一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

雪の次はインフル

2016-11-26 18:10:19 | 雑記


      先日の雪には驚いた。
      前日は好天でまさか、と高をくくっていたが、
      早朝の雨が6時半ごろから雪になった。

      それがまたたく間に積りはじめたのである。
      11月に雪が降るのは54年?ぶりとか。

      家の中にいても冷えて仕様がない。
      腰痛予防のカイロを腰にはり、ホットカーペット
      (電熱マット)の温度をあげてPCに向かったが、
      こんどは指先が凍えるほどの寒さだった。

      窓ガラスを通して雪がしんしんと降る様子が見える。
      風情?
      とんでもない。
      愉しむ余裕など皆無で、
      雪が降って喜ぶのは犬と子ども!
      日頃からそう思っている私は憮然としたまま。

      家人に云ったら、近頃の子どもは雪だからといって
      外で遊ばないし、犬もペット化して童謡のように
      駆けまわったりはしないらしい。

      ならば……
      現実的に云えば、雪歓迎はスキー場くらいか。

      雪がやんだのは午後もまわった3時くらい。
      隣の屋根も道路もまっ白になっていた。


      そして、今日(26日)の夕刊にあった見出し。
      「雪の次は……もうインフル」

      どうやらインフルエンザが全国的な流行期に入った
      ようだ。
      昨年の流行期は1月半ばだから、
      これからしても相当に早い。
      病院によっては患者が急増しているという。

      幸い、私は2週間ほど前に予防接種をしてきたが、
      だからといって安心はできないであろう。

      有難くない話である。

      ……と、ここまで書いてきて、ようやく気づいた。

      世の中のスピードについていけないのである。
      夏が終わったと思ったら短い秋がきて、もう冬だ。
      もっとゆっくり進めないものか。

      ついていけないのは老いた証拠、
      なんて云われるかも知れないが。
      
      
      ※ 雪で真っ白になったわが家の庭
        紅葉したもみじにも雪
      

      

満身創痍

2016-11-25 18:28:46 | 雑記


        いつぞや猫のことをこのブログに書いたら
        何人かの愛猫家から問い合わせをいただいた。

        マロ(アメリカンショートヘア ♂)
        生後16年

        先日、膵臓に悪性の腫瘍ができて川崎の大きな
        (犬猫)病院で摘出手術をうけた。

        私が驚いたのは近所の病院ではなく、わざわざ
        遠くの病院を紹介してもらって行くことになっ
        たこと。
        そして手術には家族(飼い主)が付き添わなけ
        ればならなかったこと。
        (家人はその日、仕事を休んで行った)

        10日ほどして退院。

        いくらか食べるようになったが、やはり以前の
        元気なときのようにはいかない。

        家人は猫用のエサ(柔らかいもの、エビ風味、
        マグロ風味、○○美食、スープ各種)を買いそろえ、
        はては離乳食たぐいのものまでやってはみたが、
        (昔のカツオブシをかけたネコマンマもためした)
        やはりはかばかしくない。

        一日中、じっと耐えてハウスのなかで丸まっている。
        時には死んでいるのかと思って(私は)ハウスを
        揺らしたりした。

        家人は見かねて、近くの(かかりつけの)病院へ。
        点滴をして復活すること数回。

        昨日今日はのろのろと歩いて、私が掃除機を持って
        2階に上がると、足元にからまったりする。
        心なしか、毛のつやもなくなった。

        「マロ、満身創痍だね」
        
        返事をしない老猫に向かって私は声をかける。

        「マロのこといえないね。お互い年だもの」

        私は相憐れんでいるつもり。
        分かっているのかどうなのか、
        マロはうらめしそうに私の顔をみる。
        
        ※ 満身創痍のマロ
          左足には点滴のためなのか、薬用なのか
          絆創膏を張っている。
        
        

もや

2016-11-20 08:20:22 | 自然


        今朝5時半に新聞を取りに玄関をあけたらまっ白!
        もや? 霧?

        よく高所にのぼって下界が白くかすんで見えることは
        あるが、平地で視界が閉ざされるほどの光景は久しぶり。

        昨日の雨で湿度が増し、今朝の気温上昇でもやとなった
        ためか。
        (とても科学的な表現とはいえないが)

        子どもの頃、田舎で見たことはあるかもしれないが、
        大人になって都会に出てきてからは、こんな光景に
        出くわした記憶はほとんどない。

        幻想的というか、狐につままれたような現象に、
        一瞬ぼうぜんとしてしまった。
        
        ところで、
        もや、霧のちがいは何?
        かすみ(霞)とはちがうの?

        簡単にいうと、
        もやは、1㎞先が見えるもの
        霧は、1㎞先が見えないもの

        そして
        かすみは、正式な気象用語ではなく、
        空気中の小さなちりや、けむりのつぶなどがたくさん
        浮かんでいて、白っぽく見えること、
        をまとめて呼ぶのだそうです。

        …と、こんなことを書いている間に、
        8時をすぎて太陽の光が差すと、もう、もやの気配は
        すっかり無くなってしまいました。

        今日はお天気がよさそうです。

        

秋は夕暮れ……

2016-11-19 07:08:47 | 雑記
     


        先日のスーパームーン、
        当日関東は雨模様で見られなかったけれど、
        前日と翌日のお月さまは素晴らしかった。
        折も折、ちょうど出かけて帰る途中でみて気づいたので、
        余計にその美しさが身にしみた。

        68年ぶりに月が地球に最も近づくというスーパームーン、
        そう聞くせいか、よけいに神々しさが増して、つい手を合わ
        せたくなる。

        知人には煌々と光り輝く月が気持ち悪い。お星さまの方が
        いいという人もいるけれど、私は小さい頃からお月さまが
        好き。
        何となく子ども心にも寂しい時、ふと見上げて眼にうつった
        月に願いごとを託したり、感情をゆだねたりしたものだ。

        次回のスーパームーンは2034年というから、もう私は
        この世の人ではなくなっているだろう。
        そんなことも思ったりした。


        ところで千年前はどうだったのだろう。
        清少納言は『枕草子』のなかでこういっている。

        「夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、ほたるの多く
         飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち
         光リて行くもをかし。雨など降るもをかし」

        「をかし」は風情があるということ。
        解釈するまでもなく、
        電気のない真っ暗な闇を照らす月明かりを「夏」の代表的な
        ものとしている。

        そして秋はーー
        「秋は夕暮れ。夕日の差して山の端いと近うなりたるに、
         からすの寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、
         飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連ねたるが、
         いと小さく見ゆるは、いとをかし」

        もっともこれは、
        「日入りはてて、風の音、虫のねなど、はたいふべきに
         あらず」
        と云っているから、立秋の頃のこと。

        (現代語訳)
        「秋は夕暮れがいい。夕日がさして、山の端に近くなって
         いるところに、からすがねぐらに帰ろうとして、3羽
         4羽、2羽3羽と急いで飛んでいく様子さへも、しみじみ
         とした趣がある。ましてや、雁などが列をつくって連なって
         いるのがとても小さく見えるのは、たいへん趣き深い。
         日がすっかり沈んでしまってから聞こえてくる、風の音や
         虫の声などもまた、あらためて云うまでもない」


        千年前の立秋と現代のそれとはかなり違う!
        温暖化の影響もあるのかどうか、夏の盛りの立秋は、
        現代人にはそぐわない。

        ついでに云うと、
        清少納言はこのくだりで、
        「春はあけぼの」
        「冬はつとめて」(キーンと冷えた冬の早朝がいい)
        と云っている。

        このあたりは違和感はないから、
        夏だけ突出して猛暑がこたえている証拠でもある。


        ※ 知人が送ってくれたお月さまの写真
         (私が撮るとなぜか、月が豆つぶになる)
        
       
         
        

ああ、勘違い

2016-11-12 20:29:38 | 読書


       向田邦子さんのエッセイに「眠る盃(さかずき)」という
       のがある。

       「荒城の月」の歌詞、
         ♪ 春高楼の 花の宴
           めぐる盃 かげさして

       というのが正しいのだが、
       向田さんは子供の頃から「眠る盃」と歌っていた。

       酒好きなお父さんは酔いつぶれて、そのまま座布団を枕に
       眠ってしまうことが多かったらしい。
       盃につがれた酒が、けだるそうに揺れて、眠っているように
       見えたのだという。

       ついでに云うと、最後の
         ♪ 嗚呼荒城の よわ(夜半)の月
       を「弱の月」と歌ってしまうのだという。


       同じく向田さんの「夜中の薔薇」しかり。
       (正しくは「野中の薔薇」)


       こうした間違い、勘違いは何を隠そう、私の専売特許でも
       あります。

       いまでも街中で見る看板の、
       「コピーサービス」を
       「コーヒーサービス」と読んでしまう。

       あ、間違ったと思っても、次に通る時、また
       「コーヒーサービス」なのだ。

       それにこのブログ、
       漢字変換の間違いなんて、毎度のこと。

       そのたびに心優しい友人が知らせてくれるのですが、
       云われるまで気づかないのですから恥ずかしい。

       ブログだけでなく、私の場合、原稿もよく赤ペンが入ります。
       (校正の段階で直されるということ)
       校正があまり好きではないのは、そのせいかもしれません。
       
       
       まさか、新聞はこんなミスがないと思ったらありました。
 
       米紙ニューヨーク・タイムズ2000年、
       新しく米大統領になったトランプ氏の元妻、イバナさんが
       「下着を3色2000枚ずつ買う」とやってしまった。
       
       正しくは「24枚ずつ」で訂正記事が出たそうです。

       古今東西、活字あるところ訂正あり。
       どれほど優秀な校閲記者でも一度も訂正を出したことがない、
       という人はいないそうですから、
       めげずにGO!でいきましょう。
       
    

       
       
       

探す

2016-11-12 08:33:21 | 雑記



     米大統領選、本命だったはずのヒラリーさんが負けて
     米国初の女性大統領は結局、誕生しなかった。
     トランプ氏はいかなる人物か。
     まだ分からないことが多いが、これからの日米関係も
     気になる。

     それはさておき、
     昨日、図書館にいって本を読んでいたら、シャッシャッ
     と何かをめくる音が間断なく続いて気になって仕方が
     なかった。
     ふと見ると、70代半ばとおぼしき男性が書庫から
     出してもらった旧新聞の束(厚さ10㎝ほど)を一枚
     一枚めくっている。

     何かを探しているのだろう。
     なかなか探し物は見つからないらしく、私が帰る頃に
     なっても、まだその作業は続いていた。

     私にも身に覚えがある。

     根っからのアナログ人間である私は、インターネットが
     使えるようになってからも、何か気になる事件があると、
     図書館にいって旧新聞を出してもらい、記事をあさった
     ものだ。
     

     近年のものは最寄りの図書館にもあるが、  
     さすが明治時代のものとなると、国会図書館に出かけ
     なくてはならない。

     もう20年前のことにもなろうか。
     国会図書館には明治の新聞も保存していて、生(なま)で
     見られた。
     肝心の探し物をそっちのけに、「情婦が男にフラれて入水
     自殺」とか、「男女関係がもつれて刃傷沙汰」とかいった
     三面記事が目に入り、新聞連載小説もまた生々しかった。
     (現在はマイクロフィルム化されている)


     そもそも新聞はいつからはじまったのだろう。
     幕末は瓦に文字や絵を焼きつけた「かわら版」で、
     紙に印刷される新聞ができたのは、ペリー来航以降、
     明治になってからである。

     開国により、異国人が持ってきた英字新聞にも触発された
     のであろう。
     明治新政府に不平不満を持つ旧士族の輩が、それこそ競って
     出したので、新聞発行は雨後の筍(たけのこ)状態だった
     という。

     当時の新聞は、主に政治を論じる「大新聞」と、娯楽中心の
     「小新聞」に分かれ、政治を風刺した「小新聞」は庶民にも
     親しまれ、よく売れたという。

     このような時代を経て、現代のような新聞になったのは、
     日清・日露戦争以降のこと。
     人々は家にいて、戦争の進捗状態を知り、興奮したという。
     むろん後々、第二次大戦時のように、日本勝利という大嘘
     をでっちあげるという弊害もあるのだが……。
 
     図書館での小さな出来事が思わぬ回想となってしまった。
     
  

その一瞬

2016-11-06 07:27:56 | 読書
      
      言葉に出すまでもなく、
      〈秋の日はつるべ落とし〉です。

      昼間の暖かさにつられて、つい薄着をして出かけ、
      思ったより帰りが遅くなってしまい、日がすとん
      と落ちる。
      気がついたときには肩のあたりがスースーして、
      「あ、いま、風邪ひいたな」
      と分かる。

      そういえば、向田邦子さんのエッセイにもそんな
      のがあった。
      お風呂から出て、ぐずぐずしてTVなんか見ている
      いるうちに、背筋のあたりがぞくぞくしてくしゃみ
      が出て、「あ、やられた」と一瞬にして思う。

      エッセイのなかで向田さんは、これと同じことが
      老いにもあると云っています。

      仕事に疲れてふうっと息を抜き、気がつくと背中を
      丸めて絨毯にペタンと坐ってあごを前に出して……
      まるで老婆の姿。
      「あ、いま老(ふ)けた」と思う瞬間だという。

      あるある、私にも思いあたることが。

      夕方、思い立って買物に出かけ、どうせ気の張る人
      には合わないのだからと、家にいるままのラフな
      恰好で……。
      思わず見たショーウィンドーの我が老いた姿に
      ぞっとすることが。

      いま、この瞬間に年をとったな、と思って
      あわてて目をそらしても、もう遅い。

      かつては、外見より中身!なんて、イキがっていた
      ものだが。
 
      齢をかさねたら、せめて小綺麗(こぎれい)に。
      とは思いつつ、根が無精なので、なかなかこれが
      難しいのですよ~。

      

      
      

訃報

2016-11-05 08:33:07 | 雑記


       高井有一さんの訃報を新聞(10月27付)で
       知って驚いた。84歳。
       その3日前に、ある会合で高井先生のことについて
       語っていたからである。
 
       芥川賞を受賞した『北の河』を筆頭に、『立原正秋』
       (毎日芸術賞)、『夜の蟻』(読売文学賞)等々、
       好きな作品を挙げたらキリがない。

       私は文章修業時代(数年間であったが)高井先生の主宰
       する同人誌に入っていたことがある。

       尊敬し大好きな先生の謦咳に接することができ、
       身近に文学論を拝聴することができるのは最上のよろこび
       であった。
       同人誌に入る場合、好きな師をえらぶのは当然のことと
       はいえ、そううまく巡り合わせは来ない。
       毎回、先生の一言一句を聞き逃すまいと必死だった。

       まず、仕上げた作品を先生に見てもらって、手直しをする
       ところは直す。
       2~3回それを繰り返して、合格なら同人誌に掲載される。

       合評会では、仲間の同人から手厳しい批評を受けること
       なんてしょっちゅう。
       勉強の身だから当然のことである。
       それでも、あまりに厳しい批評に、立ちなおれないことも
       あった。

       そんなとき先生は的確なフォローをしてくれて、どんなに
       その言葉に救われたことか。
              
       また、お互いの作品の合評とは別に、
       時には気分を替えて、話題となった他の著者の作品や
       先生自身の小説を課題に取り上げることもあった。
       そこでも私は自分の無知を知らされ、ずいぶんと勉強に
       なったものだ。

       毎日芸術賞をとられた『立原正秋』を読んだのもその頃で
       あった。
       小説を書くときの姿勢や、ノンフィクションの書き方を
       学んだことが今に生きていることはいうまでもない。

       ここに一つのエピソードがある。

       高井先生の小説は新聞、雑誌に取り上げられるとき、
       決まって「いぶし銀のような」といった形容詞が付けられ
       ることが多かった。

       「いぶし銀のような」--
       私も本当にぴったりだと思っていたが、あるとき先生は
       こう云われた。
       「<いぶし銀>と云われることはちっともうれしくない」

       なるほど、そんなものかと私は思ったものだ。


       補)高井有一さんのニュースから5日後、
        こんどは伊藤桂一さんが亡くなったことも新聞で知った。
        99歳
        伊藤先生は秋山駿氏らとともに農民文学賞の選考委員で、
        私の授賞式でもありがたい心あたたまる評価をして下さった。
       
        また私がペンクラブの会員になるときも推奨していただき、
        たまさか会合などでお目にかかると、いつも「頑張って
        下さい」とやさしい言葉をかけて下さった。

        伊藤桂一先生も『蛍の河』で直木賞をとり、
        『静かなノモンハン』で複数の大賞に輝くなど、当代一流
        の大先生なのに、エラぶったところなど全くない、
        若輩の私などにも気さくに声を掛けて下さる、やさしい方
        であった。

        今年は過去にお世話になったお二人の先生の訃報を知る、
        喪失の秋となった。