一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

吉本隆明追悼号

2012-05-27 19:08:51 | 読書


      吉本隆明が3月に他界して2カ月半。その人と仕事
      をしのぶ動きが絶えないようだ。
      そんななか、沖縄在住の比嘉加津夫が自らの雑誌
      「Myaku」で追悼号を出し、日経新聞の「文化欄」
      でも取りあげられた。(2012・5・12)

      吉本のことをほとんど知らない私も、谷川雁のつな  
      がりで短文を書かせていただいたのだが、
      他にもたくさんの方が彼をしのぶ辞を述べていて、
      あらためて吉本隆明とは何だったろうと思う。

      比嘉のことばを借りれば、
      「流れに沿うのではなく、流れに疑問をもち、
       ひとりで立っていくという姿勢」
      なのだという。
      そして氏は吉本にも死がやってきたことに対して、
      「だから、さらに輝きを増していくのだ」といって
      次の詩をあげている。

       ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる
       ぼくの肉体はほとんど過酷に耐えられる
       ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる
       もたれあうことをきらった反抗がたふれる
       ぼくがたふれたら同胞はぼくの屍体を
       湿った忍従の穴へ埋めるにきまっている
       ぼくがたふれたら収奪者は勢いをもりかえす
       だから ちいさなやさしい群よ
       みんなひとつひとつの貌よ
       さやうなら
               (「ちいさな群への挨拶」)

      吉本隆明入門編の私にも、この詩は分かりやすく、
      さいごの3行がすーっと入ってくる。
       


      

ブックカバー派? しおり派?にもどって

2012-05-24 21:46:13 | 雑記



     金環日食をはさんでいる間にそら豆は食べてしまった
     ので、いまが旬で大好きなグリンピースご飯に変わり
     ました。

     さて、本題は「栞(しおり)」のことなのです。
     何を見ても何を食べてもあまり感動しない昨今、
     これを恰好つけていうと既視感(きしかん)つまり仏語
     のデジャヴというのでしょうか、ただ齢を重ねたせいな
     のですけど。
     
     一ヶ月ほど前、新聞の投稿で目にとまるものがあった。
     題して「図書館の本に挟まれたしおり」

     概略をはなすと、
     図書館で借りた恋愛小説にしおりが挟んであった。和紙に
     桜の水彩画が描かれたもの。
     手作りらしく、最初は前の人の忘れ物だと思った。
     すると裏に達筆で「忘れ物ではありません」と書いてある。

     絵や字の形からして年配の人のようだ。
     この本には華やかな桃色が似合っていた。

     しばらくして推理小説を借りると、またもやしおりが挟ん
     であって、こんどは真っ赤な薔薇の花だった。
     投稿者は、どうやらしおりの作者が小説のジャンルに合っ
     た花や色を選んでいるらしいことに気づく。

     私がはっと思ったのは、投稿者が33歳の会社員という
     ことだった。
     若いサラリーマンが、どこの誰だか分からぬ老女(おそ
     らく)心惹かれるその初々しさにうるっとしたのである。

     そこにはブックカバーは「要らない」と怒ったように
     断わるだの、しおりは邪道だのというひねくれた感覚
     では生まれない柔軟さと爽やかさがあるのだった。
     
     嗚呼(ああ)、私は充分に歳をとって、それ以上にひね
    くれてしまったようです。

そら豆より金環日食

2012-05-21 13:47:01 | 雑記



     そら豆は置いといて、やはりここは金環日食ですよね。
     
     夜明け前(3時ごろ)大雨で目がさめ、あらこりゃダメ
     だと思いました。
     起きてゴミを出す時刻には、いったんやんだ雨が再び
     ぱらぱらと。
     絶望的です。すっかりあきらめていつも通り洗濯機を
     まわしたり、新聞をみたり(TV番組をチェック)…
     ……
     
     さあ、朝ごはん。
     私、いくら早くても朝食は大丈夫なのです。
     (むしろ食べないと動けない)
     トーストを焼いて、牛乳とコーヒー。
     ああ、幸せ(ちっぽけな!)
     1日3食のうちで朝がいちばん好きかも。

     (すみません、くっだらないレポートして)

     あらら、ちょっと明るくなってきた。
     ふと見るとレースのカーテンごしに明るく見えるじゃ
     ないですか。
     時計をみるとちょうど7:30。

     △△グラスなんて用意していないから雲がいい具合に
     かかって、裸眼でも平気。
     写真のようなものが見えました。
     (ただしこれは友人が撮って送ってくれたもの)

     173年ぶりの金環日食。次は300年後とか。
     外出する際、思わず近所のおば(あ)さん同士、
     「見ました?」と挨拶しちゃいました。
      
     後でニュースをみて、やっと皆既日食と金環日食の
     区別がつきました。
     
 

ブックカバー派? しおり派?

2012-05-18 12:37:14 | 雑記


     どうでもいいことのようだが、あなたはブックカバー派?
     栞はどうしてますか。

     私は本にカバーをつけない派。書店のレジで「カバーを
     つけますか」と聞かれると、即刻「いりません」と怒った
     ようにいう。
     本に汚れがついても、それだけ読んだ証拠。本だけで勝負
     (何の勝負?)したい方なのです。電車で隣の人に何の本
     か気づかれるのがいやな時は、本そのものについている
     カバーを裏返して使うこともある。

     せっかくその本として完成したのに、わざわざ無個性の
     色つきの洋服を着せるような気がして、邪道のように
     思えるのです。
     (これは私の場合で、付ける人のことを非難するわけでは
     ありません)
     それに本だなに並べる際、一目みて何の本だか分からない
     といやじゃないですか。

     栞に関していえば、これまた無粋で、ざら紙のようなもの
     を2cm幅くらいに切って使っている。
     きれいな絵や写真のついたものや、リボン付きのもの、はた
     またどこか観光地のみやげらしき物など、もってのほか。
     主役の本が負けてしまいそうでいやなのだ。

     ここで今日はタイムアップとなってしまいました。
     これからが本番なのですが、次回に……。

     (写真は近所の家庭菜園でみたそらまめ。
      そらまめの実は空ーー天を向いてなる)


Roman Holiday

2012-05-10 18:21:51 | 芸術


     いわずと知れた「ローマの休日」である。
     連休の1日、Holidayらしきものと思って、鎌倉の街に
     出たついでにふらっと寄ってみたのだった。
     雪の下にある川喜多かしこ夫妻の記念館にはミニ映画館
     があり、内外の名画をやっている。
     (有名な映画はすぐいっぱいになる)

     これは20代のときに一度みていて、正直いまさら、と
     いう気がしないでもなかった。
     チケットを買った時点でもまだ迷っていて、何故なのか
     自分の気持ちに問うてみると、若き日にもどって一瞬で  
     もあの青臭い日々がよみがえるかと思うと、いまさら
     ご免!という感じなのだった。

     ところが、やはりみてみないと分からないものである。
     20代にみたときは、ある小国の王女とアメリカの新聞
     記者とのあり得ない恋物語にばかり視点がいって、
     切なさがつよく印象に残っていた。
  
     そして40年以上経った今、まぎれもなくコメディー映画
     であった。それも上質の。
     アン王女の一晩のアバンチュールもコメディーだし、国か
     らの使いから逃げまわるところなんか、それ以外の何もの
     でもない。
     それに最後の王女記者会見も……。
     (互いに素性が分かった後でも、周囲に気づかれないエス
     プリの効いた会話)

     ようやく追跡からのがれて記者の安アパートに帰った2人
     は、ふと惹かれあって…………。
     そのときのセリフがふるっている。

     王女「料理がしたくなったわ」
     記者「(このアパートには)キッチンないよ」
     王女「不便でしょ」
     記者「ままならないのが人生さ」
       …… ……
     記者「引っ越そうか。キッチンのあるところへ」
     王女「そうね」

     引っ越すなんてあり得ないし、アバンチュールもそろそろ
     終わりに近づいていることを知っている2人の会話である。
     
     この場面でこのセリフ。
     「ままならないのが人生さ」
     このセリフのツボにはまるあたり、やはりこちらの年齢の
     せいかも知れないけれど。

     
      

君も雛罌栗(こくりこ)、われも……

2012-05-04 21:54:30 | 雑記

 

     
        5日は端午の節句。新聞を読んで気づいたのだ
        が、与謝野晶子がパリにいって100年になる。
       
       1912年(大正元)5月5日、新橋を列車で発ち
       福井県の敦賀から海路、ウラジオストクに渡った。
       そこからシベリア鉄道で、途中、モスクワに立ち寄っ
       て、パリの北駅に着いたのが19日午後4時。
       2週間の長旅だった。
       
       半年前に渡仏していた夫鉄幹を追っての旅である。
       生活の苦しさと忙しさからもめごとの絶えない2人
       だったが、いざ夫がいなくなると、淋しくてたま
       らないのであった。
       晶子はようやく鉄幹なしでは歌がつくれないことを
       実感したのである。

       迎えに出た夫と恋人同士のように抱き合った。
       フラランスの街は明るかった。
       そして、こう詠んだ。

        ああ皐月(さつき)
         仏蘭西(ふらんす)の野は火の色す
          君も雛罌栗(こくりこ)われも雛罌栗

       だが、晶子は間もなく体調をくずし、日本において
       きた7人の子どもたち恋しさに狂ったようになる。
       晶子は8人目の子を妊娠していたのだった。

       晶子は一足先に帰国し、渡欧のために前借した朝
       日新聞に連載小説を書きはじめる。
       (『明るみへ』)
       その何ヵ月も後、鉄幹は晶子の働いたお金でのう
       のうのうと優雅に帰国する。

       しかし、パリ留学を果たしたはずの鉄幹は仕事が
       なく、またしても晶子の力を得て「明星」復刊を
       するが失敗、すでに時代は浪漫派からリアリズム
       文学の世界へと移行していた。

       それからも晶子の奮闘はつづくのだが、
       雛罌栗とはひなげし、虞美人草のこと。
       だが、
         君もひなげし、われもひなげし
       ではサマにならない。