一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

小倉城

2015-10-21 19:39:56 | 歴史



      まさかここでお城に出会うとは思って
      いなかった。
      小倉の街を歩いていたら突然、天守閣
      が見えるではないか。

      知り合いに案内してもらったのだが、
      「え、お城?」と驚く私に、
      「小倉城だよ」という。

      それまで小倉城の存在を知らなかった。
      しかも立派なお城ではないか。

      調べてみると、小倉城は
      永禄12年(1569)中国地方の
      毛利氏が城を造り、
      慶長7年(1602)細川忠興が今の
      ようなお城にした。

      細川忠興は城下町繁栄策として諸国の
      商人や職人を集めて商工業保護策を
      実施してしている。
      また外国貿易も盛んにし、同時に
      祇園祭も誕生させた。


      細川忠興といえば、正室が細川玉
      (洗礼名・ガラシャ)である。
      ガラシャは戦国時代1,2を争う
      美人であることは歴史でも有名で
      あるが、親は明智光秀であった。

     
      1578年、本能寺の変により
      光秀の娘であるガラシャは夫の
      命令で山奥に幽閉される。
      云うまでもなく、
      光秀は本能寺で信長の寝込みを
      襲った張本人なのだ。

      信長亡き後、台頭したのは秀吉
      である。
      秀吉は何をたくらんだか、ガラ
      シャを家に戻せと云う。
      ガラシャは細川邸にもどされた
      が、夫の忠興は決して人前には
      出さなかった。

      これには色きちがいの秀吉が
      ガラシャに横恋慕して、夫の
      忠興に(妻を)召しだすよう
      迫ったからだ……云々といった
      俗説がいっぱいある。

      ガラシャは唯一の希(のぞみ)
      である教会に行くことも禁じら
      れ、侍女にこっそり行かせて、
      侍女から話を聞くことを楽しみ
      にしていた。

      やがてガラシャは夫が戦に出て
      いる間に人質に取られそうに
      なったとき、お付きの者に命じ
      てわが身に刀を突きささせ、
      さらに死体を見せないよう、
      家に火をつけさせた。

      ガラシャ37歳の死。
      「散りぬべき時知りてこそ
       世の中の 花も花なれ
       人も人なれ」
       
      辞世の句である。


      

    

  
      

戦後70年

2015-08-15 16:32:08 | 歴史


     今日は70回目の終戦記念日。

     朝、クーラーの部屋ばかりにいたら
     かえって体調を崩すと思い、散歩に
     出た。

     いつもの散歩コースである。
     くぐり抜ける森は法師蝉でいっぱい。
     もちろん遠く、近くの森ではジーッ
     と焼けつくような油蝉や、ミンミン
     蝉が相も変わらず鳴いているが。

     変わらぬようで、蝉の世代交代も
     はげしい。3日前まではさほどで
     なかった法師蝉がこんなに多く
     鳴いているとは……。


     お昼12時には高校野球の黙祷に
     合わせて目をつぶり、未来永劫
     平和がつづくように祈った。

     今朝の新聞記事(毎日新聞)に
     よれば、
     70年前の8月15日。
     後に作家として独立する井上靖は
     毎日新聞大阪報道部の記者として
     「玉音 ラジオに拝して」
     と題する社会面トップを執筆、
     最後のこう記したという。

     「われわれは今日も明日も筆を
      とる!」

     少なからぬ新聞人が戦中の報道の
     責任をとる形で社を去る決断を
     する中で、である。

     彼の同僚で、一面コラム「余録」
    (朝日新聞の「天声人語」に当たる)
     を担当することになる藤田信勝
     記者は、この日の日記に、
     「今われわれ全部が新聞社を去っ
     たらどうなるか。国民は杖(つえ)
     を失った盲人同然だろう」
     と記者を続ける覚悟を書いたそう
     だ。

     たしかに戦時中の報道は軍部の圧
     力でウソだらけだった。
     
     現在、我が国にはペンの規制も
     発言の圧力もない(と信じる)。
     そのこと一つとっても平和の有難
     さをかみしめたい、と強く思う。


     ※ 平和の象徴のようなヒマワリ
   
  

     

笠戸丸

2015-05-10 14:11:22 | 歴史


     今日は母の日(らしい)。
     毎日が母の日の私は何ら特別な
     ことはない。
     自分のペースで好き勝手に生きら
     れるのが、私流の「母の日」だと
     思っているので、イベントなど
     なし。
      

     ところで、
     前回の南米移民船について、
     もちろん記憶にはないが
     年代からいって多分、笠戸丸では
     なかったか、と思う。

     笠戸丸が初めて南米に移民を運ん
     だのは明治41年で、そのときは
     160家族781人を乗せて出港
     した。
     (これが第一回南米移民である)

     
     戦後の南米移民の総数は
     のべ24万4500人で、
     うち笠戸丸は昭和27年から48年
     までの21年間に6万2800人を
     運んでいる。

     飛行機なら24時間だが、
     船だと1ヶ月以上、40~50日の
     就航である。
     もちろん運賃が安いので、学生など
     一般客もわずかながら混じっていた
     であろう。

     私の記憶にあるのは船上の家族と
     見送り人とを結ぶ紙テープ、
     泣き声と叫び声の混じるなか、
     やがて船はボーッと汽笛を鳴らして
     ゆっくりと出てゆく。

     そのとき移民家族たちは希望や夢
     より、不安でいっぱいであったろう。
     南米にいって成功した人も少なから
     ずいた。
     だが、ほとんどは苦労して苦労して
     帰るに帰れず、一生を終えたのでは
     なかったかと思われる。

     戦後の高度経済成長にともなって、
     南米移民も廃止された。

     そして、多くの人を送りだし、
     たくさんのドラマを作った桟橋も
     いまや、
     楽しく明るい観光地と化し、
     連休はファミリーやカップルで
     にぎわっていた。


     ※写真は「にっぽん丸」船内の
      プール。
      
     

     
     
     

     
    

憲法記念日

2015-05-04 15:56:29 | 歴史

   
  
    昨日5月3日は憲法記念日で
    あった。
 

    現在の憲法ができてから68年。
    その前の明治憲法発布から
    だって、たかだか126年である。

 
    しかし、それぞれに意味は異なり、
    深いものがある。


    大日本帝国憲法、つまり明治憲法
    が発布されたのは明治22年。
    御一新から22年も待たなければ
    ならなかったのである。

    つまり日本の近代化が謳われても
    国民には何ら関係ない。
    国会もひらかれず、選挙権もなか
    った。
    それでいて租税や兵役の義務ばか
    り課せられていた。

    そういう土壌に自由民権運動が
    おこり、すったもんだの末、やっと
    明治憲法ができたのである。
    これはドイツ憲法をもとにしたもの
    で、当時としては画期的なもので
    あった。

    では現在の憲法はーー
    明治憲法を欽定憲法というのに
    対し、
    現在のは民定憲法という。

    大きくいえば、
    欽定憲法は天皇が国民に与えると
    いう形で制定されたもの。

    これに対し、
    民定憲法は太平洋戦争の後、
    GHQの指導のもとに作られた。
    いわゆる、国民が主導して作った
    という意味で、おのずとちがって
    くる。

    
    いつの世も憲法改正の議論が云々
    されるが、
    この点を踏まえて考えねばならな
    いだろう。


    ※出かける途中でみたコイノボリ
    
    
    
    

    

桜田門外の変

2014-09-13 16:04:41 | 歴史



       出水美術館は帝国劇場の9階にある。
       展示品を観終わって出たら、皇居に
       面した大きなガラス窓から、目の前
       に「桜田門」がみえてびっくりした。

       桜田門といえば、教科書に出ていた
       「桜田門外の変」。
       学生のときは何度読んでもピンと
       こなかった。
       その後、大河ドラマなどでもみたが
       理解度はいまひとつ。

       私が好きなのは、故人となった吉村
       昭の「桜田門外ノ変」である。
       ここでおさらいをしてみよう。

       安政7年(1860)3月3日、
       江戸城桜田門外で水戸藩から脱藩した
       浪士らが彦根藩を襲撃し、大老・井伊
       直弼を暗殺した事件である。

       井伊は将軍継嗣問題と修好通商条約の
       締結という二つの課題に直面していた。
       
       病弱で世子が見込めない第13代将軍・
       家定の後継をめぐって、南紀派と一橋派
       が争っていたのである。

  
       一橋派は21歳の徳川慶喜を推し、
       南紀派は12歳の徳川慶福を推挙し、
       慶福が養子として認められた。

       これは大老(井伊直弼)派を満足させた
       が、朝廷はこれに反対だった。

       さらに日米修好通商条約が朝廷の許可を
       得ないまま結んでしまった井伊直弼に
       対し、水戸藩士たちが遂に刃を抜いた
       というわけである。

       ともあれ、今から150年前の話である。
       幕府の後継者をめぐる問題は、諸藩の
       かけひきも含めて大問題であったのだ。
       

       ※ 井出美術館からみた桜田門

悠久の歴史

2014-08-31 17:28:16 | 歴史


      東京に出るついでに、急に思い立って
      現在、出光美術館でやっている
      「宗像大社国宝展」をみてきた。
      (むしろ、こっちが主だったのだが)

      これは9月に入っている取材と関連する
      もので、是非ともみておきたかったの
      である。

      実は一昨年、やはり取材で福岡を訪れ
      た際、本物の宗像大社にも寄っている。
      そのときは他にメインのテーマがあっ
      たので、さっと目を通した程度で終わ
      ったのだった。

      まさか再度、取材の機会に恵まれよう
      とは思っていなかったので、私自身が
      いちばん驚いているのだ。

      宗像大社には、「海の正倉院」とも
      呼ばれる沖ノ島から出土された国宝、
      およそ8万点が展示されている。
 
      今回の出光の展示はその一部だが、
      日本がまだ奈良時代のころ、
      朝鮮、中国(唐、宋時代)、遠く
      ペルシャとの交流があったことが
      分かる。

      沖ノ島は神の島とも呼ばれ、海の安全
      を願って、そのころ神事がさかんに
      行われていた。
      ちなみに、島は現在でも女人禁制なの
      である。


      ともあれ、子供たちの夏休みも終わり、
      私の8月最後の日もかくして終わった。

      ※ 写真は新羅時代の金製指輪
       黄金色に輝いていました。
      
      
      

憲法67歳

2013-05-03 18:38:54 | 歴史


     今日は憲法記念日。
     毎年今頃になると政局がらみではあるが、
     改正すべきかどうか、議論が高まり、
     うやむやのうちにまた1年が経つということを
     ずっと繰り返してきた。

     そもそも現憲法は第二次大戦でアメリカに負けて、
     GHQ(連合国軍総司令部)が決めたもの。

     それから67年。
     国際情勢が大きく変わったにもかかわらず、
     占領下に決められた憲法を後生大事に護っている
     というのも無理があるのかもしれない。

     改正の核心はやはり9条であるから、そう簡単に
     はいかないのだが。

     もとに戻れば、
     憲法といっても、たかだか100年のちょっとの
     歴史しかないのである。

     チョンマゲを結っていた時代(江戸)から、ザンギリ
     頭の明治維新になって、すぐさま民主的な世のなかに
     なったわけではない。

     幕府崩壊に貢献した薩摩長州の藩閥政治がつづいて
     いて、庶民にはなんらいいことはなかった。

     憲法もなければ国会もない。だいたい選挙権だって、
     直接国税15円以上をおさめる男子にしかなかった
     のだ。

     そこで起こったのが自由民権運動で、すったもんだ
     の末、ようやく明治22年(1889)2月11日に、
     はじめての憲法ができた。

     ただしそれは天皇の定める欽定(きんてい)憲法で、
     おのずと限界があった。

     それから比べると現憲法は20歳以上であれば女性
     でも選挙権はあるわけで、ずっと民主的になっては
     いるのだが、多様化する世界情勢に合うかどうか
     となると、やはり、ここらでもう一度考えなおさな
     ければならないのかもしれない。


     第9条、自衛権の問題等々、国民が納得するまで、
     もっと議論を重ねなければならないのだろう。

     ※ いつも(バスに乗る時に)利用する鎌倉山ロー
      タリーにあるポール。
      「鎌倉山」の裏側に「2月11日建国記念日」と
      記されていて、それを見るたびに大日本帝国憲法
      のことがちらっと頭をかすめる。
      

     

     
    
     


    

極楽寺は遠かった

2013-01-09 14:57:21 | 歴史



      正月もほぼ終わりという先週末、わが家にきた客を
      さそい極楽寺に行った。

      極楽寺とは縁起のいい名前、
      それに正月太りも気になる、
      日頃の運動不足も兼ねて、
      あれこれ理由をつけて出発した。

       
      極楽寺は江ノ電で「極楽寺駅」で降りればすぐなので
      難しくはない。
      ただわが家から江ノ電に乗るにはいったん江の島まで
      出なければならない。わざわざ迂回するのもナニだと
      直線距離で行こうということに。


      前に知人が自転車で極楽寺に行くのよ、といっていた。
      ネットで検索すると、それなりに道はあるようだ。
      だから、私は簡単に行けると踏んでいた。

     
      ところが、入口を間違えたのか、
      坂を昇り降り、石段を昇ったり降りたり……かなりの
      距離を歩いているはずなのに、一向にその道が見つか
      らない。
          

  
      私以外は鎌倉がはじめての人ばかり。
      結局、大仏さまの近くまで行ってしまった。
      その手まえにトンネルがあるのだが、その横の、胸を
      突くような坂道を昇ってようやく山越え成功。
      (すごく高い石段で、目がくらくらした)

      そこからはまた急坂を下って下って……稲村ケ崎の海
      のほうへ。
      やっと着いた!


      極楽寺は1259年に北条時重が開いたお寺である。
      なんでもこの地は死骸が遺棄されたり、行き場のなく
      なった者たちが集まる地獄谷と呼ばれる地であったと
      いう。
      それを供養し、人々の平安を祈ったのであろうか。

    
      極楽寺は鎌倉の名刹とはちがい、山門も境内もどちら
      かというと地味で素朴なたたずまいである。
      おみくじや売店があるわけでもないから、訪問客も
      少なく、ひっそりと落ち着いた古刹であった。

      
     「極楽」とは苦患(くげん)のない、この上なく安楽
      の世界なのだという。

      帰途、膝が笑ってがくがくした。
      この日の教訓は、容易に極楽には行けないということ
      であった。
      
      (写真は素朴な萱葺きの山門)
 
      
      

      

日米開戦70年

2011-12-08 21:05:21 | 歴史



     今日は12月8日。
     旧日本軍によるハワイ真珠湾攻撃から70
     年!!     

     8月15日の終戦記念日はTVのニュース
     でも大々的にとりあげるし、ちょうど高校
     野球の最中で、甲子園では「黙とう」も
     あるから忘れようもない。
    「ああこの日この時に戦争が終わったんだ!」
     と、感慨深いものがあるが、
     12月8日の開戦記念日となると、新聞にも
     小さくしか載らず、論評もあまりないから、
     なんとなくスルーしてしまうところがある。

     ところが今年は違った。
     やはり、3・11があるからであろう。
     今朝の毎日新聞には、
     「破局へ踏み出した日
           日米開戦70年」
     とあった。
          
     新聞のこんな小さな記事も見逃さないし、
     開戦したこの日くらいはもっと戦争に突き
     進ませた当時の状況を検証しなければなら
     ないような気がする。
     12・8がくると毎年、どこか引っ掛かる
     ものがあったのはこのことだったのだ、
     と自分でも確認した思いだ。

     あれからずっと日本は戦争を放棄している
     のだから、もっと誇っていいはずなのに、
     思わぬしっぺ返しを食らってしまった。
     原発事故は次元を別にした戦争のような
     ものだから。

       ∞  ∞  ∞  ∞
 
     写真は戦艦「三笠」と東郷平八郎像。
     この間、横須賀に用があって出かけた際、
     (車でいったので早めに着き)時間調整
     のために寄った三笠公園(白浜海岸)で
     見かけてびっくり。
     こんなところで軍艦に出あうとは思わな
     った。

     「三笠」は明治37年の日露戦争では連合
     艦隊旗艦として戦い、日本海海戦では類を
     みない大勝利をおさめたといわれる。
     東郷平八郎は艦隊の総指揮者。

     ああこのとき、まだ日本は次々と勝利を
     おさめていい気になっていたのです。
     後は云うべくもなく…………。

     
     

高瀬川と坂本龍馬

2011-10-24 21:30:57 | 歴史
   


     高瀬川沿いの木屋町通りには、幕末を駆け
     ぬけた志士たちの隠れ家等があり、暗殺の
     場や居住していたことを示す碑が数多く立
     つ。

     坂本龍馬の海援隊屯所跡というのもあり、
     龍馬がおりょうに逢うために、この高瀬
     川を利用したとも考えられる。

     現地にいってハッと息をのんだのは、
     川沿いに江戸時代そのままの京町屋が
     残っていることであった。

     というより、条例により手を入れてはい
     けないそうです。
     現在も小料理屋として使っていて、
     粋(いき)といえば粋だが、実際に使う
     には不便この上ないのだとか。
 
     しかし見る分には風情があります。
     まるで映画をみているような錯覚におち
     いってしまいました。

     (写真の柵の向こう、舟の停泊所のように
     なっている川沿の京町屋。手前は高瀬舟)