一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

女が口紅を差すとき

2013-06-30 07:55:01 | 雑記


     この間、所用で東京に出かけ、地下鉄に乗ったは
     いいが、どうやら出口を間違えたらしく、
     国会図書館前に出てしまった。
     一瞬、何がなんだか分からなくなり、(私はこん
     な失敗が多くて時間の無駄使いばかりする)
     あることを思い出した。

     それは武田百合子さんの「行くと怖い」という話。
   
     国会図書館では、入る順番を待つときの並び方、
     貸出申請書の書きいれ方、本の受け渡し、コピーの
     時間、申し込み等々、そのいちいちを注意され、
     聞き直すと面倒くさそうな顔をされる。
     こんな経験をされた人は多いであろう。
     (私も共感!)

     ある日、百合子さんが目撃した話だが、概略を引用
     することにしよう。

     「75~6の(初めて国会図書館に来たらしい)
     老人が、ああでもない、こうでもないと何度もやり
     直しをさせられている。
     その男性はついに堪忍袋の緒が切れてしまった
     ようで、体を震わせ、口角に泡をためて、叫んだ。
     『もう我慢できない、こういう権力をカサにきた放
      漫無礼な態度を許しておいちゃいけないんだ!!』」

     その通り。
     同調した百合子さんも(館員に)こう怒鳴りたかった。
     『そうだ。やたらと威張るな。口をあけて、はっきり
     ものをいえ。ものを教えろ』

     しかし睡眠不足の顔に口紅も差さずに出かけてきた
     ことに気づいた百合子さんは、ふと弱気になり、うつ
     むいてしまう。
     そして、こう結んでいる。

     「口紅を差すと元気が出るのだ。口論になりそうな場所
     へ出かけなくてくてはならないときは勿論、交番や警察
     署、税務署にいくときも、字を書くときも、口紅差して
     からだ」
                     『日々雑記』より

          
     これを読んたとき、私も多いに笑い、そうだ、そうだと
     うなづいていました。
     念のため補足するが、現在の国会図書館は改善され
     て、非常に親切になっています。            

     



     
     

     
     

『吉本隆明と「二つの敗戦」』②                    とよだ もとゆき著

2013-06-25 05:12:14 | 読書


      本書の著者・豊田さんは学生時代に吉本隆明
      に出会い、その著書を読み、社会人になって
      「小さな職場での争議」の過程でも、絶えず
      彼の発言に注目して感化されてきたという。
      それゆえに、マルチな思想家の吉本隆明に
      豊田さんがそう迫るのか、興味があった。

      表題の「二つの敗戦」の一つは、いうまでも
      なく1945年8月15日である。そのとき
      吉本は20歳であった。
      もう一つは終戦から66年目に起こった
      2011年の3・11で、
      吉本死去のちょうど1年前になる。

      問題はその後の吉本の言動にあろう。
      前者の「近代戦における敗北」と、その後に
      つづく<反核>運動は容易に理解できるが、
      後者の3・11と、<「反原発」批判>発言
      はどうか。相手が吉本隆明だけに看過できな
      いというのが大方の意見のようである。

      「原発は実用化するまで100年の月日を
       要している。それを一度の事故でこれを
       放棄しようというのは、安易に過ぎる。
       『人間の進歩性、学問の進歩の否定』に
       なる」

      こうした発言は、私の周囲にいる、かつての
      吉本ファンの間でも物議をかもしていた。
      まあ、様子を見よう。
      そうしている間に、吉本さんはさっさと逝って
      しまったのだ。
      我々、後輩に大きな課題を残して。

      だが、この是非については紙数の関係で
      本書に譲らなければならない。
      吉本が87歳で死ぬまで、独自の思考を重ね、
      発言を怠らなかったことは事実である。

      その一方で、ふと「恥ずかしそうな小さな声
      でつぶやいてもいいでしょう」ともらした。
      含羞の人でもあるのだ。

      これは、吉本亡き後に生きる人たちにとって、
      必読の書であることはまちがいない。

         『吉本隆明と「二つの敗戦」』
            近代の敗北と超克
                とよだ もとゆき著
              (脈発行所 ¥1500+税)

      
      ※ 写真はありし日の吉本隆明。
        谷川雁とは間逆の、この人懐っこい
        庶民顔が人を惹きつける。


           
        

『吉本隆明と「二つの敗戦』①                 とよだ もとゆき著

2013-06-24 06:40:01 | 読書
  


      また一つ、吉本隆明を解明する本ができた。

      吉本隆明がいちばん輝いていたのは、世情の混沌
      としていた60年代であろうか。

      吉本は安保闘争や全共闘運動に揺れる若者たちの
      心をとらえ、戦後日本の思想界に絶えず圧倒的な
      存在感を示してきた。
      それゆえに”思想界の巨星”とか”カリスマ”と
      呼ばれたりするのだが、
      本人にとっては不本意なことであったろう。
      それこそ組織の束縛をもっとも嫌い、あらゆる権
      威主義といったものに対する反骨精神をやしなって
      きたのが吉本自身なのだから。

      とにかく吉本の守備範囲はひろい。
      「政治の季節」が終わっても、文学、芸術はもと
      より、自然科学、宗教面においても玄人はだし、
      晩年は老いの問題もごまかすことなく真正面から
      向き合い、さいごまで大衆の側に立った視点を
      失うことはなかった。

      常人にはとても理解できそうにない難解な本を
      何冊も書く一方で、右だろうが左だろうが駄目な
      思想は駄目とバッサバッサと切り捨てる。
      その小気味よさと舌鋒するどい論争は、インテリ
      青年の心をつかんで離さず、終始、尊敬と憧憬の
      まなざしを向けられてきたのだった。

      訃報を知らせる新聞記事(2013・3・16)には、
      次女・吉本ばななさんのコメントが載っていた。
      「父はよく頑張りました」

      
                  (この項、つづく)
       

おじいさんか、サギか

2013-06-22 17:42:24 | 雑記
 


      いつの間にか田植えが終わっていました。

      今日、通りがかりに見たら、おじいさんが取水口で
      水の調整をしていました。
      田植えは若い人の手を借りても、細かい調整はおじ
      いさんに任されているのでしょう。

      一生懸命働いている姿を見ると、声をかけたくなり
      ます。

      でも、腰を伸ばし伸ばし鍬を使ったり、かがみこん
      で水口(みなくち)を覗いているおじいさんに声を
      かけるのは憚られます。

      第一、何かいったら、おじいさんの手を休ませるこ   
      とになるでしょう。
      それに、おじいさんの耳に届くかどうか。

      自分のことをタナに上げてナニだけど、年寄りは
      耳が遠いに決まっています。
      たとえ聞こえたとしても、先ず腰を上げてこちらを
      向き、「ん?」といったやり取りを何度かするに
      ちがいありません。
      くどいようだが、おじいさんの足は泥田にとられて
      いるのです。

      ……とあれこれ考えて、私は声をかけたことはあり
      ません。

      でも、昨年の秋でしたか、向こうから来た女性
      (50歳前後の主婦)がちょっと足を止めたと
      思ったら大きな声でいっていました。
      「今年の出来はどうですかあ!」

      声が耳に入ったことは確かでしょう。
      ただし、はっきり聴きとれたかどうか……。

      おじいさんは半身をこちらに向けて「んん、アウ」
      といった感じの返答をしていました。

      すると、その主婦はつかさずこういったのです。
      「まあまあですかあ!」

      またまたおじいさんは「んん、アウアウ」

      あれこれ考えずにこれでいいのだ。
      私はその主婦の見事な応対ぶりに脱帽でした。

      そんなことを思って帰りに通りかかると、おじい
      さんはいなくて、代わりにサギが何かを突いてい
      ました。

        ∞   ∞  ∞  ∞  ∞

      こんな風に季節はどんどん移り変わっていくのに、
      私は眠くてたまりません。

      パンチのあるもので目を覚まそうと、日頃あまり
      食べないアイスクリームなんかを食べても駄目。
      濃いコーヒーをすすっても、すっきりするのは一瞬
      のことで、すぐ眠くなります。

      多分、気がゆるんでいるのでしょう。

        

  
     
      
      

      
      

ほっ

2013-06-20 20:31:53 | 雑記


     6月9日のブログ「青梅と蛙」でも触れたけど、
     ときどき通る田圃の話。

     先日、おじいさんを見ました。
     田植えの土手作りを(鍬で)していました。

     3日後、田圃にはなみなみと水が張られていて、
     近々田植えが行われる様子です。
     (ちょっと遅いような気がするけど、ここらで
     はそれでも苗が育つのでしょう)

     ほっ。
     なぜか、安堵するものがありました。

     おじいさんが元気だったこともありますが、
     この山合の小さな田圃はいつしか、ここを通る人
     の心の拠り所(といったら大げさですが)と
     なっていることが分かったのです。

     現に、私がふと田圃の話をしたら、「そうそう」
     と何人かがすぐに同調してくれたのでした。

     この小さな田圃は四季の移り変わりを鮮明に教え
     てくれます。

     今は水が張られて蛙が鳴いている状態ですが、
     もうすぐ早苗が植えられて、稲は暑い日盛りに
     すくすく成長します。

     暑い暑いとぼやいていても、この稲の成長には
     植物のけなげさというか、生命力といったもの
     を感じずにはいられません。
     その先には実りというゴールが待っているので
     すから。

     その証拠に暑い盛りに稲穂が出て、やがて秋風
     が吹く頃には一面、真っ黄色の絨毯に。

     やがて借り入れが行われ、おじいさん特製の
     案山子が立つのです。

     この分かりやすいサイクル、
     ここでの役者は何といっても、80歳を超えた
     (と思われる)おじいさんでしょう。

     このブログ、UPが遅れた(書いたのは一昨日)
     ので、いったん切ります。

     
    

人とびわ

2013-06-18 14:32:18 | Weblog
  

     ”びわNOW”といえば、何といっても
     武田百合子さんの『ことばの食卓』であろう。

     彼女の作品はときどき読みたくなるし、読むたび  
     に新しい発見がある。

     百合子さんは武田泰淳の妻にして作家、エッセイ
     スト。
     というより、天衣無縫の文章家といった方がぴっ
     たりかもしれない。

     富士山麓に山荘をもち、毎シーズン、東京の赤坂
     近くから車に夫の泰淳を乗せて通った。
     『富士日記』は山荘での何気ない暮らしを日記風
     に書いたものだが、それが実にユニークで面白い。

     百合子さんの感性が光っていて、ただ者ではない
     ことが分かる。
     それも世間に発表する気などさらさらなく、編集者
     のすすめで雑誌に載せたのがきっかけというから、
     これも世の中どう変わるか分からない見本のような
     ものである。
     泰淳は自分の死後に、妻がこんなに活躍するとは
     思わなかったであろう。

     
     「びわ」のくだりはこんな風にはじまる。

     「枇杷を食べていたら、やってきた夫が向い合わせに
     坐り、俺にもくれ、とめずらしく言いました。肉が好
     きで、果物など自分から食べたがらない人です。
     『俺のはうすく切ってくれ』
     さしみのように切るのを待ちかねていて、夫はもどか
     しそうに一切れを口の中に押し込みました。
     『ああ、うまいや』
     枇杷の汁がだらだらと指をつたって手首へ流れる。
     『枇杷ってこんなにうまいもんだったんだなあ。
      知らなかった』」(中略)


     これは泰淳晩年のことで、肝臓ガンで物も食べられず、
     酒も飲めなくなってからのことである。
     背景には、それを哀しむ百合子さんの心情があるのだ。
     そして最後にこのように結んでいる。


     「向かい合って食べていた人は、見ることも聴くことも
     触ることも出来ない『物』となって消え失せ、私だけが
     残って食べ続けているのですがーー納得がいかず、
     ふと、あたりを見まわしてしまう。
     ひょっとしたらあのとき、枇杷を食べていたのだけれど、
     あの人の指と手も食べてしまったのかな。ーー
     そんな気がしてきます。夫が二個食べ終るまでに、私は
     八個食べたのをおぼえています」

     百合子さんは夫の十数年後、平成5年に亡くなった。
     (67歳)

     愛読者の一人である私もまた、梅雨の晴れ間、びわを
     食べていて、この名文を思い出すのである。

    

       

松井さん

2013-06-16 16:31:13 | 読書


     ビワで思い出すのは童話雑誌の「びわの実学校」で
     ある。児童文学の坪田譲治がやっていた。

     あまんきみこ作の『車の色は空のいろ』が初出した
     のは、この「びわの実学校」であった。

     松井さんは「春のタクシー」会社に所属するタクシ
     ードライバー。
     松井さんの運転するタクシーに乗るのは人間だけで
     はない。迷子になった動物や、年寄りの山猫だったり、
     ちょうちょだったり……

   
     また走るのは道路や地面ばかりではなく、時間と空間
     を往復したりするのだから、何がおこっても不思議
     ではないファンタジックの世界である。
     

     これには「春のお客さん」「白いぼうし」「星のタク
     シー」「小さなお客さん」などシリーズがたくさんある。
     こんなことあり得な~いと思って読み始めるのだが、
     いつしか笑いがこみあげてくる。
     私の好きな作品である。


     最初、何気なく書きはじめた作者だったが、しばらく
     経ったころ、師匠格の与田準一(児童文学者)から
     「松井さんは元気か」といわれたことから、シリーズ
     化することを思いついたという。

     どこでどうつながるか分かない。
     そして、
     作者は幼少期、病弱で外に出られず、部屋からながめ
     ていた青空が原点だというのだから、
     マイナスが決して人生の「負」ではない、
     どう転ぶか分からないエピソードである。

     私は雨の日など、街でタクシーを見かけると、
     松井さんが運転しているのではないかと、振り返って
     見てしまうのである。

     
     

     

ビワ

2013-06-15 05:55:42 | 読書



      通りがかった農家の軒先でビワを見つけた。
      
      こんなにあって、200円。
      見上げれば、確かにビワの木がある。
      「甘いぞう」出てきたおじさんがいう。
      「種?」「そりゃあるわな、ビワだもの」

      どうやら、いつも捥(も)いで売っているわけでは
      なく、戯れに売ってみたという感じなのである。

      ビワと聞いただけで、あの大きな種を思い出して
      逡巡したが、買うことにした。
      たった200円だもの、おじさんの
      「50個あっから、1個4円」
      にも惹かれた。
      (後で損した!と思ってもいいじゃないか)

      50個プラスおじさんの手に持っていたものも貰って
      帰宅し、早速水洗い。
      (街路樹なので、埃がついているにちがいない)

      皮は手でむける。
      つまり、完熟で今が食べごろということ。
      確かに種は実のかなりの部分を占めているが、思った
      ほどでもない。

      あ、これが子どもの頃に食べたビワの味!
      いつか、デパートの果物コーナーで立派なビワを見つ
      け、懐かしさのあまり買ったことがあるが、
      上品すぎてがっかりしたことがある。

      
      あれ以来、ビワには近づかなかった。
      買った金額よりも、自分の(ビワに対する)想いが
      裏切られた!という驚愕の方が大きかった。

      ふと、思った。
      老いるということは、年々、この喪失感というか、
      がっかり感をより多く味わうことではないか。
      かといって、それが怖いばかりに、新しい物や人物に
      出会うのを警戒し、世の中を狭くするのも愚の骨頂
      なのだろう。

      生きているということは新しいことに挑戦すること。
      何事もおっくうがったら、それは老いのはじまり。

  
      まっこと、齢を重ねるということはムズカシイ。
      

      
 
      

疲れる幻覚

2013-06-12 16:25:51 | 雑記


     この間、わるい夢を見た。
     昔の職場で、仕事に大幅に遅刻した夢。
     しかも、その日の内容を勘違いして、すごくあわてて
     いるのである。

     なぜ、あんな夢を見たのか分からない。
     最近、昔のことを思い出したとか、古い友達と喋った
     とか、全くないのだから。

     もっとも、夢とは何の脈絡もなく、見るものだが。

     とにかく夢の中の私は、すごく焦って、
     責任を取るために仕事を辞めるとまで宣言していた。
     それ以上いうと、あまり恥ずかしく、みっともない
     のでいわないが。

     目が覚めて、ぐったり疲れていた。
     だいたい夢をみても、起きたらすぐ忘れるものなのに、
     リアルにはっき覚えているのだ。

     いつものデニッシュパンを食べ、濃いコーヒーを飲ん
     でも駄目。
     こんな時は体をうごかさなきゃ、と思って掃除機を
     かけ、洗濯物をバッサバッサ干し、食器を水を盛大に
     出して洗っても、疲れるだけ。

     何とか気持ちを切り替えたくて、整体に行きました。
     もともと腰痛予防のために時折通っているのだが、
     この日は肩も凝っているようなので、肩と腰のマッ
     サージをしてもらいました。

     それで一応は体が軽くなったのです。
     しかし、頭はまだ何かに縛られている感じが抜けま
     せん。

     古代人は、睡眠中に肉体から抜け出した魂が、実際に
     経験したことがらが夢になって現れると考えたそうです。

     現代なら、睡眠中に見る幻覚体験というのでしょうか。

     頭が重い感じの私は、いつも食べないトンカツなんか
     食べ(遅めの昼食)、即、ベッドへ。
     なぜか、タンパク不足に思ってしまったのです。
     気がついたら、夕方でした。

     こうしてリズムが狂うと、また何をやっても身が入らな
     いものです。
   
     かくしてこの日は、いつにも増して無為の日を過ごしたの
     でした。

     (梅雨空がもどって、瑞々しい路傍のつゆ草)
     

     
     

     

青梅と蛙

2013-06-09 18:13:21 | 季節


     出ました出ました、八百屋の店先に青梅が。

     毎年、この季節になるとぞくぞくします。
     「南高梅入荷」なんて立て札を見たらたまらない。

     みんながみんな、高級ブランドの「南高梅」のはず
     ないじゃないか、と心の底では思っていても、
     オオ!と一応は感嘆の声をあげてみたりする。
 
     青梅にかぎり、偽ブランドでも許される気がするの
     だから、全くいい気なもんだ。

     なぜか、青梅をみると元気が出る。
     自分でもおかしいくらい気分がきゅっと引き締まる。

     それに関連して紫蘇も大好き。
     刺身に付く青紫蘇も、梅干しに使う赤紫蘇も。

     多分、子どもの頃から年寄りが梅干しを漬けているの
     を見てきたせいであろう。
     漬けているときから酸っぱい匂い、紫蘇の紅い色……
     初夏の風とともに思い出される。

     そういえば、田植えの終わった田圃から聞こえる蛙の
     (うるさいほどの)合唱も、今思えば風物詩でした。
    
     

     鎌倉にも田圃があります。
     今夕、車で通ったら、小さな田圃にケロケロとそれで
     もミニ合唱程度の蛙が鳴いていました。


     でも、あれ? この田んぼ……
     今年は田起こしをするおじいさんの姿が見えません。

     昨年までは3月の風まだ冷たい頃から、一人黙々と
     鍬(くわ)で土を起こしていたのです。
     なのに、この春は一度も見ていない……。
     気になります。

     今年はこの田圃では田植えをしないのでしょうか。

     
     (写真は先日、文学館の帰りに寄った長谷寺の
      梅の木。きれいな梅がたくさん生っていました)