一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

「聞こえ」の問題

2017-05-28 09:01:37 | 健康


     最近、困ったことが起きている。

     電話の声が聞きとれないのだ。
     それも頻繁に。

     電話すべて、ではない。
     振り返ってみるに、役所、学校、病院からの電話に
     それが多い。
     (病院はちょっとした検査予約のために何回か電話
      でやりとりした)

     セールスマンや、どうでもいい電話はよく聞こえて、
     大事な用件に限ってそうなので困っているのだ。

     そういうとき、どうするか。
     
     かすかに聞こえる電話に向かって私は声を張りあげる。
     「もしもし、電話の声が遠いので、こちらから掛け
      なおします。番号を教えてください」
 
     どうやら向こう様には問題なく聞こえているらしい。
     何とか番号を聞きだして、携帯で掛けると良く聞こえる。

     もしかしたら、声が遠くて聞こえない場合、
     相手も固定電話で、配線か何かに問題があるのだろうか。

     それとも、私の耳が悪い?

     高齢者になると耳が遠くなるっていうものなあ。
     何日か前の新聞には「補聴器」の問題が書いてあった。
     心なしか、TVの音も以前より聞こえにくく、ボリューム
     を上げるようになっている。

     気になって、通りかかったお店で「聞こえ」の検査をして
     もらった。
     お店の片隅にある個室に入って、
     左右の耳、別々にイヤホンみたいなものをつけて、
     どれくらいの音を聞きとれるか、検査するのである。

     結果は
     両耳とも標準より(年齢に比して)良好
     ということであった。

     ならば、電話が聞こえないというのは何?
     ウチの電話機に問題あり?

     この際、徹底的に調べてもらわなくちゃ。

     電話もふくめて通信一般を扱っている機関に依頼して
     調査してもらった。

     1時間半ばかり、電話機や天井裏にある配電盤のよう
     なものをいじって検査したら、さしたる問題もないと
     いう。
     「一応、それと関連したところを点検しておきました
      から」
     ということだった。

     その翌日、役所からある用件で電話がかかってきたが、
     やはり声は遠く、元の木阿弥だった。

     目下、電話が鳴ると、それがどこからなのか、
     聞こえるか聞こえないか、
     一瞬おびえる日が続いている。


     

     
     
     
     

小宇宙

2017-05-27 07:18:29 | 雑記


     昨日、一昨日と、梅雨の前触れのように雨が降った。

     ちょっと小雨になったのを見て、このときとばかり
     帽子をかぶって草むしりをした。
     雨で土が柔らかいので草が根っこから取れやすい
     のだ。

     ハハコグサ、カラスノエンドウ、スギナ……
     一口に雑草というけれど、よく見るとみな、
     可憐で一生懸命生えている!

     ダメダメ、そんな憐みを起こしたら草むしりなんか
     出来ない。
     無情にも私の手はどれもこれも荒々しくむしり取る。

     右手、左手を交互に動かしながら、
     私は「老い」というものを考える。

     子供の頃、
     祖父母をみて、彼らはどうしてこんなに年老いて  
     いるのだろうと不思議でならなかった。
     腰が曲がって、声もしわがれて……。

     若さとは薄情なもので、老いた者に同情も思いを
     馳せることもできないのだ。

     やがて自分も年老い、こんどは子供や十代の青年
     たちを見ると、ほんとに若いなあ、とつくづく思う。

     ある人がいっていたけれど、
     若いことの素晴らしさを感じることのできるのは、
     それが失われたときになって、である。

     人は一つの時間を二度体験することができる!
     一度目は当事者として。
     しかしそれは、渦中にいるから、その素晴らしさも
     分からない。

     そして二度目は、
     それを失ったとき。

     ならば、「老い」とは、
     人間の一生をトータルでみると、人生の「刈り入れ」
     のときなのかもしれない。

     人生の仕上げにあたる、この夕刻の最も自由な時間帯
     を輝かしく生きたいものだが……。

     それにしては、わが人生は日々あわただしく、
     煩瑣なことに追われている。
     優雅な「刈り入れ」とはほど遠く、
     余裕のない日常だなあ、という実感である。

     雨が再び降りだして、草むしりは終了。

     ※ 雨どいから流れてくる水でスミレに似た花が
       咲いているのをパチリ。




     
  

     

     

ビタミン信仰

2017-05-20 09:03:10 | 健康


      いつごろだったろう。
      アメリカの研究者は風邪予防に大量のビタミン剤を
      飲むと聞いたのは。

      日本でもミカンのビタミンCは風邪予防にいいとは、   
      古来から云われてきた。
 
      しかしビタミン剤をわざわざ買って必要以上に
      飲むことは考えられなかったし、周囲にそういう
      人もいなかった。

      ところがどうだろう。
      昨今ではTVでタレントが数種のビタミン剤を
      手のひら一杯に飲む光景をみたりする。

      
      「それって、本当に効くんですか」
      という質問には、
      「どれが効いているか分からないから、これ全部
       飲んでいる」
      と、平然と答えたりしている。

      金銭的なこともさることながら、
      私は風邪薬もなるべく飲みたくない。
      というか、
      わずか3~4粒の薬さえ、よほど「これから薬を
      飲むよ」と言い聞かせないと、喉を通ってゆかない
      のである。

      まして、(薬ではないとはいえ)あんなに大量の異物
      (ビタミン剤)を水のごとく飲むなんて!!

      しかし、世間には根強いビタミン信仰があるらしい。

      忙しいサラリーマンや、フルタイムで働くキャリア女性
      は
      「美肌や病気予防など特定の目的をもって飲んでいる
       わけではない。日頃の不規則な生活を補うため」
      つい手軽に摂取しているのだという。
      どうやら、
      サプリメントが日常食のようになっているらしい。

      一方で、
      アンチ・エイジングによいといわれるビタミンEを
      大量に摂取すると、ガンにかかりやすいとか、死亡率
      を高めるといわれて警鐘をならす傾向も出てきた。

      そもそも日本人が健康食品に手を出すようになったのは、
      80年代から。
      経済的に豊かになって、外食する機会が増えたといった
      背景もあるだろう。

      またTVのCMで疲労快復や体力増進の好イメージも
      加担しているに相違ない。

      驚いたことに、
      サプリメントは若い人たちのものと思っていたら、
      70歳以上のサプリメント年間支出は2万3600円。
      これは30歳未満の10倍以上だという。

      よほど私の認識が遅れているのか、
      70歳以上の高齢者がこれほどまでにサプリメントを
      摂取しているとは思わなかった。

      現状はどうかというと、
      サプリメントが必要な人は摂取せず、
      不必要な人が摂取している傾向にあるらしい。

      要するに、「基本は毎日の食生活」にある。

      現在ではサプリメントの摂り過ぎがむしろ、
      健康被害を起こすのだとか。


      ※ ドラッグストアの健康食品売り場
      
      

      
      


      

初のサングラス

2017-05-20 07:40:12 | 健康


       私より2つ3つ若い友人が白内障の手術をした。
      
       どんな状況だったのか聞くと、
       「夜、外を歩けないのよ。こわくて」
       という。
       「何がなんだか分からないの。暗闇の世界に足を
        突っ込むような感じで。こわくてこわくて」
       と肩をすくめる。

       また、同い齢の友人は
       「車を運転していたら、急に視野がせまくなって」
       思い切って手術をした。
       「一泊二日。世界がひろくなったようによく見える
        わよ~」
       と嬉々としていう。


       他にも同年代の女性に白内障手術をした人は少なく
       ない。
       そして、まだ手術をするほどではないけれども、
       予防のためにサングラスをかけている人も結構いる。

       そのため、シニア年代にとって、
       眼に紫外線が入らないよう、予防のためサングラス!
       という考えは私のなかでも定着していた。

       しかし、
       私にとって色つきメガネはハードルが高かった。

       現在、メガネは4つ持っている。
       本、新聞、パソコン(家で使用)のために2つ
       携帯(持ち運び)用にカバンに入れているのが2つ。
       すべて老眼鏡だ。

       日常の生活にはメガネなし。
       車の運転も裸眼である。

       そのため、メガネをかけるのがうっとうしい。
       できればかけたくない。

       そういう思いが先走りして、この4~5年というもの、
       眼鏡屋をみても避けてきた。

       だが、このところ、寄る年波で視力も衰えた気配が
       して、このまま放っておくわけにはいかなくなった。
      
       そして、先日、眼鏡屋に出向いて思い切って
       サングラスを買いました。
       満を持して、という思い(笑)。

       ぬいぐるみのワンワンにかけると、こんな感じ……。
       今日、これから遠出するのでサングラス・デビュー
       になります。
       

       
  
       

沖縄本土復帰45年

2017-05-16 12:49:06 | 雑記


       北海道の釧路ではようやくサクラの開花宣言。

       その前日、沖縄は梅雨入りした。

       日本列島はかくも広くて長い。

       その沖縄では5月15日、
       本土復帰45年をむかえ、読谷村では大会が
       開かれた。

       いまなお米軍の訓練はつづき、中止要請にも
       なんら応えはない。

       この本土復帰45年の現実はいつまでつづくのか。

坂道の街

2017-05-13 20:18:19 | 健康


     さだまさしの
     ♪ 坂のある町
     ではないけれど、
     鎌倉は坂道が多い。

     以前住んでいた所は平たんな平野部だったので
     引っ越してきたときには閉口した。

     それが住んで6年半、いまやUP、DOWN は
     当たり前で、平たんな道が物足りないほど。

     裏の鎌倉山(といっても住宅地)を登れば
     由比ヶ浜と右前方には江の島が見える。
     歩こうと思えば歩ける距離だ。

     家の前方はなだらかな坂道となっていて、
     スーパーや図書館、病院等々、
     気晴らしには周囲の森林を歩き、
     日常の生活には坂道をたったか下る。
     (帰りは当然、上り坂になる)

     しかし、今はいいが、もっと年老いて身体が
     弱ったときどうするか。
     それを心配しないわけではない。

     ところが、先日、新聞に
     「坂道の街は糖尿病リスク減」
     という記事が載っていた。

     緩やかな坂がある地域の高齢者は平らな地域に
     くらべ、重い糖尿病になるリスクが減るというのだ。

     坂道のある街は知らないうちに運動量と筋力が増え、
     血中のブドウ糖が消費され、血糖値の上昇が抑え
     られるというのである。

     もちろん、坂道をいやがって外出をひかえれば
     元も子もないことだが。

     やはり、先のことを心配するより、
     現状をたのしんでせっせと歩くことか。


     ※ 坂道に咲いていた花ショウブ

     

     

     

何でもない一日

2017-05-13 07:35:46 | 雑記


      その日、私はあるところに書類を届けなければならず、
      朝の9時半ごろ出かけた。
 
      すでに日は高く、帽子をかぶってはいるものの、日傘を
      持ってこなかったことを悔いた。
      見ると、会う女性(時間帯もあり、ほとんど年輩)
      は皆といっていいほど日傘を差している。なかには帽子
      をかぶり、さらに日傘を差している人も。

      半分ほどの道のりは来ており、いまさら引き返すこと
      もならず、腕や首筋が日焼けすることを気にしながら
      それでも前進するしかない。

      後先を考えずポッとして出て、すぐに後悔するタイプ。
      こういうことあるなあ、の心境である。

      いちばんの目的を果たし、その足で図書館に寄り、
      先日来思い立って果たせなかった本のリクエストを
      済ませた。

      ああ、喉が渇いた。
      ちょっとした外出のつもりだったので、ペットボトル
      (お茶)は持参していない。

      迷わずコンビニに寄った。
      コンビニのコーヒーはちょくちょく愛用している。

      ところが、ところが、
      いくらカバンをさぐっても財布が出てこない。

      日頃、忘れっぽい私は財布を二つに分けている。
      お出かけやスーパーで大量に買うとき用の財布。
      散歩などに持つ小銭入れ。
      (パン屋で思いついて買ったり、
      道路沿いにある無人販売所で野菜を買ったりする)
      
      コーヒーを目の前に財布が無かったらお手あげ!
      店員は「どうします?」って顔で、見ている。

      カバンをさぐる手になぜか、免許証!
      その日は運動を兼ねての歩きなので、免許証など
      持ってないはずなのに……??

      とっさに、免許証に一万円が差しこんであるのに
      気づいた。
      (これは究極、急場しのぎのお金)

      「あのう、一万円札でもいいでしょうか」
      店員はとうに事情は飲みこんでいるので、
      もちろんOKでした。

      お釣りをたんまりもらって
      (¥9900)
      熱いコーヒーを口にしながら、
      これが認知症のはじまりだったらどうしよう、
      と本気で心配した。

      せっかく小銭ができたのだからと、コンビニで
      2~3買物をして、帰途に。

      空は高く、日はさんさんと降りそそいでいる。
      地元の農家では立派なこいのぼりが風をはら
      んで勢いよく泳いでいた。

      家の近くまできて再び上を見上げたら、
      何と、屋根に昇って煙突掃除をしている男性を
      見かけた。

      サンタクロースじゃないでしょうが!

      自分に突っ込みを入れて、おそるおそる聞いた。
      (びっくりして足を踏みはずさないよう)

      「あのう、写真撮ってもいですかあ」
      「いいよ~」

      すかさずパチリ。

      それがこの写真です。

 

      
  
      

供養

2017-05-05 15:29:26 | 雑記


      先ほどお寺さんに行って猫の供養をしてもらい
      帰ってきました。

      昨年、若いソラという猫が死んだときは家人にまかせて
      付き合わなかったので、私は今回がはじめて。

      お寺さんとはいっても、犬猫霊園はニンゲン様の入り口
      とは違って別棟になっている。

      お経をあげてもらい、線香をたてて拝むのはニンゲンと
      同じ。
      (……ハ~ラ~ミ~……というお経は一般のお葬式でも
       聞くが、ニンゲンと動物では違うのだろうか)

      お代は
      かなりメタボで大きな猫だったので¥16000なり。
      (大きさによって違うらしい)

      さて死なれてみて初めて、その愛らしさに気づく感情は
      どうしたことだろう。
      決して猫好きでもなく(むしろ嫌い!)、たいして
      可愛がらなかったくせに、である。

      生後3年くらいに、娘夫婦が北欧に行くので2ヶ月ばかり
      預かったことがある。
      (当時、私は夫を亡くし独り暮らしだった)

      マロはちょうど少年期のやんちゃ盛り。

      歯をみがいていると、突然、背中によじ登ってくる。
      (後ろ姿にスキがあるのだろう)
      夏だったのでTシャツ一枚だと背中に爪があたって
      びっくりするやら、痛いやら。

      私が外出から帰ると、玄関で横になって甘えてくる。
      (遊んでもらいたい?)
      そして着替えをする足元にからまりついてくる。

      かと思うと、
      猫は夜行性だから、夜中に家じゅうをダーッと走り
      まわる。

      等々、悪行のかぎりを尽くして、マロが帰ったとき
      は心底ほっとした。

      そんなやんちゃなマロも7~8年たつと落ち着いて
      きて、さすがに背中によじ登ることはしなくなった。
      私はかえって、人間の老いをみる気がして、せつない
      思いがしたものだった。

      そして、昨年は膵臓に腫瘍ができて(犬猫の)大病院
      で摘出手術。
      
      マロもこれまでか、と思われたが、なんとか乗り切った。
      でも老いにあらがうことはできず、静かに餌を食べ、
      一日のほとんどを寝ていることが多くなった。

      この一年、
      私は自らの老いと重ねあわせ、複雑な思いで見守った。

      死は突然やってきた。
      (死というものはいつでもそうだが)

      供養をしてもらい、帰る車の中で、そんなことを思い、
      さあ、家に着いたらマロの使っていた部屋の掃除だ!
      と自らを鼓舞した。

      ※ 写真は飼いはじめたころの赤ちゃんのマロ
      
      

      
      



      

      
      

猫の死

2017-05-05 07:59:54 | 雑記


       一匹だけ残っていた老猫のマロが一昨日、死んだ。

       アメリカンショートヘア 雄 生後15年

       3日前、私が千葉の親戚を訪ねて夜遅く帰宅した。
       猫のいる二階でけたたましくマロの鳴き声がする。
       (ふだん、マロはほとんど鳴かない)
    
       よほどお腹がすいているのか。
       そう思って、餌をやろうと二階に上がった。
       マロは子ども部屋の前でうずくまっている。

       どうやら下半身がうごかなくなった様子。
       けたたましく鳴いたのは最後の叫びだったのだろう。

       水をやると、それでもぺろぺろと舌をならして
       少し飲んだ。

       ああ、よかった!
       少し胸騒ぎはするものの、水を飲む元気があること
       に安心して、私は階下で夕食やお風呂の用意等々。

       翌朝、二階が異様に静か!
       マロは前日の夜のそのままの姿勢でこときれていた。

       マロ、頑張ったね!!
       思わず、涙した。

       人間なら痛いの痒いのといって大騒ぎするだろうに、
       猫はひとりでひっそりと死んでゆく。
     
       人間より動物の方がよほど崇高だ。
       最後にけたたましく鳴いたのは断末魔の叫びだった
       のだろう。
       はからずも最後に水を飲ませたことで、この私が
       死に水をとったことになる。

       ふだん、猫をあまりかわいがらなかったくせに、
       私は深く胸を揺さぶられていた。

       しかし一方で、さあ、どうしようという思い。

       家人はゴールデンウィークの最初の日に旅行に出て
       帰ってこない。

       猫アレルギーのある私は死んで物体と化したマロを
       抱きあげることもできない。

       咄嗟(とっさ)にやったことは、
       新しいタオルを出して掛けてやり、大きい保冷剤を
       お腹まわりに当ててやることだった。
   
       (家人が帰ってくるまで保つだろうか)

       そして夕べ、ようやく家人が帰ってきた。
       大きい段ボールに布を敷いてマロをおさめ、
       保冷剤を新たに入れて、お寺さんに連絡。

       今日、これからお寺さんに行ってマロを焼いてもらい、
       納骨の予定です。

       猫の15年というのは、人間でいうと70代半ばらしい。
  
       ほとんど同世代のマロの死をいたみ、
       自分はあんなに見事に死ねない、という思いに駆られて
       いる。


       ※ 在りし日のマロ