ついでといっては何だが、戒名の話を。
わずか数名集まった一葉の通夜の席で、
斎藤緑雨(りょくう)は
霙(みぞれ)降る
田町に太鼓聞く夜かな
(原文では「多町」となっている)
とうたって興をそえた。
田町の角にフウテン(精神)病院があり、
火事になって患者が焼け死んだのを機に
夜警がはじまったのである。
斎藤緑雨は明治の文学者で評論家だが、
ほとんど知る人はいない。
一葉晩年、半年ばかり前に出入りし、
「この男、かたきに取りても面白い、
味方につければ猶更にをかし」
といわせた男である。
私説だが、緑雨がいなければ一葉の晩年
は非常にさびしかったろう。
彼は毒舌なので皆に嫌われていた。
だが一葉は、この変わり者の緑雨に自分
と似たものを感じ、
「千年の馴染み」のような親しみをもった。
そう、一葉生涯の棹尾(とうび)に華を
添えた男なのだ。
(晩年の一葉の部屋には馬場孤蝶、川上
眉山、戸川秋骨、藤村といった「文学界」
の若きホープが入り浸っていたにも
かかわらず)
一葉の死後、妹の邦子は「焼き捨てる」
ようにといわれていた日記を緑雨に預けた。
邦子は骨身をけずって原稿用紙に向かって
いた姉の姿がちらついて焼き捨てるわけに
はいかなかったのだろう。
一方の緑雨は日記を読んで唖然とした。
そこには半井桃水への思慕がこれでもか、
というほど書き綴ってあったからだ。
しかし緑雨もその2年後、やはり肺結核
で死去。享年38歳。
緑雨のエライところは一葉の日記をその
ままにせず、死ぬ直前に当時地方の中学
教師をしていた孤蝶を呼び、託したことだ。
一葉日記が世に出たのは一葉死して15年
後。
孤蝶が奔走し、実際に千枚にもなろうとい
う日記を整理したのは幸田露伴とその弟子
である。
話はそれたが、露伴は斎藤緑雨の戒名を
つけた。
「春暁院 緑雨酔客」
(しゅんぎょういん、りょくうすいきゃく)
これでいいだろうと、「居士」も何もない
ものだった。
現在 文京区向山にあるお墓には、
(曹洞宗の大円寺)
「春暁院 緑雨酔客居士」
となぜか、居士がついている。
※ これについては拙著
「あなたのようないい女」
「一葉の歯ぎしり 晶子のおねしょ」
に詳しく触れている。