一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

スイカを食べるとき

2017-07-30 07:59:01 | 雑記
 


       「ブラジャーをはずして食べる すいかだろ」
                      みさき たまゑ

       この句には笑ってしまった。

       ブラジャーとスイカの組み合わせが面白い。

       ブラジャーをはずして、さあスイカを食べるぞと
       意気込んでいるのか、
       はたまた、スイカを食べるときくらいブラジャーを
       はずしてリラックスしろ、ということなのか。

       どちらでもいい。


       私もこの夏、
       三つのことをやる! と決意した。
       友人にいったら「この暑いのに?」といわれたけど、
       夏が苦手だからこそ、やる!と決めたのだ。

       一つは20年以上、ある会の会員だったが、この夏
       自ら退会を申し出てけじめをつけようと思った。
        
       もう、名誉も名声も必要ない。
       これからは余計なことはそり落として、
       さっぱりと生きたい。
       そう願ったのだ。
 
       結果は、
       事務局から電話があって、近く理事会が行われる
       ので、(退会のことは)そこではかられる、と
       いうことだった。
       おそらく問題なくすんなりいくだろう。


       二つ目は納戸を占領している古い資料を処分すること。
       古いといっても、
       7年前の引っ越しのときに、英断をふるって大改革
       をした。
       なのに、いつしかまた溜まってしまったのだ。
    
       これは大げさにいえば、生命の次に大切なもの。
       取材で収集した資料や、生(なま)書きの原稿で
       捨てるに捨てられないものばかり。

       しかし、原稿にも消費期限がある。
       時々思い出しては、
       ああ捨てよう!
       もう処分しなっきゃ!
       と思っていたのだ。

       これは着手したものの、容易ではなかった。
       自分の意識のなかでは、もういい!
       とは思っているものの、実態を見ると、
       取材した折の光景などが思い出されて、
       もとに戻してしまう。

       そんなことを何度か繰り返して、
       結果、段ボールを三箱カラにして、いくらかすっきり。
       ついでに本や雑誌も数十冊処分した。

       しかし、しかしである。
       
       ごく最近の資料や本は机の周辺に散乱しているので、
       総体的に片付いたとはいえない。
       「座右の銘」ならぬ、
       「座右の資料」なのである。

       こちらは今でも時折、編集者などから問い合わせが
       あるので(つい先日もあった!)、
       手元から離せないのだ。
       
            
       三つ目は、
       和ダンスに眠っている和服なのだが、
       こちらはせっかくの決意もどこへやら、
       ちょっと色気を出して、
       あと2~3年、様子をみようと思いはじめた。
    
       面倒になったこともあるが。
       
       かくして、私の居室は雑然として、見ようによっては
       ゴミ屋敷に一歩一歩近づいているともいえる。
       
       
       
       

『凍(とう)』 沢木耕太郎著

2017-07-29 07:56:33 | 読書


       あんまり暑いので冷たい世界にひたろうと
       沢木耕太郎の本を読んだ。
     
       題して『凍』

       アルピニストの山野井泰史・妙子夫妻のヒマラヤ
       登攀(とうはん)記である。

       夫妻は世界でも有名なアルピニストであるが、
       あまりマスコミに出たがらないし、大々的な宣伝は
       好まないので、日本では知る人ぞ知る、程度である。

       だが、その大胆で緻密なクライミングは世界中の
       著名な登山家をうならせるのだ。

       山野井夫妻は酸素ボンベもトランシーバーも持たない。
       いわく、
       「素(す)で大好きな山に向かいたい」
       のである。

       登攀記録を撮りたい、というNHKの申し出も断った。
       「気持ちよく壁登りが出来ない気がしたから」
       (その後、民放の申し出はそれが可能な気がしたから
        受けたが)

       妻の妙子は夫より9歳上。
       前の登山で手足の指を凍傷のため数本失っている。

       それでも常に冷静で沈着な妙子を、夫の泰史は信頼し、
       尊敬もしている。

       二人は8000㍍級のヒマラヤの垂直な壁を登るとき、
       ロープでしばり合って協力するが、
       片方が足をすべらせて中吊りになっても助けられない。
    
       案の定、似たような状況に陥った。
       それは下山しているときだった。

       妙子は垂直な壁を登りはじめて間もなく、
       ものを食べることが出来なくなったし、
       水分を受付けなくなっていた。
       無理して雪をとかした白湯を飲んでも、胃液と一緒に 
       嘔吐するだけだ。

       おまけに体全体が凍傷にかかっていて、
       眼も見えなくなったいたし、意識も朦朧としてきた。
 
       相手の足を引っ張りたくない妙子はいった。
       「先に行って。あとからゆっくり行くから」

       山野井は無言でうなずいて、思う。
       「妙子はここで死ぬのだろうか」

       そしてこう思いかえす。
       「自分は妙子が最後の最後まで頑張る女性だと
        知っているし、
        パニックを起こす女性でないことも知っている。
        妙子が頑張りきれずに死んだとしたら、
        他の誰も頑張れはしないのだ。
        そして、
        頑張れきれずに死ぬことになったとしても、
        恐怖を感じずに死ぬことができるだろう」

       奇跡は起った。
       妙子はしばらくして山野井に追いついてきたのだ。

       こうして二人は命だけは助かってベースキャンプ
       にたどり着いた。

       しかし、
       山野井も指を何本か失ったが、
       妙子はもっとひどかった。
   
       妙子は手足20本の指の中で、まったく切っていない
       のは左足の小指と薬指だけとなった。
       およそ世界の先鋭的なクライマーの中でも、
       18本もの指を切っているクライマーは妙子以外に
       いないだろう。
       そこまで凍傷を負う前に死んでいるからだ。

       そんな悲惨な状況でも妙子はたんたんとしていた。
       そして、山野井はそんな妙子をみて、こう思う。

       「一本の指を失っただけで、人は絶望するかもしれない。
        しかし、18本もの指を失っても、妙子を悲観すること
        なく、平然としている。
        そうだ。
        好きなことをして失っただけなのだ。
        誰を恨んだり、後悔する必要があるだろう。
        戻らないものは仕方がない。
        大事なのはこの手でどのように生きていくかという
        ことなのだ」

       そして、その通り、
       妙子は指を全部失って、手のひらだけになった手で
       包丁も握れるようになったし、
       お箸をつかって食事もできるようになった。

       さらに、一度は
       「もう山(に登るの)はいいだろう」
       と思ったのに、
       またトレーニングをはじめ、ヒマラヤに向かうのである。

       読者である私は、
       こんな過酷な体験は誰にもできないし、
       すすめられたとしてもご免だが、
       山野井夫妻の教訓には普遍的なテーマが含まれている、
       と深く心が動かされた。
       
       
         

日野原重明さん

2017-07-23 08:27:00 | 人生



       先日(7/18)、
       聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんの訃報を
       ネットニュースでみて、あっと声を上げた。

       105歳であった。
       
       100歳を超えてなお、診察はもちろん、講演会、
       執筆活動、雑誌取材など、多彩な活躍をしてこられた。

       ちなみに早くから人間ドックの必要性を説き、
       「生活習慣病」という言葉をはじめてつかわれたのも
       先生である。

       なにより最期まで現役で活躍されたこと、
       これほど素晴らしい生き方はめったにあるものではなく、
       後につづく者にとっても大きな指標となるだろう。

       氏の「健康長寿の心得」によると、
       「人生の後半開始の60歳からは腹八分。
        70歳からはやったことのないことを創(はじ)め、
        80歳からはよく歩き、若い人と接する。
        90歳になったら心の赴くままに行動し、
        100歳からは よき友を持ってあるがままに生きる」

       ということだそうだ。

       そうかっ、
       70歳はこれまでやったことのないことを創める年なのか。

       私も70歳で、
       これまでのガラ携をスマートフォンに替え、
       72歳でピアノのレッスンをはじめ、
       73歳で読書会を立ち上げた。

       そして、またぞろ、何かをはじめたくなっている。
       でもなあ、やればいいってもんじゃなくて、
       どれだけ続くか。
       
       継続は力なり、っていうじゃない。

       70代もそれなりに懊悩の年頃なのである。
       
       
        

妬(ねた)み  嫉(そね)み  嫉妬 

2017-07-22 07:43:19 | Weblog


       生きていれば付きものの「妬み、嫉み、嫉妬」。
       そもそも人はなぜ嫉妬するのだろう?

       深く考えたことはなかったが、
       新聞のコラムをみて、なるほどなあと思った。

       例えば、兄弟の場合ーー
       兄はしっかりしていて成績も常にトップクラス。
       おまけにスポーツも万能で、先生のウケもいい。

       これに対し、
       弟は成績はいまいち。
       どこかヌケていて、落ち着きがない。
       忘れ物もしょっちゅうで先生に怒られてばかりいる。

       こんな例は世の中にたくさんあるだろう。

       弟は、親や先生に叱られるたびに傷ついて、
       こう思う。
       「同じ親から生まれたのに、なんで自分だけ出来ない
        のか。お兄ちゃんだけ褒められてズルい」

       ところが、
       友人にピアノの上手な人がいたらどうか。

       その場合、友人が遊ぶのも惜しんでレッスンして
       いるのを知っているから嫉妬しない。

       もっと分かりやすくいえば、
       オリンピックの選手をみて嫉妬心は起らないだろう。
       すごい、すごいとは思っても。

       つまり、自分の範疇にあるもの、手のとどく範囲に
       いるものに対して嫉妬心は起るのだ。

       「自分の方ができるはずなのに、あの人ばっかり
        褒められている」
       とか、
       「自分が手に入れられたかもしれないものを、
        他の人が持っている」
       な~んて。

       そんなとき、
       相手は何も悪くない。
       ただ自分の努力や工夫が足りなかったり、
       運が悪かっただけなのだ。

       自分のほうに原因があるのに、
       相手のせいにしてしまっているだけ。

       要するに、
       嫉妬心とは自分が自分を認められないときに、
       わきあがる気持ちだともいえる。

       だとすると、
       嫉妬する気持ちを抱くのは人間である証拠。
       問題はそれがどういうことなのかを自分の中で整理し、
       それから先、
       どういった行動に結びつけるのか。
       そのことにかかっているのかもしれない。

        
       ※ 車で出かける途次にみたヒマワリ畑
 
       
             

コインランドリー

2017-07-16 08:44:04 | 雑記


       豪雨による被災地の方には心からお見舞い
       申しあげます。
       まだ連絡の取れない行方不明の方がたくさん
       おられて、安否が気づかわれる。
       一日も早く安寧な日々がもどられることを
       お祈りするばかりです。

       さて、
       関東地方は梅雨が明けたのかと思われるような
       夏日が続いている。

       連日の暑さに、毎日、山のような洗濯物。
       ところがこの間、洗濯機が調子悪くて焦った。

       洗濯機を買いに走ったとしても、在庫があるか
       どうか、その上、配送に少なくても4~5日は
       かかるだろう。
                     

       家人は、いざとなったらコインランドリーを
       使えばいいと云うけれど、
       昔ニンゲンの私はう~と生返事して、なかなか
       その気になれない。

       
       とつおいつ、
       洗濯機をながめ回し、機嫌をとりつつ使って
       みたが、どうにも復活しない。
       思い切って大型家電ショップへ。

       幸い、気に入った洗濯機が在庫有りで、
       配送も最短でとお願いして、
       どうにか間に合った。

       ……というわけで、
       コインランドリーは私にとって未知の世界の
       ままである。

       コインランドリーというと、どうしても
       「狭い」「暗い」「不安」といったマイナス
       イメージがつきまとう。

       ところが東京在住の友人にいわせると、
       昨今は以前のイメージが払しょくされて、
       清潔で明るいところに変わってきている
       のだそうだ。

       人が常駐し、乾燥後の衣類を取り出し、保管
       してくれるサービスも登場、
       なかにはカフェや子どもを遊ばせる空間を
       備えた店もあるのだとか。

       そして、
       以前は単身者や学生が主流だったのが、
       今は主婦をはじめ女性が中心になっている
       というのだから驚く。

       たしかに、
       洗い物をためても、コインランドリーなら
       まとめ洗いもできるし、布団やシーツなど、
       ダニ対策にも便利だしねえ。

       聞くところによると、
       欧米ではもっと進化して、
       ミニ図書館や、夜間にはビールやワインを
       出したりする店が人気らしい。

       かつて、
       井戸端会議という言葉が示すように、
       女性は洗濯物や家事をしながら、
       そこが社交の場でもあった。

       現に、
       フランスの農村地帯では洗濯場跡がひとつの
       観光地となって、それが資源を生み出して
       いるのだとか。

       これからコインランドリーがどのように進化
       するか、一度くらいはのぞいてみようかとも
       思う。
       
       

ご飯派 それともパン派 ?

2017-07-14 13:04:50 | Weblog



       この間、大型ショップの電気店のなかを通って
       いたら、旧式のトースターが置いてあった。

       あ、まだ売ってるんだ、いろいろ家電も進化して
       便利なものが出てきているけど、
       昔なつかしいグッズを買う人もいるのかもしれない、
       と思った。

       ところであなたは
       朝食はご飯派、それともパン派?

       私はここ何十年もパン派。
       旅に出てホテルでもパンとコーヒーを選ぶ。

       聞いてみると、
       子供が女の子だと、ずっとパン派が多いけど、
       男の子だと、中学生くらいになってパンでは
       足りなくて、ご飯派に変わる家が多いらしい。

       ここにご主人の意見がないことが可笑しいけど
       ……(笑)。

       そういえば、昔はトーストを焦がすことが
       よくあったっけと、
       とんでもないことを思い出す。

       「トーストが黒こげになる このことは
             なかったことにしませう」
                      香川ヒサ

       この作者は年輩のご婦人であろうか。
       それにしても
       「なかったことにしませう」
       なんて、余裕たっぷりでシャレている。

       若かりし日の私は黒こげのトーストをみて
       「あ、またやってしまった!」と
       (自分に)腹立たしくて、フォークで黒こげを
       落として食べたりしたけれど……。

       現在の私は多機能オーブンで焼くから黒焦げ
       はめったにない。
       
       そのかわりといってはナニだけど、
       朝から猛暑を予感する暑さに、パンをかじり
       コーヒーを飲みながらうんざりする。

       昨日、九州南部で梅雨明け宣言があったばかり、
       関東はまだなのに、今日なんて雲ひとつない
       晴天なのだ。

       「トーストの焼きあがりよく我が部屋の
               空気ようよう夏になりゆく」
                        俵 万智

       そうか、トーストの焼きあがりにも季節感が
       感じられるものなのか。

       来週になれば、学校も夏休み。

       間もなく蝉も鳴きだすだろう。

       「トーストの耳まで焦げて蝉しぐれ」
                     大城戸 晴美                       

       
      
       

パンダにみる日本外交

2017-07-09 08:41:57 | 雑記


       東京・上野動物園で5年ぶりにパンダの赤ちゃんが
       生まれた。
       赤ちゃん誕生のニュースはNHKはじめ民放でも
       各局、おめでたいニュースとして報道していた。

       また都では赤ちゃんの名前を募集すると、
       先日、小池都知事が話していた。

       明るい話題には違いないが、日本人はなぜ、かくも
       パンダに執心するのか。
       考えると、不思議な現象である。


       かつて1960年代の日本にとって、
       中国は「革命の国」であった。
       それが「パンダの国」にイメージが変わったのは
       70年代である。

       72年2月の連合赤軍による「あさま山荘事件」が
       分岐点だったと、新聞はいう。

       アメリカのニクソン大統領が毛沢東主席の中国を
       訪問し、私もそのシーンをTVでみていた記憶が
       ある。

       日本では同じ年の7月に田中角栄内閣が発足し、
       角さんは就任間もなく北京に飛び、歴史的な
       日中国交正常化が実現したのだ。

       そのシンボルとして贈られたのが
       カンカンとランラン、2匹のジャイアントパンダ
       だった。

       あのときの狂乱に似た騒動は多くの方の記憶に
       残っているであろう。
       上野動物園にはパンダ目当ての人が殺到し、
       2~3時間待って〈観覧はたった1分〉と
       いわれた。

       私もブームが去ってから動物園に行ったが、 
       パンダのお尻しか見えなかった。

       当時、日本は高度経済成長の真っただ中で、
       アメリカ流の消費社会も過度に進んでいた。
       一方で公害問題も加速していた。

       日本は、パンダの故郷の中国に、
       自然と繁栄の調和をみたのであったか。
       パンダは竹林でのんびり暮らす自然の生き物の
       象徴であったから。

   
       やがて中国も環境汚染が深刻化し、北京の
       PM2・5が大きな問題となった。
       「成り金の国」「脅威の国」のイメージが先行
       して、日本人の嫌中ムードをあおった感がある。

       そして記憶にも新しい、中国人観光客による
       「爆買い」である。
       最近は落ち着いたのであろうか。

       中国は同盟国であるソ連や北朝鮮に真っ先に
       パンダを贈り、アメリカ、日本に対しても
       パンダ外交を展開してきた。

       さすがに昨今ではパンダの政治性は薄れてきたが、
       日本ではパンダ出産が国民的ニュースになるなど、
       そんな動物は他にはいないであろう。

       さて、
       こんどのメスの赤ちゃんにはどんな名前がつくの
       だろうか。


       ※ 家人が先日、中国出張で買ってきたパンダ
       
       
       
       

       

センスあるユーモア

2017-07-08 07:25:13 | 雑記



        7~8年前のことになるが、
        新宿まで出て用事が思いのほか早く終わり、
        映画を観たことがある。

        窓口をみると
        「(65歳以上)シニア割引」の看板が。

        あっと思った。
        証明するものが何もない。
        突然のことだから、免許証や保険証も持参
        していなかった。

        おそるおそる窓口で聞いた。
        「あのう……」

        「あっ、大丈夫ですよ。シニア割引ですね」

        すんなりOKが出た!
        嬉しさ半分、やはり老けて見えたんだ、と
        いう複雑な思い。

        今となっては何の映画を観たのかさえ記憶に
        ないのに、時折、この時の光景がまざまざと
        浮かんできて、思い出し笑いをしてしまう。

        昨日、知人からこんな話を聞いた。

        知人は72歳。
        体調が悪く外出をひかえていて、
        気分転換に10年ぶりに映画を観にいくこと
        になった。

        シニア割引のことを家族から聞いていたので
        健康保険証を持って。
        
        感心したのは知人の、咄嗟に出た言葉だった。
        「若く見られるので保険証を持参しました」
        「本当にそうですね!」
        この窓口のお姉さんの対応も素晴らしい。

        知人は体調がすぐれないのも忘れて、
        その日はすっかり爽快な気分になったそうだ。

        何かにつけ高齢化がマイナスイメージでとらえ
        られる昨今、
        こうしたユーモアのある対応で少しでも
        ストレスをためないで愉快に生きたいものだ。


        ※ 家人が友人の絵画展にいって衝動買いして
          しまった絵
          「切り絵」のようなもの。
          題は「リラックス」
          「TAKESHI」のサインがある。
        
     
        

        

大宅壮一文庫

2017-07-02 07:30:27 | 雑記


       雑誌の図書館・大宅文庫のニュースを新聞で
       みて懐かしさがこみあげてきた。

       20年も前になるが、
       私も一時、調べたいものがあって大宅文庫に
       通ったものである。

       大宅文庫は東京都世田谷区にある。
       まず、図書館というより、ふつうのお宅の 
       たたずまいに驚いた。
       それもそのはず、
       大宅壮一(1900~1970)の自宅を
       改造して図書館にしたのだ。

       あのとき、私は何を調べていたのだろう。
       今となっては定かではないが、
       一般の図書館では間に合わなくて、
       大宅文庫にたどり着いたのだった。

       さらに付け加えれば、
       当時の私は、簡単で安易なネット検索より
       実際に本や雑誌のページをめくって調べる、
       完全にアナログ人間だったのである。

       スタッフはベテランというより、学生風の
       人が多くて、それも一般の図書館とはちがう
       雰囲気だった。

       明治から平成までの約1万タイトルの雑誌、
       ほぼ78万冊を収蔵している。
       どんな問題もスタッフに相談すれば、解決に
       つながる、という印象をつよくした。

       その大宅文庫が利用者の減少で、経営難に
       陥っているという。
       やはり、このインターネット時代に、いちいち
       出向いて雑誌を手にする悠長さがそぐわなく
       なったのだろうか。

       一方で、
       ネットに問題を投げかけることで知名度も
       あがり、予想外の寄付金も集まっているの
       だという。

       どこの世界も生き残るのは至難のわざ。
       なんとか大宅壮一氏の遺志を継いで、
       存続してほしいものだと思う。
       

ウインウイン  ニャンニャン

2017-07-01 07:27:51 | 雑記



      気象病かストレスか、
      (多分、その両方)
      腰の痛みが増して、整体に行ってきた。

      受付けの女性が気をきかして、
      すぐに新しい週刊新潮を持ってきてくださる。
      だから10分くらいの待ち時間は気にならない。

      毎度いうが、私は五木寛之のエッセイのファン
      である。
      今週はこんなのがあった。

      ちょっと前から頻繁に使われるようになった
      「忖度(そんたく)」という言葉。

      いまだ解決をみない、例の森友学園問題で使われ
      はじめたのだが、それが派生して誰も彼もが
      使うようになった。

      例えば、家庭内で、
      妻「今日は何するの?」
      夫「いちいち忖度するなよ」
      妻「忖度じゃないわよ。聞いているのよ。
        昼食の準備もしなくちゃならないし」

      この場合、出かける用事がある夫はまだマシと
      云えるか。
      逆にお稽古ごとで出かける妻に恨みがましく
      「どこ行く。何時に帰るの?」
      という夫もいるのだから。

      「忖度」とは
       他の人の心を推しはかること。
      もともと悪い意味で使われる言葉ではないが、
      例の一連の報道でマイナスイメージがついて
      しまった。

      昨今、ちまたではこんな使われ方もするそうだ。
      チーママ「そんなに(私に)飲ませてどうする気?」
      男客「そんなに忖度するなよ」

      この場合、「邪推」であろう。


      話は変わるが、
      「ウインウイン」という言葉。

      政策問題で時々、耳にする。
      両国にとって都合がいいこと。
      「日中がともに発展するウインウインの関係は」
      といった風に使われる。

      もともとWin Win から来たと思えば納得する。
      もっとも、それほど調子のいい話はないだろうが。


      分からないのは
      「ニャン ニャン」。

      これは男女がイチャイチャする意味か。
      どうやら、
      まだ未成年の人気女性アイドルが男友達と
      「ベッドでニャンニャンした後、一服している」
      写真がスクープされたことに端を発するらしいが、
      こちらは品のない、後味のわるい話だ。

      
      今日から7月、
      下半期に入った。
      気をとりなおして行こう。