一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

収穫

2009-11-27 10:03:41 | 雑記
    このところ我が家はかなり強い香気に包まれていた。
    カリンを獲って部屋に放っておいたからだ。

    このカリン、他の庭木に押しやられて陽もささず、
    か細い木なのだが、フットボール型の実をたわわに
    実らせる。
    (大人の手にあまるほどのが今年は12個)
    収穫したては固い実なのに、4~5日すると香りが
    より強くなって、スベスベした表面から油脂分が
    吹き出す奇妙なフルーツ(?)。

    カリン:花梨、木瓜(もっか)とも
    
    カリンという洒落た名前と、個性的な香りからして
    最近の園芸品種のような気がしてならないのだが、
    そのたびに、いや待てよ、宮沢賢治の「風の又三郎」
    で、
    
     ♪どうどどどどうど どどうどどどう
      青いくるみも吹きとばせ
      すっぱいカリンも吹きとばせ

    と歌っているではないか、と不思議に思っていた。

    今回分かったこと、
     原産地は中国で、1100年も前に弘法大師が
      苗木を唐から持ち込んだものらしい。
    もちろん昔のは固くて小さいものであったろう。
    それが園芸種として庭木に使われるようになって、
    品種改良がすすみ、現在のようなものになった
    と思われる。

    さて、使いみちだが、
    喉にトラブルをかかえている友人用にカリン酒
    と、残りはジャムにするつもり。
    でも毎日々々出かけていて、そのヒマがないのが
    目下の悩みなのだ。

    

批評家にはなれない

2009-11-17 20:11:34 | 芸術
    「箱根」 岸 宏士 絵

    本来なら「新制作展 10」となるのだが、
    あえてこんなタイトルに。
    10回にわたって続けてきた「新制作展」、
    最もいいたかったのはこれである。
    
    この展覧会でいちばん好きな絵。
    これまで掲載したのはすべて、これを載せる
    ための布石だったような気さえする。

    しかし、しかしである。
    なぜこの絵が好きなのか、うまくいえない。
    理路整然と自分の気持ちを表現できない
    もどかしさ。
    で、親に叱られた小学生みたいに好きな理由を
    あげてみた。

    全体のトーンをなす深緑というか、群青色とい
    った色調が好き。
    (光線のせいか、実物とちょっと色合いが違って
     写ってしまったが)
    視界をさえぎらない、のびやかな絵がいい。
    絵を見ていると自然に引き込まれ、自分がその
    尾根に立っている爽快さがある。
    さらにいうと、
    毎日見ていたい絵、毎日見ても飽きない絵である。

    ……と、言葉の貧しさに辟易していたら、十年以上
    も前に所属していた文学の同人誌時代を思い出した。
    作品を持ち寄って毎月、合評会をひらく。
    (取りあげられるのは先生の眼鏡にかなった一定の
    レベル以上のもの)
    私の苦手とするのは、順番に回ってきて自分の意見
    をいうことだった。
    作品の良し悪し(自分なりのものさしで)は分かる
    のだが、的確に表現できない。
    その同人誌には結局、3年ほどいたが、最後まで
    慣れなかった。    
    つくづく批評家(評論家)にはなれない、と思った。

    だから新聞雑誌などで、見事言いきっている文章
    に出会うと、う~とうなってしまう。
    好き嫌いは私の場合、感覚的、あるいは直観でしか
    なく、いまだに人を納得させることがいえないので
    ある。
    小説だけでなく、絵もしかりなのだ。  
 
    
    
    
 

    

新制作展 9

2009-11-11 21:26:34 | 芸術
  


    「少女像」

    残念ながら、正式な名前と作者名を失念した
    が、同種の少女像は7~8体(像?)あった。
    完全な「女」になる前の、若さと伸びやかな
    肢体をもった少女像は、やはり芸術家にとっ
    ては魅力的なのだろう。
    またそれは、裸体のデッサンと同じように
    避けて通れるものではないのかもしれない。

    こういった少女像をみると、川端康成の小説
    を思い出す。
    川端というと、いまやノーベル文学賞の方が
    有名だが、若い頃は少女小説も多数書いていた。

    「椿」は昭和24年に少女雑誌「ひまわり」に
    発表したものである。
    鈴子と文子の2人姉妹。妹の文子は養女だが、
    その事実を知った後も姉妹であることを続ける。

    「古都」は昭和36~37年にかけて朝日新聞
    に連載された。
    (ちょうど少女期にあった私は何だか訳が分か
    らないまま夢中で読んだ記憶がある)
    離れ離れに暮らす双子の姉妹、千恵子と苗子は
    偶然出会うが、千恵子の結婚が決まると苗子は
    身を引いていく。

    「椿」は若い読者対象で、「古都」は大人向け
    の小説だからでもあるが、こうしてみると、
    この二つの間には「少女」から「女」になって
    いく過程がみられる。
    ここにあるのは「異性の出現」だ。
    はからずも「椿」のなかで文子にこういわせて
    いる。
    (結婚するときは)「みんな捨ててゆく」
    家も家族も、そして少女であった自分もーー

    話をもどすと、美術展でこうした像を前に
    すると、これは「椿」の少女だろうか、
    「古都」の「女」だろうかと、一瞬考えて
    しまうのである。
    

    
    
   

新制作展 8

2009-11-10 07:53:04 | 芸術


    「子供の時間」(2枚組) 松木義三 絵

    体育館でよく見る風景。
    というよりか、子供たちが次々と倒立して傍らには
    雑談に興じる子たち(上の絵)の光景は体育館に出
    かけなくても容易に想像できる。
    体育館の(子供たちの声で騒がしい)喧噪や、
    ぼわ~んと反響して落ち着かない雰囲気まで伝わっ
    てきそうな絵である。
 
    こんな絵にならない光景を描く作者にも驚いたが、
    体育だけは「3」(自慢ではないが5段階で)
    以上をとったことのない学校時代を思いだして
    しまった。
    考えれば生涯最初のコンプレックス(というもの)
    を抱いたのは「体育」の時間ではなかったか。

    今思えば、徒競争も跳び箱も走る前に考えてしまう。
    それがいけなかった。
    (鉄棒や組み体操などはむしろ好きだったのだが)
    中学高校は女の子特有の身体つきになったことを
    理由にし、大学に入ってようやく解放されると思
    ったら、単位取得に体育があったことにはもう
    驚いた!!

    それも何とかくぐり抜け、大人になって気がつい
    たのは体を動かすことの爽快さである。
    すでに遅し!
    いまや倒立も跳び箱もやるチャンスもなく(気も
    ないが)、子供たちの見事なバランス感覚を羨ま
    しく見ているだけなのである。

    




    

新制作展 7

2009-11-05 18:05:06 | 芸術


    「二人でなら」 椎名良一 作

    思わず笑ってしまう像。
    作者は「二人でなら」の次に何をいいたいのだろう。
    
    「~生きられる」
    「~出来ないことも出来る」
    「~寂しくない」
    「~お茶がおいしい」

    口から出まかせにいっていたら、「二人でなら」に
    続くのは肯定の語であることに気づいた。
    これが「二人なら」となると、
    「喧嘩する」 
    「気まずくなる」
    「おもしろくない」
    と、どちらかというとネガティブな語がくるから
    不思議だ。

    むろん作者はポジティブであろうとネガティブで
    あろうと、後は観る者の想像にまかせているのだろう。
    でも、このユーモラスな像からは幸せな光景しか
    浮かばない。
    そして、かくいう私の肩の力もふっと抜けるのである。