一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

なみだふるはな

2012-03-31 22:03:47 | 読書


     東京でも桜の開花宣言があったとか、なかった
     とか、TVのニュースは昨今の挨拶代わりに
     なっている。
     ちょっとくらい遅くても数日もたたずに花は開
     くのだから自然にまかせればいいものを、
     毎年かしましいことである。

     こちらは花は花でも下記を。
      『なみだふるはな』     河出書房新社
             石牟礼道子
             藤原 新也
     
     水俣病の象徴的存在となった石牟礼道子と、
     写真家・藤原新也の対談集である。
     福島の原発事故後を撮りつづけていた藤原が
     福島を直接語るのではなく、水俣を訪ねること
     で過去を問い、未来を探る形式だ。

     これを読んで怖れていたものが明らかになって、
     少なからずのショックを受けている。

     水俣のチッソ化学工場は塩化ビニール製造に
     不可欠な原料などの製造で発展した。 
     一方、福島原発の東京電力(通称・東電)は、
     関東(主に東京)に電気を供給するためにつく
     られたことはご承知の通り。
     (地元は東北電力なので直接は関係ない)

     いわば、戦後日本の近代化と高度経済成長の
     旗手で、どちらも国策でやった企業だったの
     である。

     そして、目にも見えない、臭いもしない放射能
     がじわりじわりと襲ってくる恐怖は、水俣の
     有機水銀と同じだった。
     目にも見えない、痛くもかゆくもないものほど
     恐ろしいものはない。
     そのことは、水俣の例で証言済みなのに、
     まったく教訓が生かされていないことに、
     新たな衝撃を受けている。
           

60年の歳月

2012-03-28 21:22:12 | 読書


      必要があって石牟礼道子著の『苦海浄土』を読んで
      いる。
      
      猫が狂ったように痙攣して死ぬ「猫踊り病」が水俣
      湾に面した住民を中心に多発したのは昭和20年代
      後半である。
      母親の毒が胎盤をとおして移ることはないとされた
      が、胎児性水俣病患者(水俣病と分かるのは後々
      のこと)も発生していた。

      日本窒素肥料(株)が不知火海の小さな漁村に根を
      おろしたのは明治41年であった。
      後のチッソである。
      チッソ化学工場はその後、塩化ビニール製造に不可
      欠な原料をなどの製造で発展をとげる。

      鉄道がはしり、港もひらかれ、人々が集まってきた。
      「おらか町には工場があるばい」は地元の人にとっ
      ても誇りでもあった。
      いわば、戦後日本の近代化と高度経済成長の旗手だ
      ったのである。

      それが自慢の工場のたれ流す有機水銀が海を汚染し、
      その魚を食べて猫が狂ったように死ぬなんて、誰が
      想像したであろうか。

      石牟礼は患者の家をまわって聞き書きをし、東京
      のチッソ本社前では坐り込みをし、終始、患者に
      寄りそっての取材を続けてきた。
      チッソの株主総会に出て、社長に直訴し、裁判に
      も付きあった。
      地獄絵のような現場を目の当たりにして取材をす
      るのは、もっと地獄をみる思いだったに相違ない。

      平成21年7月、水俣病特別措置法が成立。
      裁判を取り下げることを条件に、患者一人あたり  
      一時金210万円を支払うことで和解した。
      (それは収入とみなされ生活保護はなくなる)

      最初に水俣病と認定されてから55年。
      それまでの経過を入れると60年以上になる。
      60年といえば人のほぼ一生分である。
      長い長いたたかいであった。
      
      

      

      

一つの思想史の死

2012-03-23 21:34:48 | 雑記


      吉本隆明氏が亡くなった。
      一つの思想史のような人の死だから各新聞は追悼文や
      回顧談などを載せている。

      私は氏のことはほとんど知らない。
      だが、谷川雁を通して書物やメッセージなどに触れる
      ことが多いせいか、かなり知っているような気がする
      から不思議だ。

      両者は、
      <吉本隆明VS谷川雁>だったり
      <吉本隆明=谷川雁> として語られることが多く、
      いずれにしても一つの時代を牽引(けんいん)して
      きたことには間違いない。
      一つの時代とは60年安保をはさんだ前後数年である。

      谷川雁が「大正行動隊」をつくって炭坑労働者の退職
      金などで闘っていたとき、吉本隆明はこういった。

      「谷川雁がいま大正炭鉱でやっていることは壊滅の
      敗軍のしんがりの戦いだ。
      敗けるにきまっていると知りながらやっている。
      …… …… ……
      彼がやっていることが終わったとき、運動の痕跡さえ
      終わったときだ」 

      このフレーズがまさに時代をあらわし、人を語ってい
      る。
      その意味でこれを聞くとき、身が引き締まらずには
      いられないのである。

      (写真は近くの梅林にて)

啄木没後100年

2012-03-18 21:29:27 | 読書



      今年は近代日本を代表する歌人・詩人の石川啄木
      (1886~1912)
      が逝って100年になる。

      岩手県に生まれ、創作と生活に苦闘し、26歳で
      早世した啄木。東北大震災の後、東北出身という
      こともあってか見直されているのだという。
      啄木というと、
     
       東海の小島の磯の白砂に
         われ泣きぬれて 蟹とたはむる
      
       ふるさとの訛なつかし停車場の
         人ごみのなかに そを聴きにゆく

      といった中学生でも解釈なしで分かるような歌が
      すぐ出てくる。
      もっとも「そを聴きにゆく」の「そ」は分からな
      かったけど。

      また、新聞社や友人からお金を借りたおしたこと
      でも有名だ。
      そのせいか、感情が激しくて、女々(めめ)しい
      くせに自己顕示欲がつよい。
      そんな啄木がハナについて、一時夢中で読んだが、
      その後は遠ざかっていた。

      しかし、それは天才ゆえの苦悩だったのかもしれ
      ず、感傷的で分かりやすい歌の底にこそ深いもの
      があるのかもしれないと思うようになった。

      啄木が歌をつくったのはわずか3年。
      自分を天才だと思い込み、夏目漱石ぐらいの小説
      はいつでも書けると東京に出てきたが、誰も相手
      にしてくれない。
      天才意識がつよいから、失意もつよい。
      その落差が他の人には見えないものを見せたの
      ではないかといわれている。
  
      啄木は、短い人生の間に長い人生のすべてを経験
      してしまったとしたら、さぞ生きにくかったろう
      と今では思う。
      いま、私の好きな歌をあげると下記になる。
      
       何となく汽車に乗りたく思ひしのみ
          汽車を下りしに ゆくところなし

      どこか他の所にいきたい。でも、どこにいったら
      いいのか分からない気持ち。
      この魂の彷徨というか、さみしがり屋なのだろう。
      啄木には孤独という文字がよく似合う。
      
      
       
           
 
      
        

もとの水にあらず

2012-03-13 21:45:31 | 読書
   

     <ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの
      水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは……>

     ご存じ「方丈記」の出だしだ。
     日本列島が災禍に見舞われる度にブームになり、
     昨年の東日本大震災後も例外ではないという。
     自然との関わり方、人の世の無常といったものを
     考えさせられるからであろうか。
      
     作者の鴨長明自身、父を早くに亡くし、人事に
     恵まれず、苦労の多い人生だったらしい。
     かてて加えて時代も悪かった。
     相次ぐ天災、源平の争い、遷都(鎌倉時代)に
     伴う混乱……今日の比ではない。
     いや、原発は同レベルで考えること自体、間違っ
     ているのだが。

     人も住家も常ならないことを実感し、長明は方丈
     (四方が約3㍍)の庵(いおり)での山暮らしに
     入った。

     ある人はこの書から、
     「何が起ころうと悩むことはない。すべてを受け
      入れ、どんどん揺らげはいい」
     というメッセージを受けとったといっている。

     3・11一周年の日曜日、ある会合に出かける
     途次で、14時46分手を合わせて瞑目した。
     どんな自然災害があったとしても木々は芽吹き、
     花は咲き、鳥はうたう。
     翌朝、鎌倉山でウグイスの初鳴きを聞いた。

       (写真は鎌倉・寿福寺)
    ※ 親しくしてもらっていた2年先輩の女性が亡く
      なったという知らせが今夕入った。
      まさに<もとの水にあらず>である。

3・11を前に

2012-03-08 22:20:59 | 雑記


     ブログ更新をしなければと思いながら3・11を
     前にちょっとした失語状態に陥って、適切なこと
     ばが出ない状態が続いている。
     何をいっても空々しく、虚しい感じなのである。
        
     今日は、比嘉加津夫氏の『新版 谷川雁のめがね』
     の書評(抜粋)をご紹介することでご勘弁を。
     比嘉氏は詩人という立場から谷川雁に精通している
     人で、私のような付け焼き刃ではなく、雁を見る目
     は鋭い。
     なんていったって筋金入りの詩人だ。
     (このフレーズ、前にも使ったけど)
     この書評には、一般に詩人からみた谷川雁が綴られて
     あって、私自身が勉強になり、新しい発見もあった。
     以下は比嘉氏の文章。
     
     「時代の風雲児」
     ………… 
     谷川雁は時代の風雲児であった。あの時代があったから
     彼の思想は生きたし、彼に特別な存在感を与えた。また
     所詮は「人が思想なのだ」ということも、いいにつけ、
     わるいにつけ、ぼくらに示してくれた。
     …………
     (この本を)読んでいくと、谷川雁はやはり偉大な組織
     者であったという一面をみることになる。一方、権力志
     向は、結局は別の権力からはじかれてしまう運命にある
     ということ、あるいは人はつまるところ自らいだく「我
     がまま」さに見合った場所に移行させられていくという
     一面も見ることになる。

     谷川雁が(宮沢賢治の詩を)「等身大だからいやだ」と
     言ったのは、ぼくには非常によく伝わってくる。
     そうなのだ。雁は最初から最後まで、等身大の生活を
     嫌った。
     ……「やってみなければわかるまいって」と自分にホラ
     をふいて年齢(とし)を重ねていったのではないか。

     50年代、荒廃した日本の大地で革命…………それがむつ
     かしくなるとステージはどんどん小さくなり、駄目だと
     思うと、さらに小さなステージに……。
     しかし、それぞれの場でインパクトのあることをして  
     いる。雁の雁たる所以だ。
     彼自体がすでに偉大な「運動体」であった。

     内田聖子は「谷川雁はきわめて人間的であった」と
     書いた。
     人間的というのはぼくにとっては「文学的」と同義で
     ある。そのような眼で雁を追っている貴重な一冊なの
     である。
                     2012.2.18     
     
     (この文は抄出なので不備があります。
      「比嘉加津夫 Myaku 脈」を検索して
       全文をお読みいただければ幸いです)
     

災禍の身代わりを人形に託して

2012-03-03 21:56:03 | 行事



    今日は桃の節句、ひな祭り。
    折しも(というか時期を合わせたのだろうが)
    鎌倉国宝館では、江戸時代の「ひな人形展」が
    ひらかれている。

    そもそもひな人形の人形(ひとがた)とは、
    身代わりという意味で、
    節句とは季節の節目の身のけがれを祓う大切な
    日なのだとか。
    最初は、災厄を引き受けてくれた人形を流す
    「流し雛」だった。

    それが現代のような飾り人形に発展するのだが、
    原点にもどれば、今年ほどひな人形を飾るのに
    ふさわしい年はないのではないか。

    そういえば『源氏物語』の須磨の巻に、光源氏が
    海辺に出てお祓いをし、災いや病気の身代わりと
    して紙人形を流す場面が出てくる。

    平安初期には「紙の着せ替え人形」で遊ぶ「ひい
    な遊び」が主であった。
    この遊びが一対の男女の人形となり、
    やがて宮中から武家社会、裕福な家庭にまで広が
    り、豪華な人形を飾るようになった。

    嫁入り道具にお雛様を入れたのも、お産や病気の
    災いから逃れるためであったろう。
    現代のようなひな壇を飾るようになったのは平安
    中期から。

    こんな時期に華やかな雛人形を飾るのもどうかと
    躊躇っていたが、それはお門違いだったようだ。