑記


     どうでもいいことだが、犬を
     出したら猫も書いておきたい。

     散歩していると、猫にも会う。

     前回の「迷子の子犬」が私の顔
     を見上げて
     「ねえねえ、私、迷子になっち
     ゃたの。私の家、知らない?」
     といっている(風)なのにくらべ、
     猫は私のことなど一瞥もしない。

     さっさか歩いて、藪の中に消える。
     多分、猫道があるのだろう。
     首に鈴をつけているから、ノラ
     ではない。ペット猫だ。
     (写真は写メの音に驚いて
      振り向いた瞬間)

     犬と猫、同じペットで、どうして
     こんなに違うのだろう。

     そういえば犬を(それも多種多様)
     連れて散歩している人には会う
     が(毎回、4人位の人に会う)
     猫と散歩する人は見かけたこと
     がない。
     
     猫といえば漱石の「吾輩は猫である」
     だが、エドガー・アラン・ポーにも
     「黒猫」という小説があった。

     酒乱によって可愛がっていた黒猫を
     殺した男が、それとそっくりな猫
     によって追いつめられていくホラー
     的な短編である。

     犬とともに暮らすエッセイは見か
     けるが、推理ものには犬は登場し
     ない。

     そんなことを考えながら
     私の一日ははじまる。

     
     
   

迷子の仔猫ちゃん(子犬?)

2015-06-21 11:04:20 | 雑記


     森の中を散歩していたら、
     迷子らしい子犬に出会った。
     近くに人家もないところだから
     飼い主の知らぬ間に外に飛び
     出したのか……。

     犬というのはなぜか、
     (ペットとして愛玩されていれ
      ばいるほど)
     人の顔を見る。

     
     犬に慣れていない私は、困った
     なと思ったが(なるべく)目を
     合わせないように通り過ぎた。

     以来、あの犬を見ていない。
     無事家に帰れたのかどうか。

     
     迷子といえば、高齢者の徘徊。
     昨日も市の警察署のアナウンス
     があった。
     「●●さんが昨日から行方不明
     になっています。
     特徴は…………」
     といって、身長や髪形、着てい
     る洋服などが拡声器から流れて
     くる。

     子供の場合は迷子で、高齢者に
     なると徘徊というのか。

  
     私もときどき、
     夢か現実(うつつ)か分からな
     くなる。
     あれこれ想って、
     あれは夢だったろうか、
     現実のことだったろうか、と
     区別がつかなくなるのだ。


     その感情は決して嫌なものでは
     なく、
     私にとってむしろ至福のとき
     なのだが。


     私はすでに認知症の範疇に足を
     踏みいれているのだろうか。

     
     

 

     

年々歳々

2015-06-20 20:56:06 | 自然


     北国ではもっと早いだろうが、 
     当地では10日ほど前に田植え
     が終わったところである。
     今日、近くを通ったら
     蛙がしきりと鳴いていた。

     田植えとい、蛙の鳴き声といい、
     一年の季節のサイクルをこれ
     ほど感じることもない。

     鎌倉にも田んぼはある。
     買物のとき、わざと遠回りして
     田園風景を見ることがある。

     植えられたばっかりの早苗は
     あれよあれよと思う間に大きく
     なり、盛夏には勢いさかんな
     青田になる。

     秋風が吹く頃には穂が出て、
     やがて一面黄金に輝き
     そして稲刈りをむかえる。

     鎌倉に越してきて、この工程
     を4回みた。
     (引っ越して4年半になる)

     最初の年、3月のまだ寒い頃、
     おじいさんが一人、鍬で田起
     こしをしていた。
     一鍬、一鍬、土を起していく
     のである。

     2日目、3日目、亀のごとく
     に見えたおじいさんの作業が
     いつしか田んぼ全部を起して
     いたのに驚いた。

     それでも一年目は、
     ご苦労なこった、何もそこま
     でしなくても……と、
     半ば同情の気持ちもあったの
     である。

     しかし2年目、さらに腰を
     曲げて働くおじいさんの姿が
     ミレーの「種まく人」ではない
     が、神々しく見えてきたのだ。

 
     3年目、おじいさんの姿は
     なかった。
     もしや、入院でもしているの
     ではないか……などと思い、
     気にかけていたら、
     田植えの手伝いをする姿に
     ほっとした。

     しかし、鍬で田起こしをする
     姿は2年目までで、翌年から
     は息子さん
     (といっても60代)
     が耕運機を使ってやっていた。

     今年も田植えの手伝いをする
     おじいさんの姿はあったが、
     ほとんどが息子さん夫婦が
     機械でやり、おじいさんは  
     補助的な仕事をちょこちょこ
     するだけになった。

     まさに、
     年々歳々 花相似たり
     歳々年々 人同じからず
     である。

     
     
         
 
     
     
     


生命の輪

2015-06-14 14:31:11 | 自然
 

     2年かけて行われた調査で、
     明治神宮の森には植物やキノコ、
     変形菌、土壌生物、魚類、両生  
     類、爬虫類、鳥類、哺乳類など
     2840種類もの生物が棲息し
     ていることが分かった。

     日本では一度しか見つかって
     いないキノコや新種のムカデ、
     カタツムリなどもいた。

     とても写真を凝視することは
     できないが、 シマヘビが
     (都心でシマヘビを見ること
      自体、めずらしい)
     同じく希少なヒバカリという
     ヘビを捕食しているところに
     も遭遇した。

     生態系の上位に位置する
     オオタカやヘビが狩りをし、
     繁殖をする。 
     これはこの森が一世紀近い
     時を経て、生命をはぐくむ
     豊かな場となった証拠と
     いえるだろう。

     小さな生きものたちのつなが
     りも無数にあった。

     落ちたドングリやオサムシの
     体を養分にして生えるキノコ。
     それらのキノコを食べる昆虫
     やバクテリア。
     バクテリアを食べる変形菌。

     鎮守の森は大都会の真ん中に
     あって、多様な生命を内包し
     循環する命のつながりを
     生み出す貴重な「生命の森」
     であった。

こんど機会があったら、
     明治神宮を参拝して、
     そして鎮守の森をながめ
     たいと思う。


     ※落ちたドングリから生える
      ドングリキンカクキン
      同じく新聞写真より
     

神宮の森

2015-06-13 17:31:36 | 自然


    毎日のように溢れるニュースに、
    そうかそっか、とその場かぎり
    でスルーしてしまう私。
    忙しいのか余裕がないのか、
    はたまた年齢とともに無感動に
    なってしまったのか。

    そんな私が珍しく、心に残って
    ホットになる記事が新聞に
    載っていた。

    東京のど真ん中に位置する明治
    神宮の森の写真である。
    
    これは1915年(大正4)から
    5年の歳月をかけてつくられた
    いわゆる人工の森、ということ
    もはじめて知った。

    広さ70㌶
    競争に敗れた樹木が消え、造営
    直後約12万本の樹木は、いま
    4分の1の3万本あまり。
    

    ここにも自然の淘汰があったの
    ねえ。
    現在はシイやカシ、クスノキなど
    に覆われる見事な常緑広葉樹の
    森になった。

    調査は2011年から2年にわた
    って行われた。
    そして、東京の都心とは思えない
    ほどの生命の営みがあふれていた
    ことが分かった。

    オオタカの幼鳥がハシブトガラス
    を襲った場面もあった。
    ところがせっかく獲物をとらえる
    も、タカの仲間のノスリに奪われ
    てしまった。

    タヌキも新種のカタツムリも、
    きれいな流水でしか生きられない
    日本最大のトンボ・オニヤンマも
    いた。
    

    私も学生時代から何回となく
    この鎮守の森をおとずれ、
    それこそスルーしてきたのだが、
    これほど凄絶な生き物の宝庫だ
    とは、一度も考えたことが
    なかった。

    最近は明治神宮を訪れる機会
    もとんとないが、
    想いを馳せるだけでも
    リフレッシュされる気がする。


    ※ 写真は林床から生える
      タマゴタケ
      毒々しいが食用でおいしい
      という。
    (新聞写真掲載)

ガラケー

2015-06-07 11:20:13 | 雑記


     ガラケーとはガラ携帯のこと。
     ではなぜ「ガラ」というのか。

     人に聞くのもシャクだし、調べる
     気もなくて、放っておいた。
     それがあるとき、ひょんなことか
     ら意味を知って唖然とした。

    「ガラ」とは「ガラパゴス」のこと。
     なぜガラパゴスなのか?

     日本の携帯電話は(世界のIT事情
     とは別に)独自に進化した。
     それはもう先進的な技術や機能を
     持ちながら、海外では普及しなかっ
     たらしい。

     それを他との接触がなかったために
     独自の進化を遂げたガラパゴスに
     例えたのだ。

     なんということ!!

     携帯電話を持ちながら、画面が小さ
     くて打ちにくいし、読みにくいわ、
     等々の理由でもっぱらPCメールを
     使用していた私。
     スマホになったからって、
     変わるものではない。
     緊急の電話か簡単なメール応答
     のみである。

     私のような者はガラケーならぬ、
     「ガラ女」ということになるだろう。

     ちなみに「ガラホ」という言葉も
     あるらしい。
なんちゅうこっちゃ。
    
     

最新情報

2015-06-06 14:42:20 | 雑記


     先日、病院に定期健診にいった。
     
     予約はしてあるのだが、採血を含め
     2つ3つ検査すると会計が済むまで
     3~4時間はかかる。
     
     その夕方、用事があった私は念の為
     少し早めの時間に行った。
     参ったな。
     病院の待ち時間がもっとも苦手なの
     だ。

     待合室で椅子にかけていたら、隣の
     女性(60代半ば)が何やら一生懸命
     やっている。

     「iPadですか」 「そう」
     「ゲーム?」  「そう」
     「楽しいですか」「楽しいですよ」

     家ではチビがやっているが、ゲームの
     楽しさがさっぱり分からない私は、
     「へえ」と感心した。

     「やるとハマるんですよ」
     「はあ」

     私はスマホに替えて2カ月くらい経つ
     が、まだ昔の携帯機能しか使っていな
     い。
     そんなことを話したら、
     「スマホ使えるならiPadなんて簡単です
      よ」
     「へえ」
     家ではパソコンばかりだ、といったら
     「パソコン使えるなら尚更カンタン!」
     という。

     「iPadはタブレットのPC」というく
      らいだから、そうなのだろう。
     だけど言葉の意味は分かっても使えな
     い。

     さらにその女性はいう。
     「スマホあるならぱPCもiPad1もいら
      ないわよ」
     「はあ?」
     「スマホはぜんぶ兼ねているのよ。
      それに小さくて軽くて持って歩くのに
      便利でしょ?」
     「はあ」

     つまり、私は何も分かっていないのだ。
 
     そのうち名前を呼ばれて採血に行った
     ので、その話はそれっきりになった。

     あれ以来、私の理解度は進まずそのま
     まだ。