一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

仏像展

2011-07-27 21:04:03 | 雑記
   

     暑いさなかというか、暑くて何をする気も
     起こらないので、鎌倉国宝館(鶴岡八幡宮
     の一郭)でやっている仏像展を観にいった。

     何かにつけ”神サマ仏サマ”と拝むくせに
     仏心とはほど遠く、これまで仏像とは縁が
     なかった。
     仏像は人生最後の趣味(盆栽もそういうよ
     ね)、仏像にはまったらその奥深く深淵
     な世界から抜け出すことができないような
     気がしていたのだ。
     (ああ、これからして何と無知で罰当た
     りな放言!)

     じりじりと焼けつくような八幡宮の境内
     を横に抜けると、そこが宝物館(写真)。
     中はひんやりとして、さすがに観光客も
     ここまでは来ないらしく、訪れる人も
     ちらほら。

     入ってすぐ鎌倉を代表する大振りの仏像
     が迫ってきて、圧巻である。
     仏像を愛する人にとってはたまらないだ
     ろう。
     円応寺、寿福寺、英勝寺、浄智寺、円覚
     寺など馴染みのある寺院所蔵のものが並
     んでいる。

     ふだんはお寺や神社のお堂の奥に鎮座ま
     しましている仏像たちである。
     昔の人は仏像にどのような願いをこめ、
     また今日まで大切に守り伝えてきたのか。

     入門篇にも達していない私だが、自然と
     手を合わせ、あのことこのことを願わず
     にはいられない。
     その1つに東日本大震災で亡くなった人
     たちの鎮魂と、被災地の復興があること
     は確か。いまだ不安に駆られている人々
     に一刻も早く曙光が訪れることを願って
     やまないからである。

     それでも不謹慎な私、土紋は精緻だが、
     寸詰まりな韋駄天とか、デフォルメが
     効きすぎた鬼卒には笑ってしまう。
     また、誕生から死ぬまでの罪業を逐一
     閻魔サマに伝える役柄(?)の仏像も
     あって、これには参りました。

     国宝館を出ると、夕方に差しかかって
     隣接する木立ちからはヒグラシの鳴き
     声がしきりと聞こえる。
     そういえば前回、ミンミンゼミの初鳴き
     と書いたが、翌日からはヒグラシが一斉
     に鳴き始めたのだった。
     
     

はじまるもの、終わるもの

2011-07-24 17:51:14 | 雑記


     今日でTVのアナログ放送は終了し、完全に
     地上デジタル放送となった。
     私自身は1年半前にTVと録画デッキの不調
     でデジタル対応の薄型TVに替えていた。
     さらに引っ越しの際にケーブルTV(家人の
     好みで)に替えたのでチューナーも取りつけ
     ていた。
     
     よって実害?もない替わりに何ら感慨もない
     のだが、あんなに騒いでいた?印象のあるア
     ナログ放送が消えて、電波塔から送られる
     電波がすべてデジタル波だけになるかと思っ
     たら、超アナログ人間としてはちょっと淋しい
     気もしてきた。

     NHKがTV放送を開始(昭28)して今年
     で58年、実際に家庭に普及したのは
     昭和34年の”ご成婚”の時だから52年目
     になる。
     つらつら考えるに、力道山のプロレスにはじ
     まり数々のスポーツ番組、何回かあったオリ
     ンピック中継、ベルリンの壁崩壊といった歴
     史的事件も居ながらにして観ることができた。

     近々では、不幸な出来事であったが「東日本
     大震災」。
     そしてついこの間の女子サッカー・なでしこ
     JAPANの世界一に輝いた快挙!
     こちらはうれしく感動的で勇気ももらった。
     アナログ放送の掉尾(とうび)を飾るのが
     日本女性の活躍というのは何か象徴的のよう
     にも思える。

     こうして一つの区切りがつき、今夏はじめて
     の蝉鳴を今日聞いた。
     こちらは夏休みのはじまりといった、みんみ
     ん蝉。
     そういえば今日、わが家にカブトムシがやっ
     てきた。今朝買物にいったスーパーで先着何
     名様?に配っていたのをもらってきたのであ
     る。
     
     珍客のカブトムシ、昨日のお客の残りのスイ
     カをやったらしっかり食らいついている。
    
     
     
     

「戦後」そして「震災後」へ

2011-07-19 15:53:23 | 雑記


    経済白書が日本経済における技術革新を
    発表し、「もはや戦後ではない」が流行語に
    なったのは1956年(昭和31)。
    それからというもの、何かというと「もはや
    ~」といわれ、物事をはかる物差しのように
    なったが、3.11以降は「震災後」がひと
    つのキーワードのようになっている。

    このところの酷暑、極暑で戦意喪失。
    今風にいえば、まったくモチベーションがあ
    がらない。震災以降の緊張感が(解消される
    のでなく)変則的に溶解したり、切断したよ
    うな感じなのだ。

    ならば、とすべてを放って、好きな書物でも
    ひらくしかない。
    といって手に取ったのが吉村昭の本。
    私は5年前に亡くなった氏のファンで、歴史
    小説ひとつ取っても綿密な取材方法や、人間
    を描く手法に絶大な信頼をいだいている。
    あざとさなどない、誠実な人柄をあらわすよ
    うなエッセイも大好きだ。
    その中にこんなのがあった。

    1927年(昭和2)、東京生まれの氏は、
    子供のときから東京大空襲の話を聞かされ、
    米軍のB29戦闘機による東京大空襲(昭和
    20.3.9)は身をもって体験した。
    焼夷弾が自宅やその周辺に落ちたとき、食料
    品や衣類を入れたリュックを背負って逃げよ
    うとしたら父親から、
    「荷物などかつぐな。手ぶらで逃げろ」
    と怒鳴られた。
    
    事実、関東大震災(大正12)でも荷物など
    背負っていた人はそれが延焼物となって焼死
    し、むしろ着のみ着のままで逃げた人の方が
    助かっているらしい。
    (当時でも24時間過ぎた頃には食物、水が
     届き、餓死した人は皆無だった!)

    そして、当時の大八車や荷車が道路をふさい
    で火消しの障害となったことを警告している。
    家財などを積んだ荷馬車や大八車は今日で
    いえば自動車(車)であろう。
    車はガソリンを内臓しているので、荷車の比
    ではない。それ自体が発火物だ。

    さらに今回の東日本大震災は原発という、
    これまで経験したことのない、そして最も
    危険性のある課題を背負うことになった。
    「歴史はくりかえす」    
    私たちは関東大震災や東京大空襲、その他の
    災害……近年では阪神大震災の教訓から学ば
    なければならない。
    そして、新たに加わった原発事故はもっと
    もっと検証して、国民みんなが知らなけば
    ならない。人類はこのことでロスタイムを
    これ以上、取る余裕はないはずなのだから。
    
    (写真は鎌倉八幡宮の蓮池)
    
    

    
    
    
    
    
    
        

 

閑話休題

2011-07-16 19:09:41 | 雑記


   本来なら引き続き「読書」欄となるはずですが、
   この猛暑、酷暑、極暑、激暑、炎暑のなか、
   しばし閑話休題を。

   この間の「お墓にひなんします。ごめんなさい」
   のニュースには心底、心を痛めた。
   「毎日原発のことばかりでいきたここちしませ
    ん……」
   といって自ら命を断った93歳の女性。
   無念だったろう、悔しかったであろう。
   
   (福島県)南相馬市は私の故郷であるが、知っ
   ている人ではない。だが、親戚、知人、友人も
   みな同じようなことをいっており、現在はわが
   家に帰っている人もいつまた、危険区域に指定
   され避難させられるかもしれないと、日々落ち
   着かない心持でいるのだ。

   そんななか、福島第一原発から5㌔以内のため
   着の身着のまま逃げて、現在は南会津郡只見町
   に避難している姉のところの嫁さんから写真の
   ような絵手紙が届いた。
   折をみてお見舞いやら食品などを送っているこ
   とに対してのお礼なのだが、一家7人で家を
   借りて生活の再建をはかっている。
  
   姉のところは100年以上つづく果樹園なのだ
   が、原発事故のために帰れる見込みはなくなっ
   た。
   そのため早くから転機をはかり、孫たちはこの
   春、新しい学校に転校した。
   大黒柱の息子は新天地で新しい仕事をみつけ、
   その嫁さんも「さんべ農園」というところで
   お手伝いをしているという。
   文字通り「畑ちがい」だが、これまでやった
   ことのないお米やトマトの栽培が新鮮で発見
   の毎日だというのだ。
   
   周囲をみても、悲嘆に暮れる人、不便をかこ
   つ人、愚痴三昩の人……かと思うと無理やり
   テンションを上げていこうとする人(?)…
   …とさまざまである。
   逃避するのでなく現実をしっかり見ながら前
   に1歩進むのは簡単なようで難しい。

   私がその立場に置かれたらきっと、わが身の
   悲運を嘆き、政府に悪態をついて、日常的には
   ちっとも進展しない、役立たずの人間なのだろ
   うと、ひそかに反省した。

   ところで絵手紙をくれた嫁さんの姑である(私
   の)姉は、というと、同じ町の人たちと上京し
   て日比谷でデモ行進をするといっていた。
   「東京は暑いよ!」というと、
   「ハイ、そのために涼しくなるグッズをいっ
   ぱい買ったから」
   といっていた。
   (その12日のデモ行進の模様はTVで報道
    されていた)


 
  

『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』その2

2011-07-13 15:51:45 | 読書

  
    それは実に個性的な友人たちであった。

    勉強は嫌い、成績も最悪だが、性に関しては
    「圧倒的絶対的権威者」だったギリシャ人の
    リッツア。
    そのリッツアがドイツで医者をしているという。
    どうして医学部に入れたの? いつから勉強す
    る気になったの? まさか賄賂やコネを使った
    んじゃないよね。 会うまで信じられなかったが、
    旧友は本当にドイツで開業医をしていた。
    しかも労働者の夫のドイツ人との間に男の子が2人
    もいるという。

    なんとリッツアは、プラハの名門カレル大学の
    医学部を猛勉強の末に卒業したのだった。
    いわく、「私みたいに大して頭のよくない貧乏
    人があれだけ本格的な教育をうけられたのは、
    社会主義体制のおかげかもしれない」
    かつてギリシャの真っ青な空と海を自慢してい
    たリッツアであったが、結局祖国には帰れずじ 
    まい。

    昔、ふっくらとしていて「雌牛」というあだ名
    だったアーニャの口癖は、
    「両親は労働者階級のために日夜、ブルジョア
    階級と闘っている」というもの。
    ところが一家の暮らしぶりは、その打倒すべき
    「ブルジョアそのもの」だった。

    本書のタイトルは、あまりにも彼女が天真爛漫
    に嘘をつくことからきている。
    イギリス人と結婚し、子供をもうけ、旅行雑誌
    の副編集長をしているアーニャはまさに人生の
    「勝ち組」なのだ。
    あれほどルーマニアを愛し、祖国の民族意識の
    高かった少女は、いまやロシア語をすっかり忘
    れ、英語一辺倒である。

    「勝ち組」にいて何でも自己正当化する旧友に、
    作者の万理は違和感を禁じ得ない。
    「あの頃は私もあなたも純真無垢に体制を信じ
    切っていたわね」とか、
    「今の自分は10%がルーマニア人で90%が
    イギリス人」などと平然とのたまうアーニャ。
    
    悪びれもせず、いかにも「誠実そのもの」の旧友
    は、自分の言葉に疑いなど持つはずもない。
    これが「嘘つきアーニャ」の「嘘つきアーニャ」
    たる所以(ゆえん)なのだろう。

    絵が上手で芸術においては天才肌のヤスミンカは
    画家になる夢をあきらめ、医者と結婚し、通訳の
    後にフリーの翻訳者となった。    
    「ずば抜けて頭脳明晰でクール」という昔の第一
    印象は変わらない。

    かの激動の時代の渦中にあり、また傍観者でも
    あった米原万理。
    本書は彼女にしか書けない「真実の物語」なの
    かもしれない。
    
     ☆ ☆ ☆
    写真は鎌倉に越してから犬と散歩する米原万理。
    設計するのが好きで、設計士になりたいといって
    いた万理だったが、自分の設計で建てた佐助の
    家には5年しかいられなかった。

    
    
    


    

    
  
    
    

    
    



    
    

    



     

『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』その1

2011-07-09 15:29:06 | 読書


    TV映像的にナレーションをつければこういう
    ことになろうか。

     (19)60年代、チェコの首都プラハのロ
     シア語学校で4人の少女が出会った。
     アーニャ、ルーマニア人。
     リッツア、ギリシャ人。
     ヤースナ(ヤスミンカ)、ユーゴスラビア人。
     そして万理、日本人。
     4人の少女は卒業後、一度も会うことはなか
     った。
     その間に時代は激動して社会主義は崩壊し、
     東欧諸国の運命も大きく揺れ動いていった。
     その後、みんなどうしているのだろうか。
     そこから万理の少女たちを訪ねる旅がはじ
     まるのである。

    実際、日本に帰国後、紆余曲折をへてロシア語
    通訳となった米原万理は、ソ連崩壊後の混乱の
    日々に忙殺されながらも、旧友たちの安否が気
    になって仕方がなかった。
    そして、ロシアの要人の突然の訪日中止という
    休暇を利用して彼女らを探す旅に出たのである。

    「リッツアの夢見た青空」
    「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」
    「白い都のヤスミンカ」
    の三編からなる本書は文庫本で100頁と決し
    て長くはない。
    ところがその内容たるや実に豊富な知識で埋め
    つくされ、政情や歴史抜きには考えられない
    社会情勢など、単なる一人の少女の成長過程や、
    一人の女性のキャリアを紹介するに留まるもの
    ではない。
 
    考えようによっては重くなりがちなテーマを、
    作者はその軽妙洒脱な切り口でバっサバっサと
    小気味よく切っていく。
    それこそ米原万理の魅力で、読者はたちまち
    その術中にはまってしまうのである。
    ところでなぜ「嘘つきアーニャ」となったか、
    それは次回にゆずることにしよう。

    
    
    

米原万理 

2011-07-05 17:36:53 | 読書



     この1ヵ月超、ちょっとしカルチャーショック
     というか、精神的には低迷していてなかなか
     気持ちの切り替えができないでいた。
     それは米原万理という作家にハマって?いて
     彼女の特異な経験、それに因る独特な洞察力、
     豊富な表現と語彙力に圧倒され、わが身の文
     章力のなさに落ち込んでいたからだ。

     ロシア語同時通訳者にしてエッセイスト、小
     説家の米原万理。
     こういうキャリアからしてほとんど無縁の人
     であり、彼女が生前、コメンテーターとして
     TVに出ていたことすら知らなかった。

     だがこれは私の不明からくるもので、無知を
     恥じなければならない。果たして、ある会合
     で知り合いになったアラフォー女性は、米原
     万理の代表作を知悉していて、以前から読者
     であるといっていたから。

     米原万理は亡くなるまで鎌倉の佐助というと
     ころに住んでいて、その縁で文化講演があり、
     鎌倉文学館で特別展がおこなわれたようだ。
     こちらのミーハーぶりを承知でいうと、実妹
     のユリさんは故・井上ひさし氏の奥さんだと
     いうことも今回知った。
     (講演会はその井上ユリ氏と、万理さんと
      交流のあった作家・池澤夏樹氏の2人で、
      万理ワールド初心者の私にも面白かった)

     米原万理にもどると、
     1950年東京生まれ、2006年卵巣癌で
     亡くなっている(56歳)。
     小3(9歳)のときに、父の仕事の関係でチェコ
     の首都プラハに移り、帰国したのは中学2年
     (14歳)のときである。
     父は日本共産党の常任幹部。

     この9~14歳の異文化体験が後の作家、万理
     を創る基礎となったのだろう。
     現地では後々ロシア語ならつぶしがきくだろう
     という両親の考えで、ソビエト学校に通い、ロ
     シア語で授業を受けていた。

     でも半年間は全く分からないロシア語の授業に
     地獄だった。
     学校には50ヶ国もの国の子供たちがいて、そ
     れぞれに祖国を背負っているような感じだった
     とも語っている。
     それが作家となってからの作品に投影され、ま
     た彼女の持ち味ともなるのである。

     写真は特別展のチラシから。

    
     


     
            
     

七夕の願い

2011-07-02 17:40:28 | 雑記


     先日、故郷を離れて埼玉に避難している知
     人の共通の友人たちが集まってミニ激励会
     を都内某所でひらいた。

     身内や親戚など近しい人から聞くのとは違
     って、こちらに構えるところがないせいか、
     かえって切実で、真に迫るところがある。
     実をいうと、この人から前に手紙をもらっ
     たとき不意に涙が出て、自分でも驚いた
     という経緯がある。
     (震災で涙が出たのははじめて。いつもは
      ”泣いている場合じゃない”といった張
      り詰めたものがあって、涙すら出なかっ
      たのだ)

     このご夫婦が地震当日のことをつらつら語
     ったところによるとーー
     「鶏舎の揺れが激しくて何が何だか分から
      なかった」
     「驚いたことに鶏は喉が詰まったように鳴
      き声もあげないんだよ~」
     (実際はけたたましく鳴き叫んだと思うが
      こっちの神経がおかしくなって聞こえな
      かったのではないか)
     
     津波が来た瞬間の記憶は
     「(後で思えば)30~40分あったかな。
      津波は何の前触れもなく(地響きするわ
      けでもなく)、静かに目の前にやってきた」
     幸いにも自宅の100m先で止まったのだ
     った。

     余震がつづく中、ヘリコプターがさかんに
     旋廻し、ただちに高台に逃げるよう呼びか
     けていた。
     車で逃げた人や、家に戻った人は助からなか
     った。
     夫妻は何も持ち出さず、無我夢中で腰が抜け
     そうになりながら高台に走った。

     以上が断片的に聞いた話である。
     人間が極端に緊張した場合はこんなかもしれ
     ないと、こちらにもそれが伝わってくるよう
     だった。
     
     激励会は食べて飲んで、最後には「明日の一
     条の光を求めて」というくだりで笑いも飛び
     出した。
     果たして励ましになったかどうか分からない
     が、こうした機会を持って(話を聞くことで)
     当事者の心の解放につながればいいと思った。
     最後に、
     「家に帰りたいだろう。帰りたいよなあ」
     という話しかけに無言でうなずく知人夫妻。
     後はどういっていいか、こちらも言葉に詰ま
     るのだった。
     それは避難しているみんなの願いでもある。

     ※私の著書に関して寄せられたみなさまから
      の義援金は、先日ちょっとまとまった金額
      にして、故郷の図書館に送らせていただき
      ました。
      (窓口がたくさんある中、個人的に寄付す
      るのはどうなんだろうと思って直接尋ねた
      ところ、図書館側ではとても有難い、その
      方が使いやすいという返答があったので)
      みなさまにはこの場を借りて、ご報告と
      感謝の気持ちを述べさせていただきます。

     写真は出かけた折にみた「つるし雛の七夕」