一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

人生の終(しま)いかた

2016-05-29 07:17:05 | 読書


       先日、NHKテレビの特集で
       「人生の終いかた」という番組をやっていた。

       ガンで余命○○年といわれた人の「終いかた」。
       70代、80代、なかには幼い子をもつ30代
       の若き男性もいた。

       見終わって思うことはドラマや映画のように、
       「ありがとう」「私の人生は幸せだったよ」
       等と涙をながし、手を取り合ってむせぶような
       シーンは無かったこと。

       明日は昨日のつづき、日常の連続のなかで
       死がおとずれ、その日常が断ち切られるという
       印象がつよかった。

       生と死は隣り合わせなのである。
       ならば、突き詰めると、こういうことになるか。
       「毎日いかに生きるかが、いかに死ぬかにつなが
        る」

       詩人の茨木のりこさんは一人で亡くなった。
       (2006.2.17 享年79)
       いわゆる孤独死である。
       訪ねてきた甥が見つけた。

       遺書が残されていて、こう書いてあった。

       ≪このたび 私 くも膜下出血にてこの世をおさらば
        することになりました。
        これは生前に書き置くものです。私の意思で、
        葬儀、お別れ会は何もいたしません。
        
        この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の
        品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。
        返送の無礼を重ねるだけど存じますので。        
        「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬思い出
        して下さればそれで十分でございます。
        あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかな
        おつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸に
        しまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊か
        にして下さいましたことか……。
        
        深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて
        頂きます。
        ありがとうございました≫

        いかにも茨木のり子らしい、簡素で毅然とした
        別れのことばである。
        そこには孤独死なんて陳腐なことばは似合わな
        い、「死」をたんたんと受けとめる彼女の「生」
        の最期の表現があるのみである。


        ※ 『清冽』 後藤正治著 中公文庫
       
       

しゃれにならない

2016-05-28 08:22:02 | 雑記



      近頃の女の子の歌手グループ、いくつかあって、
      どれがどれか全く区別がつかない。
      TVでみてメロディに耳を傾けることはあるが、
      耳が遠くなったのか歌詞が聞き取れない。

      したがってほとんど興味もないのだが、
      新聞で知った情報である。

      ♪ 女の子は可愛くなきゃね
        学生時代はおバカでいい

      秋元康氏作詞によるアイドルグループ
      「HKT48」の歌だそうだ。

      なんでも
      「アインシュタインよりディアナグロン」に
      「女性蔑視」であると批判が起きていいるの
      だとか。

      それをある女子大が授業で取り上げて、
      「学生時代おバカだと、一生おバカ」
      「内面からも人は輝ける」
      といった反論が相次いでいるにいたっては
      いやはや、といった感である。

      作詞家の秋元氏が本気でいっているとは
      思えないが、でも、しゃれにしても
      いただけない。

      私もここで大上段にかまえる気はもうとうない。
      と断った上で、あえていっておこう。

      「女の子は恋が仕事」なんてセリフを女の子に
      歌わせるのは時代おくれもはなはだしい。
      今は女性も働き、知識や聡明さもないと生きて
      いけない時代。
      昭和的価値観を強調するのはお遊びにしては
      冗談が過ぎる。


      ※ わが家の庭のジューンベリー
        もう少しで熟すが面倒くさくて食べない。
        ほとんど見るだけ。
   
                
      

声のはなし

2016-05-22 08:37:01 | Weblog



      最近はあまりないが、以前ラジオをよく聴いて
      いた。
      往年の歌手が出てきて、ン十年前に大ヒット
      した自分の持ち歌をリクエストに応じて披露
      することがある。

      聴取者であるこちらも懐かしく、あの昔日の
      感動を再び!! と一瞬胸が高鳴るが、
      聴いてみたら……
      う~んと(はっきりいって)失望することが
      何回となくあった。

      こんなとき私は、

      昔のあの歌が聴きたいのに!
      なぜ昔のように歌わないのか?
      (なかにはキーを替え、変曲まがいのもある)
      歌手として聴取者をバカにしているのでは?
      第一、歌手であったご自分に失礼ではないか!
      はたまた、
      歌わせる番組制作者もわるい!
      (ほとんどNHKだったが)

      等々、本気で怒っていた。

      だが、最近になって気がついた。
      これは本人の怠慢ではなく声帯の問題なのだと。

      いくら人気歌手でも歳はとる。
      年齢とともに声帯がおとろえ、ピーク時のよう
      には歌えないのだ。
      (本人がいちばんそれに気づき、悩んでいるに
       相違ない)

      こんなことを思うようになったのは、私が声の
      出し方が下手で、最近すぐ喉が痛くなったり
      声がかすれたりするからである。

      声は喉仏の下にある声帯を震わせることによっ
      て出るらしい。
      この声帯をピンと張って激しく震わせると
      高音が、反対に力を抜いて震わせると低音が
      出るという。

      人間の筋肉は年齢とともに弱々しくなると同時
      に、声も高い音が出なくなる。
      男女ともそうだが、ことに女性の方が著しい
      らしい。
      (そういえば、女の子の声はキンキン高い!)

      女児の声がほぼ350ヘルツなら
      (1秒間に350回の振動)
      成人女性が270ヘルツくらい。

      それが齢を重ねると、180ヘルツくらいまで
      減るという。

      さらに、それをピアノの鍵盤にたとえると、
      20歳のときから比べて70歳は
      鍵盤で5つほど下がる、
      というから、これ以上いわずもがな。

      憤るより前に、生きとし生きるもの、自然の
      摂理を知ることが先決であったようだ。


      ※ 時々歩く散歩道の一つ
      

      
      

      


      

総論賛成、各論反対

2016-05-21 07:19:29 | 雑記



       総論賛成、各論反対といえばツバメの巣。
       他家の軒下にツバメ巣があるのはほほえましいが、
       我が家にやられたらちょっと……というクチである。

       2~3日前、街を歩いていたらツバメの巣を見た。
       同じ日に2回も。
       1つは雑居ビルの入り口で、
       もう1つはコンビニ(セブンイレブン)の外壁に。

       コンビニでは糞が落ちないように、厚紙で受け皿
       のようなものを作っていた。
       ピーチクパーチク、小鳥の鳴き声が賑やかなので
       上を見たら巣があったのである。

       昔からツバメが巣を作ると縁起がいいといわれて
       いるが、本当だろうか。
       商店街で人がたくさん出入りするところに巣を
       作られたら、店主にとっては迷惑ではないのか。

       たしかに、その日に寄った衣料品店では
       (その店には巣はないのだが)
       近くにあるため、店先に出している品物に鳥の
       被害がかからないよう、苦慮していた。
       
       しかしながら、ツバメはカラスや猫といった
       天敵を避けるために、人の出入りの多い場所に
       巣を作る。

       人の出入りが多いということは、つまり
       その店が繁盛しているということ!

       こういう方式が成り立つのかもしれない。

       ツバメは渡り鳥だから、いろいろな環境を察知
       する能力にたけていて、
       温度、湿度、安全性を第一に居心地のいい所に
       巣をつくるのだろう。
       人間の思惑を考慮できないのは、
       ツバメにとっては誤算だったわね。

        

自分の感受性くらい

2016-05-15 08:18:12 | 読書



       「自分の感受性くらい」

       ばさばさに乾いてゆく心を
       ひとのせいにはするな
       みずから水やりを怠(おこた)っておいて

       気難(きむず)かしくなってきたのを
       友人のせいにはするな
       しなやかさを失ったのはどちらなのか

       苛立(いらだ)つのを
       近親のせいにはするな
       なにもかも下手だったのはわたし

       初心(しょしん)消えかかるのを
       暮しのせいにはするな
       そもそもが ひよわな志(こころざし)に
                    すぎなかった
       
       駄目なことの一切を
       時代のせいにするな
       わずかに光る尊厳の放棄(ほうき)

       自分の感受性くらい
       自分で守れ
       ばかものよ

     
     茨木のり子さんの詩の代表作のひとつである。
     一語一語心にぐさっと刺さるので、あえて
     全部を掲載させてもらった。

     必要があって茨木さんの著書をすべて読んでいる。
     これは茨木さん50歳のときの詩。

     同じく彼女の詩に「わたしが一番きれいだったとき」
     というのがあるが、
     「自分の感受性くらい」もまた、戦時中の青春時代
     を思い出して書かれたものである。

     パーマ禁止、きれいな着物もいけない、云いたいこと
     も云えない中、なぜ美しいものを求め、思ったことを
     口にしてはいけないのだろう、と思っていたと語って
     いる。

     好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、自分の感性を
     信じていいのじゃないか。へんなものはへん、と。
     自分の感性こそ、生きる軸になるのだと茨木さんは
     思ったという。

     私は詩の終連の
     「自分の感性こそ 自分で守れ ばかものよ」
     を読むたびに、自分のことを云われているような気が
     して頭をかかえていたが、
     これはご自分へ投げかける言葉だったのだ。

     しかし、それにしても、
     日々ばさばさと乾いてゆく私自身の、あるかなきかの
     感性を何とかしなくちゃ。
     この詩を読むたび、私のこころも深く揺さぶられる。


     ※ 私の部屋の窓から見える隣家の野ばら
       

人生の旬

2016-05-14 17:36:43 | 自然



      近所にもまだ竹藪が残っていて、
      通りがかりに見ると竹の子が顔を出している。
      
      名人は靴底の感触で竹の子を見つけるらしい。
      なんでも、まだ土にもぐっているくらいの
      方がもっともやわらかくおいしいのだそうだ。

      写真のように土から出ているのは伸び過ぎて、
      売り物にはならないのだろう。

      なんといっても竹の子はいまが旬。

      まだ子供だったころ、年寄りが
      「旬のものを感謝して東の方を向いていただい
      たら75日長生きする」
      などといっていたが、それだけ貴重だったと
      いうことだろう。

      ところで、
      人生にも旬があるのだろうか。

      物事を行うにももっとも適した時がある。
      幼児期、学童期、青春期……と旬をかさね、
      そしていま老年期。
      幸いにいまも生かされているのだが。
  
      旬の間ははつらつとして動作、表情も生き生き
      として元気なことは云うまでもない。

      作家の工藤美代子さんは
      「どんな男にも、そして女にも、旬の季節と
       いうものがある」
      と書いています。
       (「恋づくしーー宇野千代伝」)

      残念ながら渦中にあるときはそれに気づかず、
      かなり過ぎてからそれに気づくのです。

      しかし、多少負けおしみに聞こえようとも、
      20代には20代の、そして老後には老後の旬
      があるはず。
      時を経て分かる山菜の滋味のように。

      自分で旬を創りだすことが”本当の旬”なのか
      もしれない。

      
      
     
      

戒語

2016-05-07 07:35:51 | 読書


     最近、良寛に『戒語』九十ヵ条があるのを知った。


     一、 言葉の多き
           (口数の多い)
     一、 口の早き
           (早口である)
     一、 話しの長き
           (話が長い)
     一、 もの言いのくどき
           (物言いがくどい)
     一、 人のもの言いきらぬうちにもの言う
           (人が話しているのに遮ってものを言う)
     一、 よく心得ぬことを人に教える
           (よく分からないことを得意げに話す)


     良寛というと、江戸後期の禅僧にして歌人である。
     農民と親しくまじわり、子どもらとかくれんぼ
     したり毬つきをしたりする光景が目に浮かぶが、
     これほどに人間を洞察する力をお持ちだったとは!

     九十ヵ条すべて当てはまるのではないかと思われる
     が、上の5つ6つなど、まったく自分のことを云わ
     れているようで恥ずかしい。


     これでも私、口数の多いのも、早口なのも、何とか
     したいと思っているのである。
     人としゃべっていて、ああ、またやってしまったァ
     と自己嫌悪に陥ることもしばしば。

     かつては「寡黙の美学」なんぞとも云った。
     映画にでてくる高倉健のような。

     一方で、西洋とちがって日本人は自分の意見を云わ
     ない、きちっと自分の考えを主張すべきだ、
     という意見もある。
     日本人はシャイである、なんて外国では通じない。  
     それでは世界から置いてきぼりにされるよ、と。


  
     だが、良寛の云うのはそんなことではなく、
     人間の根源に関することであろう。
     知識もなくちゃらちゃらと自説を述べるのは
     はしたないこと、と自己を戒めるべきである。

     それが解って実行できれば……、
     もってめいすべし、である。

     
     

     

子供の夕暮れ

2016-05-05 14:11:34 | 雑記



    ある本を読んでいたら、
    加藤八千代詩集『子供の夕暮れ』を引いていた。
    そのあとがきにはこうあるそうだ。

    「大人とは、子供の夕暮ではないのか」

    社会のことをいろいろ教えられ、躾もうけて
    やがて一人前の大人になってゆくーー
    この過程を誰も疑わないけれども、
    私はこのフレーズにドキッとする。

    なぜならこの言葉には、
    人間本来の存在感や輝きを放つのは子供時代
    から青春期であって、それが次第にくだらなく
   (だらしなく)黄昏れていったのが大人……
    といったニュアンスが感じられるからだ。

    実際、子供時代が終わったと自覚したのは
    いつだったろう。
    まさか自分が子供でなくなるなんてーー。

    いつの間にか背がのびて、学校も卒業して
    気がついたら大人の範疇にいれられてしま
    っていた。
    この中には、ちっとも成長していないのに、
    といったスネた意味合いも籠められている。

    ほんとうは、 
    大人は子供の夕暮れではない、  
    ときっぱり云いたいのに、そう云い切れない
    自分がいる。

    奇しくも今日は端午の節句である。
    大人は子供の黄昏か?
    しばらく私の心は揺れ動くのだろう。

     
    ※ 車を走らせていて見かけた農家の
      こいのぼり
    
    
    

ラストソング

2016-05-01 06:18:45 | 雑記



       先日、知り合いのお父様が亡くなられた。
       99歳の大往生だったが、日頃からお坊さんは
       要らない、戒名も線香も要らない、
       ジョンレノンのイマジンをかけてくれ、と云わ
       ていた通り、子や孫たち30人ばかりの葬儀
       だったそうだ。

       亡くなったのは、入院もせず、輸血をするため
       に病院にいく日だったというから、これぞ
       理想の死に方ではないかと羨ましくなった。

       現在はこのように、本人が望めば、そのように
       葬(おく)られるのだと安心もする。

       ところで、
       この世の最期に聞きたい歌をラストソングと
       呼ぶらしい。
       米国などではホスピスなどの看取(みと)り
       の現場で、音楽を取り入れたケアが確立して
       いるという。

       日本でそこまでいっているかどうかは分からな
       いが、あるところの調査によると、
       「人生の最期に聞きたい曲」はこうなるそうだ。

       ① アメージング・グレイス(讃美歌)
       ② 糸(中島みゆき)
       ③ 故郷/ふるさと(唱歌)
       ④ カノン(バッヘルベル)
       ⑤ 時代(中島みゆき)
       ⑥ 川の流れのように(美空ひばり)

       一位のアメージング・グレイスは「神様に感謝」
       というより、荘厳なメロディーに惹かれての
       ことだろう。
       日本ではトワ・エ・モアの白鳥英美子さんや
       さだ・まさしさんも歌っているから馴染み深い
       かもしれない。

       他に「虫の鳴き声」や「家族の声」を挙げた人
       もいたとか。

       私は?

       まだ決まらない。聞きたい歌と聞いてほしい歌は
       違うと思うから。

       あまり湿っぽいのもどうかと思うし……。

       考えようによっては、これからラストソングを
       考える楽しみができた。


       ※ 鎌倉のコケ寺として有名な妙法寺のコケ