一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

戒名

2013-09-26 06:20:58 | 雑記


     ついでといっては何だが、戒名の話を。

     わずか数名集まった一葉の通夜の席で、
     斎藤緑雨(りょくう)は

 
       霙(みぞれ)降る 
         田町に太鼓聞く夜かな
      (原文では「多町」となっている)

     とうたって興をそえた。
     田町の角にフウテン(精神)病院があり、
     火事になって患者が焼け死んだのを機に
     夜警がはじまったのである。
     

     斎藤緑雨は明治の文学者で評論家だが、
     ほとんど知る人はいない。
     

     一葉晩年、半年ばかり前に出入りし、
     「この男、かたきに取りても面白い、
      味方につければ猶更にをかし」
     といわせた男である。

     私説だが、緑雨がいなければ一葉の晩年
     は非常にさびしかったろう。
     彼は毒舌なので皆に嫌われていた。

     だが一葉は、この変わり者の緑雨に自分
     と似たものを感じ、
     「千年の馴染み」のような親しみをもった。
     そう、一葉生涯の棹尾(とうび)に華を
     添えた男なのだ。

     (晩年の一葉の部屋には馬場孤蝶、川上
     眉山、戸川秋骨、藤村といった「文学界」
     の若きホープが入り浸っていたにも
     かかわらず)

     一葉の死後、妹の邦子は「焼き捨てる」
     ようにといわれていた日記を緑雨に預けた。
     邦子は骨身をけずって原稿用紙に向かって
     いた姉の姿がちらついて焼き捨てるわけに
     はいかなかったのだろう。

     一方の緑雨は日記を読んで唖然とした。
     そこには半井桃水への思慕がこれでもか、
     というほど書き綴ってあったからだ。

     しかし緑雨もその2年後、やはり肺結核
     で死去。享年38歳。

     緑雨のエライところは一葉の日記をその
     ままにせず、死ぬ直前に当時地方の中学
     教師をしていた孤蝶を呼び、託したことだ。

     一葉日記が世に出たのは一葉死して15年
     後。
     孤蝶が奔走し、実際に千枚にもなろうとい
     う日記を整理したのは幸田露伴とその弟子
     である。

     話はそれたが、露伴は斎藤緑雨の戒名を
     つけた。
     「春暁院 緑雨酔客」
     (しゅんぎょういん、りょくうすいきゃく)
     
     これでいいだろうと、「居士」も何もない
     ものだった。

     現在 文京区向山にあるお墓には、
     (曹洞宗の大円寺)
     「春暁院 緑雨酔客居士」
     となぜか、居士がついている。

     ※ これについては拙著
       「あなたのようないい女」
       「一葉の歯ぎしり 晶子のおねしょ」
       に詳しく触れている。

     

またも葬式のはなし

2013-09-24 16:58:48 | 雑記



     お彼岸なので、またも葬式の話を。

     そのものずばり「葬式無用 戒名不用」と
     遺言して亡くなったのは、かの白洲正子さん
     の夫君の白洲次郎氏である。

     遺言書にはそれしか書かれていなかったと
     いう。
     自分の死後、知らないところで派手な葬式を
     されたり、勝手な名前をつけられるのが
     よほどイヤだったのだろう。

     そういえば樋口一葉が当時住んでいた
     本郷福山丸山町の借家で亡くなったの
     は明治29年11月23日であった。
     享年24歳。

     すでに『たけくらべ』や『にごりえ』で
     有名になっていたが、経済的に潤ってい
     るとはいえない状態であった。

     長いこと借金生活をしていたせいか、
     世のなかすべてのことに疑心暗鬼にも
     なっていた。

     
     そのためか、葬儀に参列したのは、
     たった十数名というさびしさ。
     貧乏人でもこれほど質素な葬儀はないだろ
     うというものだった。


     一葉の小説を最初に高く評価したのは森
     鷗外である。
     当時、陸軍軍医であった鷗外は一葉の死を
     いたみ、弔意をあらわして、葬儀の際に
     馬で棺に従いたいと申しでたが、
     一葉の母と妹が断わっている。 

 
     
     鷗外にしても、一葉の葬式がこれほど
     さびしいものだとは想像できなかったと
     思われる。

     生涯、お金に縁のない一葉だったが、
     現在は5千円札の顔になっている。

    
     私は5千円札を親しみをこめて「一葉さん」
     と呼んでいるのだが、
     果たしてご当人の心境はどんなものだろう。
     あの世で喜んでいるか、苦笑いしているか
     ……?

     

彼岸と此岸

2013-09-21 20:49:10 | 行事


      昨日の中秋の名月は思わず手を合わ
      せたくなるほどの神々しさであった。
      (今日の月も見事である)

      ところで、20日は彼岸の入り。
      
      何かとバチあたりな私だが、
      日頃、困ったことがあると「神サマ仏サマ」
      と手を合わせるくせに、お彼岸だからと
      いってお墓参りにいくわけではない。
      (墓参りは気が向いたときにいくことに
       している)

      そもそも「彼岸」とは……?

      この世は「此岸(しがん)」で煩悩と迷い
      のある世界。
      それをある修行をすることによって、
      (「六波羅密(ろくはらみつ)という修行)
      悟りの世界にいくことができる。
      つまり「彼岸(ひがん)」の境地に達する
      という考え方らしい。

      実際には、ご承知のように、
      太陽が真東から昇って真西に沈み、
      昼と夜の長さが同じくなる春分の日と
      秋分の日を挟んで、
      前後3日間をお彼岸と呼んでいる。
  
      この期間に仏様の供養をすることで極楽浄
      土にいくことができると考えられてきたの
      だとか。

      しかし、地方ならいざ知らず、核家族の
      多い都会では仏事も簡素化されて、
      葬式でも直葬や家族葬といった「ジミ葬」
      が流行っているそうです。

      直葬とは通夜とか告別式をせずに直接
      火葬場にゆき、ごく身近な親族のみで
      おくる形式。
      (一人暮らしの高齢者で直葬を希望する
       人が多いそうです)

      家族葬は文字通り、子や孫をふくめた
      家族のみでおくる葬式。
      遠方の親戚や友人を呼ぶこともなく、
      日頃お付き合いのないご近所に迷惑を
      かけることもない。
      実際に私の聞くところでも年々、家族葬
      をやるケースが増えている。

      かくいう私も「ジミ葬」に大賛成。
      できれば葬式は悲しいものではなく、
      楽しいものであって欲しいと、ひそかに
      願っているのです。

      ※ 実りはじめた稲穂とヒガンバナ。
        今日、通りがかりに見た。

中秋の名月と物語

2013-09-20 05:43:38 | 読書


     昨夜は満月と重なった中秋の名月。

     中秋の名月(陰暦の8月15日の夜)が
     必ずしも満月になるとは限らず、2011
     年、2012年、そして今年がはからずも
     3年連続で満月と重なったのだという。

     この次は2023年というからオリンピック
     の翌年で、まさに8年後。
     果たして8年後は……という思いの方が強い。

     昨夜も窓をあけて幾度となく月をながめれば、
      名月や ああ名月や 名月や

     という誰かの句そのもので、しばしの余韻
     にひたる余裕もないのである。

     そういえば幼い頃にみた月はすごかった。
     まさに童謡にある「盆のような大きな月」
     で、昇りたての「真っ赤に燃えるような月」
     の思いは今でも忘れられない。

     それは親戚の家からの帰り道だったり、
     母親を迎えに行く時だったりするから、
     子どもながらにちょっと嬉しさや、
     寂しい思いと重なっていたのだろう。     
 

     まったく自然というものは物いわずして
     生きることの大変さや悦び、不可思議さ、
     驚異をも感じさせる。

 
     それが「雨月物語」や「竹取り物語」を
     生みだしたのだのかもしれない。

    

     上田集成の「雨月物語」の怪異さは解らな
     かったが、私が最初に「竹取り物語」を読
     んだ(?)のは近所の友達の漫画本だった。


     しかし長じて読みなおしてみると、子ども
     の頃に思っていたのとはまったく別物で
     あったことも面白い。

     『源氏物語』の<絵合わせ>には、
     「竹取り物語」を、
      <物語のいでき初めの祖(おや)>
     として、平安時代初期のかなで書かれた
     我が国初の文学作品としている。

     つまり、貴族社会の俗悪性と、ニンゲン的
     な愛情を巧みに描き出した名作なのだ。
     「竹から生まれたお姫さま」という単純
     な物語ではなかったことに、瞠目したの
     は私がずいぶん歳をとってからだった。


     ※ 知人が送ってくれた昨夜の中秋の名月。
      こんな写真を撮るのはよほどの技量が要
      るのでしょうね。
     

    
     

裏五輪

2013-09-15 15:12:43 | 雑記




  
      私は正当派五輪(こんな言葉があるか?)
     の華やかさより、背景のいわゆる
     ごちゃごちゃした裏五輪といったものに
     興味をそそられる。

     1964年(昭和39)の東京オリンピック
     の開会式は10月10日。
     (長い間、体育の日として祝日だった)

     それに合わせて10月1日には初の新幹線
     (東海道)が開通した。
     オリンピック景気のため、デパートやホテル
     拡張が相次ぎ、開会式ぎりぎりまであちこち
     でビルや道路工事が続けられていた。

     当時の総理・池田勇人が「10年間で所得倍増」
     打ち出したのは61年(昭和35)で、
     イケイケどんどんの時代であった。

     地方から若者や壮年(いわゆる出稼ぎ)がこぞ
     って出てきて、(私もその1人だが)
     三ちゃん(じい、ばあ、かあちゃん)農業と
     揶揄されるように、
     日本の構造ががらっと変わった。

     工場建設ラッシュが続き生産も増えて、この頃
     から「スモッグ」問題が出はじめる。
     
     もっと裏を返せば、オリンピックを機に
     東京は水洗トイレになった。

     東京に出てきて1年目、2年目の下宿はくみ
     取り式トイレだった。
     3回目のアパートはもう水洗だったような気が
     する。(4年間で都合4回引っ越した)

     これには面白い話があって、天皇陛下が視察
     中、
     戸外の肥溜めにはムシロがかぶせてあったのだ
     が、ちょっとした拍子に落ちそうになったため、
     あわててお付きの者が身を挺して、自ら落っこ
     ちたというのだ。

     これから外人が日本に来るから英会話を習おう
     とか、実際にそれを当てこんで英会話学校を開
     いてしまったという人もいる。

     その頃だったか、私は知り合いに連れていって
     もらったレストランで、サラダに大振りのセロ
     リが付いていたのには閉口した。
     (田舎者の私は初めてのセロリ体験)

     このセロリだって、そもそも外人目当てに作り
     はじめたのだという。
     農民作家の薄井清さんの小説には、初めての
     セロリの出荷に(農家の)青年が鼻をつまんで
     リヤカーに乗せていくシーンがあって笑わせら
     れる。
     (ちなみに私は今ではセロリ大好きニンゲンで
      好んで買う)

     ……とまあ、当時の世相を書くだけでも原稿
     用紙3~40枚にはなりそう。
     つまり、私は五輪だけでなくあらゆることに
     正面から堂々と論じるのではなく、
     背景のあまり益にならないことを喋るのが
     好きなのである。


     ※ 腰越の路地裏からみる海
       猫になったような目線で見るのが好き
     

     
    
    

7年後

2013-09-13 10:51:09 | 雑記


     2020年、2度目の東京五輪が決定した。

     その瞬間、先の東京オリンピックのことが蘇っ
     たのは、おそらく私だけではないだろう。

     1964年の東京五輪のとき、私は20歳。
     オープニングが奇跡的に晴れた(前日はどしゃ
     降りだった)ことや、「東洋の魔女」と呼ばれ
     る女子バレーボールや、「裸足のアベベ」のマ
     ラソン中継に日本国中が湧きあがったことを覚
     えている。

     しかし、大学も3学年で、足元の東京にいた
     にも関わらず、個人的には何ら関係はなく、周囲
     が高揚している中で、一種の疎外感すら感じて
     いた。
     大学は2週間休講になった。
     (大学の体育館がたしか何かの競技場となって
      いた)

     
     開会式のパレードは下宿の近くの電気店のTVで
      観た。(下宿にはTVがなかった)
     東京に出てきて2年目の私はアルバイトもしてい
     なかったから、所在なく郷里に帰った。

     だから実際には上のような競技も、家族と一緒に
     TVで観た。
     世は高度経済成長まっただ中で、その5年前の
     皇太子と正田美智子さん(今上天皇皇后陛下)
     ご成婚のときには、まだ一部しか入っていなかっ
     たTVが、このオリンピックを観たいがために、
     地方でも一斉に入ったのだった。

     すべてが右肩上がりで、みなそれなりに高揚して
     いた。
     こういうときだからオリンピックも意味があった
     ろう。

     しかしながら今回はどうか。五輪招致といわれて
     も他にやることがあるだろう、という思いの方が
     強かった。

     だが、安倍総理のプレゼンテーションを聞いて、
     これで「復興支援」に拍車がかかるなら歓迎
     したいと思うようになった。

     「(福島第一原発の)汚染水は制御下にある」や
     「影響は港湾内で完全にブロック」が取りあえず
     大見栄を切ったのであっても、世界に向けて公言
     した以上、あれはポーズであったとはいえないだ
     ろうから。

     もちろん、五輪が”魔法の杖”であるとは誰も思
     っていない。
     景気浮揚は中央だけであって、地方にはほとん
     ど波及しないと思われる。
     これで社会のさまざまな問題が帳消しになるわ
     けではないのだ。

     さて、7年後の2020年、
     自分はどうなっているのだろう。
     3年後なら予想はできる。
     5年後となると、もうあやしい。

     7年後、あなたはどこで何をしていますか。

     ※ 写真は鎌倉・海蔵寺の立派な鐘


     
     
     
  

新刊ご紹介

2013-09-07 17:18:42 | 読書


     『清水紫琴 幻の女流作家がいた』
                 内田 聖子 著       
             (日本文学館 \1000+税)

           

     --歴史に埋もれた明治の女流作家ーー

      明治新政府に遅れること10年、女の地位
      の向上と解放のために闘った女性がいた。
      それは男たちの遅れてやってきた「女の明
      治維新」ともいうべきものであった。
      しかし女であるがゆえに、彼女たちの人生
      は男社会に翻弄される。
      「女学雑誌」記者として小説も書きはじめ
      た清水紫琴であったが、恋敵からのはげし
      い攻撃もうけた。
      やがて筆を断つ紫琴に何があったか?
                    「帯文」より


    発売から1週間、いくつかの感想が寄せられました。
    ほとんどが「紫琴なんて知らなかったわ」というも   
    のでした。

    そうなんです。
    紫琴は後に古在由直(東大初の公選による総長)の
    妻となってからも、何一つ語ることなく、
    沈黙のうちに生涯を送ったのです。
    
    かつての恋敵(福田英子)からの筆による暴力
    (誹謗中傷)にもいっさい弁明せず、沈黙を押し
    通しました。
    
    だからといって彼女の生涯が色のない平坦なもの
    だったかというとそうではなく、実に波瀾をふく
    んだ密度の濃い人生でした。

    私は10年かかって、ようやく上梓することができ
    ました。途中で何度となく筆をなげながら。
    それでもあきらめきれなかったのは、紫琴の無念さ
    と勁(つよ)さを描きたかったからにほかありません。

    つたない本ではありますが、ご一読いただき
    ご感想やご忠言などいただければ幸いです。 
                    謹んでご挨拶まで   

未曾有の

2013-09-06 04:31:30 | 自然


     昨日の関東地方は朝から雷が鳴りひびき、時として
     大雨、かと思うとさっとやんで、油断して車で出か
     けようものならワイパーがきかないほどのどしゃぶり
     となるなど、1日じゅう振り回された。

     そのため各地でダイヤがみだれ、通勤通学にかなり
     影響したようだ。
     一昨日は朝方、かなり大きな地震があったし、
     この天変地異は何かの前触れだろうか。

     この夏、マスコミで幾度となく聞かれた言葉、
     「これまで経験したことのない」
     新聞にもあったし、TVの天気予報でも何回もいって
     いた。

     この取りようによっては安易な表現、我々がふつう
     日常会話でしゃべっていることを敢えて使ったこと
     が、むしろ意表を突いた。

     これまでなら何といったろう。おそらく、
     「未曾有の」とかなんとか。
     
     かつて私が同人誌に入っていた頃、
     師の高井有一氏からこういわれたものだ。
     「マスコミで使う表現を安易に使わないように」

     例えば、「未曾有の」もそうだが、
     「(通夜が)しめやかに」
     「勇壮なお祭り」etc.

     人は無意識に(ついうっかりと)使ってしまうもの
     だが、それだけで小説が陳腐になるというのだ。
     私もそれ以来、なるべく自分の身体から出る思いを
     つたない言葉でも表現しようと心している。

     ……のつもりだが、なかなか出来るものではない。
     かくて、現在にいたっても格闘の日々なのです。

    ※ 蝉が生きいそぐ中、近所のお庭の萩は満開。
     
     
     

  
     





    
     

秋きぬと

2013-09-03 15:23:37 | 自然


     先日、出かけた帰りのこと。
     バス停から近道をしようと藪の小路をくぐり抜け
     て原っぱのようなところに出たら、赤トンボがい
     っせいに飛び立った。

     
     手で追いはらうほどのトンボが舞っていて、それは
     夢かと思うほどの数であった。
     夢でない証拠に、あまり違わない時刻にそこを通り
     かかった近所の人もいっていた。

     まさに
     「秋きぬと目にはさやかにみえねども」
                  (新古今和歌集)
     である。

     毎朝、期待して起きるのだが、暑い。
     今日なんか、盛夏に負けないような入道雲がもくもく
     と(隆々と)湧きたっていた。

     40℃を超える猛暑、ゲリラ豪雨があるかと思うと
     所によっては少雨の地方もあり、昨日は竜巻だ。
     異常気象もいいところで、地球全体が狂ってしまった
     のだろうか。

     それでも夕刻になると秋の虫がすだき、トンボも舞う。
     このあと、残暑がいつまで続くか。
     本格的な秋がきたとしても、惜しむ間もなく去っていく。

     気候によって左右されるのが女性のファッション。
     働く女性の間では、
     「サンダルからブーツ」
     というのだそうだ。
     (無粋だが補足すれば、
      昨日までサンダルを履いていたのに明日からブーツ
      という意味)

     やはり、四季から二季の傾向はここにも見られる。


    ※ 夕刻の原っぱ。腕がわるくトンボの姿は撮れない。